ローリエ侯爵の憂鬱2
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ケイトリンとレイモンドの婚約を解消し、新たにクラリッサとレイモンドを婚約させる――そう告げた途端、優しいケイトリンは大人しく受け入れるだろうという予想を裏切り、ひとり部屋を飛び出していった。
その反応は予想外だったが、突然のことに混乱しているのだろう。今頃部屋に閉じこもっているに違いない。時間が経ち冷静に考えられるようになれば、この提案が一番家族全員、ひいてはローリエ侯爵家のためになるとケイトリンも理解するだろう。
私たちはそのまま話し合いを続け、レイモンドにはその場でケイトリンとの婚約破棄の書類とクラリッサとの婚約締結の書類にサインをさせた。レイモンドは終始俯いていたが、大きな抵抗をすることなく書類にサインした。久々にクラリッサの憂いのない笑顔を見て私は安堵した。
予想外にケイトリンが臍を曲げてしまう展開にはなったが、いずれ時間が解決してくれるだろう。クラリッサが執務に慣れるまでは、レイモンドだけでなくケイトリンに補佐について貰うのもいいかもしれない。
先々のことに思いを馳せる私は、この時ケイトリンがどんな気持ちだったかなんて、考えもしなかった。
ケイトリンは昔から物分かりがいい子だった。今回もきっと分かってくれる。
そんな根拠のないことを心底信じていた。
今日はケイトリンとレイモンドの婚約が解消された日ではあるが、クラリッサとレイモンドの婚約が結ばれた目出度い日でもある。
我が家の歴史に残る大切な日となるのだから、久々に家族揃って夕食を食べようと、侍女に言いつけ顔を見せないケイトリンを自室まで呼びに行かせた。レイモンドは夕食を固辞しようとしたが、折角だから今まであまり交流のなかったクラリッサと仲良くなって欲しいと思い引き留めていた。
血相を変えた侍女が飛び込んできたのは数分後のことだ。扉の外から何度呼びかけても返事がないので不審に思い、部屋を覗くとケイトリンの姿がなかったという。
慌てて屋敷中を探させたが姿は見えず、門の前に立っていた守衛に聞けば、制服を着た若い女性が随分前に走り去っていったという。突然のことに、止める暇もなかったらしい。
運の悪いことに今日の守衛の男は、守衛の一人が事故で脚に怪我を負ったため、最近縁故で雇い入れたばかりの男で、私の顔は覚えていても、娘二人の顔は覚えていなかった。まさか侯爵家の令嬢が護衛も付けず、あまつさえ制服で走り去るなんてするわけがないと思った男は、娘の学園の友人か何かが急いで家に帰っていくところだと思ったという。
血相を変えた私に詰め寄られ、己が犯したとんでもない失態に青ざめる男を屋敷の地下に捕まえておくよう指示すると、屋敷中の使用人を集めてケイトリンを探しに行かせた。
貴族令嬢が荷物一つ持たず、護衛もつけずにふらふら出歩いて無事でいられる程、王都の治安は良くない。特に今は夕暮れから夜に差し掛かっている。ケイトリンの無事を祈りながら、一刻も早く見つけるよう私は檄を飛ばした。
***
「まだ見つからないのか……」
無駄な報告書が積み重なっていくのを見ながら、私は頭を抱えた。
ケイトリンが姿を消してから一カ月――未だ行方は知れない。
貴族令嬢が家出などとんでもない醜聞だ。これが世間に漏れればどんなに美談を流したところでまともな縁談が来なくなってしまう。
大っぴらに探すことが出来ないため、密かに雇った密偵や傭兵に金を積み、秘密裏に捜索させているが今の所成果はない。
本来ならばまだ発表すべきではないがクラリッサの学園卒業が差し迫っているため、表向きケイトリンは急な体調不良で領地にて療養していることにし、クラリッサとレイモンドの婚約発表と、クラリッサが侯爵家の後継となるための手続きを王宮に提出した。
予定通り“妹が姉を思い婚約者と後継を譲った”との美談も流し始めてはいるが、肝心のケイトリンの姿が見えないためいまいち信憑性に欠けてしまう。
新たな婚約を発表してからというもの、上辺だけの祝辞は投げかけられるものの、周囲から遠巻きにされている。
レイモンドとの婚約発表後、クラリッサは再び学園に通い始めたが、僅か数日で再び家に籠ってしまった。どうやら、殿下との婚約破棄でクラリッサに同情的だった令息令嬢たちから、妹から全てをむしり取った悪魔のような女として非難されたらしい。
レイモンドの方も相変わらず――というより、経験に乏しいクラリッサのフォローをするため、以前より頻繁に我が家を訪れているが、その顔色は悪い。長年の婚約者を捨て、その姉に乗り換えたと噂する者もいるという。
それもこれもケイトリンが自分の口で説明しないからだ。
ケイトリンの無事を祈る一方で、折角打開策を見つけたというのに、自分のことばかり考え侯爵家の顔に泥を塗ろうとしているケイトリンに苛立つ。
唯一救いとも言えるのは、周囲から人が減った辛さを共有することでクラリッサとレイモンドの距離が近づいたということだろう。ぎこちないながらも年頃の男女として共に過ごす様は初々しく、二人で御揃いのピアスを着けている姿は相思相愛の婚約者にしか見えない。
ケイトリンと並んでいた時にはどれだけ仲が良くても男女間の恋情は感じ取れなかった。私の決断はやはり間違っていなかったはずだ。
どうしたものかと頭を抱えていた時、王家からとある打診があった。
ケイトリンへ王弟、ナルサス・コ―ウェン公爵の後妻にならないか――と。
ケイトリンが姿を消した頃、王家も殿下の婚約破棄や再教育でてんやわんやだった。ケイトリンがいつ戻ってきてもいい様、念の為ケイトリンを乗せていると偽装させた馬車に侍女をつけ領地の屋敷へ送り、金を積んだ医者に定期的に足を運ばせているので、王家の人間もケイトリンが領地で静養していると思っているのだろう。
王弟ナルサス卿といえば、素行不良で有名だ。明らかにケイトリンの領地経営の能力欲しさだということが透けて見えていたが、相手は仮にも王族の一員だ。王太子殿下の理不尽な婚約破棄の煽りを受けたケイトリンへの償いも兼ねて、と言われてしまえばこちらとしても断りづらい。
実際、素行不良な点を除けば、王太子とクラリッサの婚約破棄で切れかかった王家との縁を繋ぐことも出来る上、我が家より上位の公爵家へ嫁げるこの婚約はそう悪いものではない。コ―ウェン公爵領は先妻の手腕もあり未だ豊かな土地で財産もそれなりにあり、金に不自由することもないだろう。
幼い頃から、ケイトリンには次期当主とすべく教育を叩き込んできた。それらの教育は侯爵家の爵位を継ぐことを前提で施されたものであって、ただの貴族令嬢として爵位持ちの男と結婚したところで、宝の持ち腐れになってしまう。それは勿体ないと私も思っていた。
ナルサス卿と結婚すれば、これまでケイトリンに授けた領地経営の知識も活かすことが出来る。
悩んだ末、ケイトリンの体調が快方に向かった暁には正式に婚約を結ぶ、という条件で仮の婚約を結ぶことになった。放っておいても、ナルサス卿に瑕疵の無い自分の娘を積極的に嫁がせたい親もそうはいないから、ケイトリンが見つかるまで暫くこの仮婚約のままでも大丈夫なはずだ。
もし戻ってきたケイトリンがどうしても嫌だと言うのであれば、その時は体調不良を理由に断ってもいい。ケイトリンが戻ってくるまでの間に、ナルサス卿以外にケイトリンに相応しい相手も数人見繕っておくことにしよう。
***
そうして過ごして数か月が経った頃、ダンウッド公爵家のハワード様に連れられ、レイモンドが我が家にやってきた。聞けば、ケイトリンに似た娘を平民街で見かけたという噂を耳にしたレイモンドが、噂を聞くなり学園を飛び出し娘に会いに行ったのだという。ハワード様は咄嗟にそれを追いかけたそうだ。
見つけた娘は髪を黒く染めていたが、我が家の娘であるケイトリンに間違いはなかった。
驚くべきことに、身一つで飛び出した娘は平民としてとある商会で働いていた。時々店頭に立つこともあったようだが、普段は商会の中で書類作業をしているため目撃情報が無かったのだ。
「む、娘はっ、娘は無事ですか!?」
「ああ、特に問題なく暮らしているようだった」
頷くハワード様に、私は全身の力が抜けた。考えないようにしていたが、破落戸に拐われ闇市場で売られている可能性や、女性としての尊厳を踏みにじられる行為をされている可能性もあったのだ。
ひとまずは無事であったことにほっとした。
「それで、娘は何処です?連れ帰ってきてくださったのですよね?」
「いや……」
項垂れたまま言葉を発しないレイモンドに代わり、ハワード様が歯切れ悪く首を振る。
「な、何故ですか!?何故娘を連れ帰ってくださらなかったのですか!」
「本人の希望だ」
「……え?」
「彼女が、ここには帰りたくないのだと言っている。今の自分はケイトリン・ローリエではなく、平民のただのケイトだ、とな」
「な、なぜ……」
「……分からないのか、ローリエ侯爵?」
真正面から真面に視線を受け、そこで初めて私はハワード様の瞳の中に浮かぶ侮蔑の色に気付いた。
「殿下の婚約破棄には我が兄の責任も少しはあるから、と何も言わずにはいたが……貴方には親の心、いや、人の心がないのか?」
「な、何を……」
「何一つ悪くないケイトリン嬢に、どうしてあんな酷い仕打ちが出来るんだ?俺には全く理解出来ない。俺がケイトリン嬢でもこの家にはいたくないと飛び出していただろう」
「なっ……!」
嫌悪を隠そうともしないハワード様の態度に私は面食らっていた。いくら格上の家の令息とはいえ、爵位を継いでいる私とそうでないただの公爵家の子息でしかないハワード様では私の方が社会的立場は上だ。
憤る私の様子には構わず、ハワード様は続ける。
「思えば、この家の人間は皆、いつもケイトリン嬢ではなくあの女狐――クラリッサを優先していたな。あまり関わりのない俺でもそう思うくらいだ。家の中でケイトリン嬢がどんな扱いを受けていたか考えると同情しかない」
「私たちは娘ふたりを平等に愛している!」
「平等?どこがですか?婚約者も後継の座も、彼女が築き上げてきたものを全てむしり取って姉に与えて――おまけに王家の厄介者とくっつけようとしている。それでよく平等に愛しているとか言えますね?何かやばい薬でもキメてるんですか?本当にそう思っているなら医者にかかった方がいいですよ」
「むしり取ってなどいない!あの子は優しい子だからそんな風に思うはずない」
私の言葉にハワード様ははぁ、と大きくため息を吐いた。
「貴方の中ではそうなのでしょう。でも周りから見た事実は違う。ケイトリン嬢は確かに優しい女性だ。これまでどれだけ蔑ろにされてきても文句を言うことも無かっただろう。でもそれは優しいからじゃない。貴方たちがそうあるように強要してきたからだ。理不尽をずっと呑み込んできたんだ。貴方たちはこれまでずっとケイトリン嬢を蔑ろにしてきたから、今度もまた彼女を蔑ろにし、何もかも奪い取っても気にすらしなかった。流石に彼女も限界を迎えたんだよ」
私たちがケイトリンを蔑ろにしていた?そんなことはない。そりゃあ、王妃教育に時間を取られ、我が家で過ごす時間が少なかったクラリッサを優先してしまうことはあったかもしれないが、ケイトリンはいつだってにこにこと笑っていたんだ。それを、私たちが強要していただと?
「侯爵、貴方は殿下に対して、王家に対して憤っていましたよね。幼少時から沢山の時間と努力を積み重ねてきたクラリッサ嬢の未来を理不尽に奪われたと。娘が不憫でならないと」
「ああ、その通りだろう!間違っているとでも言いたいのか」
「いいえ、その通りだと俺も思いますよ。それが分かるのに、どうしてケイトリン嬢のことは分からないんですか?彼女だって、クラリッサ嬢と同じように幼少期から侯爵家を継ぐため、ずっと教育を受けてきた。今のような立派な淑女になるには、沢山の時間と努力が必要だったでしょう。彼女には何の瑕疵もないのに、ある日突然それを取り上げられた。それも実の両親と姉にね」
「そ、んな……そんなこと……」
ハワード様はまるで子供に諭すような話し方だった。
恥ずべきことに、そうされて初めて、私はこの時自分の犯した過ちに気が付き血の気が引いた。
そうだ。ケイトリンだって小さい頃からずっと頑張っていた……。王太子妃の妹として、次期侯爵として恥じないよう、厳しく躾をしたし、雇った家庭教師にも厳しくするよう指示していた。
どんなに辛くても、ケイトリンは投げ出したことはなかった。時々こっそり涙することはあったようだが、暫くすると再び机に向かっていった。
レイモンドとの仲も良く、二人になら安心して侯爵家も任せられると……そう思っていたはずじゃないか……。
「貴方がやったことは、殿下となんら変わらないんですよ。むしろ、血の繋がった実の親であるだけたちが悪い」
ハワード様の言葉が突き刺さる。
私には何も……何も言い返せない。
「それは、お前も同じだ。レイモンド」
ハワード様に鋭い声を向けられたレイモンドの肩がびくりと跳ねる。
「お前だけは、ケイトリン嬢の味方だと……仕方なくあの女狐に付き合っていると思っていたのに、俺の見当違いだったと今日分かったよ。お前にはがっかりだ。レイモンドも侯爵も、二度とケイトリン嬢には近づくな」
「ハワードに言われる筋合いはないだろ……」
顔を上げたレイモンドの瞳はぎらぎらと不穏な光を宿している。そんなレイモンドを見ても、ハワード様は氷のような視線を送るだけだった。
「そうか?少なくともお前と違って俺は彼女の友人ではあるからな。彼女を捨てたお前より余程口出しする権利はあると思うが」
「だからっ!俺はケイトリンを捨ててなど――」
「捨てただろ?お前も、侯爵も、夫人も。あの女狐だけは捨てたというより追い出した、と言う方が正しいかもしれないが。お前たち皆、彼女を捨てたんだ。ケイトリン嬢よりクラリッサ嬢を選んだんだよ、自分の意志でな。本当に彼女のことを思うなら、もう放っておいてやるべきだ。貴方たちの傍にいても搾取されるだけで彼女は幸せにはなれない。彼女は既に自分の居場所を見つけたんだ。今度あの商会に手を出してみろ、ただではおかない」
違う違う違う。ケイトリンよりクラリッサを選んだわけじゃない。
ケイトリンだって私の可愛い娘だ。大事な娘だ。
だけど今の私にそれを口にする資格はないのだろう。
結果が全てなのだ。
いくら私がケイトリンのことを愛しているといったって、私の、侯爵家のケイトリンに対する扱いを見れば、誰もそうは思わない。
――貴方たちはこれまでずっとケイトリンを蔑ろにしてきたから、今度もまた彼女を蔑ろにし、何もかも奪い取っても気にすらしなかった。
ハワード様の言葉が頭を過る。
そうだ、その通りだ。幼い頃からずっと、ケイトリンなら分かってくれる、あの子なら大丈夫と、いつの間にか勝手にそう解釈して我慢を強いていた。
私たちにその自覚はなくても、事実としてずっとそうだったのだ。
玄関先に座り込む我々を最後に鋭く一瞥すると、ハワード様は振り返らず去っていった。
***
ケイトリンがいなくなってから一年が経った。ハワード様に釘を刺されたものの、どうしてもケイトリンに戻ってきて欲しかった私は、あれから何度か件の商会を訪れていたが、ケイトリンは突然出て行ったと言われそれ以上のことは聞き出すことは出来なかった。
侯爵家として圧力をかけようとしたが、ハワード様の言葉通りダンウッド公爵家が支援しているらしく、我が家としてはどうしようもない。せめても、と思い商会周辺を見張らせてはいるが、レイモンドが訪れて以降ケイトリンの姿を見かけることはなかった。
ケイトリンにとって、私はいい父親ではなかっただろう。ケイトリンのためを思うなら、ハワード様の言う通り、このままそっとしておくべきなのかも知れない。
けれど、それでも私はローリエ侯爵家を預かる者として、これ以上我が家の評判を落とすことは避けなければならない。
クラリッサは渋い顔をしていたが、私の一存でレイモンドとの結婚式は延期させていた。レイモンドはまだ学園生であるし、何より結婚式に元婚約者である妹の姿が無い、となれば、今以上に良くない状況になるのは目に見えていたからだ。
しかし、いつケイトリンが戻って来られるのか分からない中、既に学園を卒業しているクラリッサは苛立ちから癇癪を起こすことが増えていた。少し我儘で気位が高い所はあるものの、穏やかで優しい子だと思っていたクラリッサが使用人に当たり散らす様を見て、私は自分の見る目の無さに愕然とした。妻と私の前では以前のように可愛い娘の姿に戻るが、私はもう以前のようにクラリッサを盲目的に可愛いと思うことは出来なくなっていた。
私は何故クラリッサばかりを優先していたのだ?
過去を振り返れば振り返るほど、自分の罪を突き付けられた。クラリッサとは色々な場所に出かけ、強請られれば宝石もドレスも買い与えた。ただでさえ一緒にいられる時間が短い上に、王太子妃、ひいては王妃となれば親とはいえ一臣下となり、娘として扱うことは出来なくなるのだから、と。
けれど、いくら考えてもケイトリンとの思い出が浮かばないのだ。確かにケイトリンとはクラリッサより一緒に過ごす時間が長かった。でもそれは、当主教育の中でだ。あくまで当主と次期当主という関係の中で接していただけで、父と娘として過ごした時間ではない。
ケイトリンはこの家を継ぐのだから、これからも一緒に過ごすことが出来るのだから――そんな風に思っていたから、ケイトリンとまともに出掛けたこともない。クラリッサのように何かを強請られ、買ってやったこともない。
久々に足を踏み入れたケイトリンの部屋を見て、私は驚いた。とても年頃の女性の部屋には見えなかったからだ。部屋には机とドレッサー、本棚、最低限のドレスや宝石があるだけで、唯一少女らしいものといえば、私には見覚えのない古びたうさぎのぬいぐるみ位だった。ケイトリンはこの家から何も持たずに出て行った。だというのに、ともすれば質素ともいえるこの部屋はどういうことなのだろう。
私や妻はクラリッサの部屋で一緒にお茶をすることも多かったから、クラリッサの部屋の様子はよく知っている。クラリッサの部屋はその昔強請られて買ってやったぬいぐるみや美しい硝子細工、動物の置物やオルゴールなど、可愛らしい小物で溢れていた。
これまでの自分の行いを突き付けられているようで、私は暫くケイトリンの部屋で蹲っていた。
ケイトリンのことをいくら愛していると私が言ったところで、これでは信じてもらえなくても仕方ない。姉のことばかり優先する私に、我儘など言える筈がない。何かを強請れる筈もない。
もっとちゃんと向き合えば良かった。クラリッサにしてやったように、ケイトリンにも愛していると、言葉で、行動で示してやれば良かった。そのうち、なんて言わず色々な所へ一緒に行けば良かった。
厳しくするだけが教育ではないのに、何故親子としての時間を持とうとしなかったのか。
後から後から後悔が湧いてくる。
ケイトリンはこの家で……何を思いながら暮らしていたのだろうか。
癇癪を起こす頻度の高くなってきたクラリッサに、いつまでも結婚を待てとは言えなかった。仕方なく、ケイトリンは“体調不良”で不在のまま結婚式を行うことになった。
以前から我が家と交流のある貴族家や、クラリッサやレイモンドの友人たちに事前に招待状を送っていたが半数以上から欠席の返信が届いた。
結果、華々しい式を思い描いていたクラリッサの希望とは裏腹に、人のまばらな寂しい結婚式となった。参列してくれた招待客の殆どが表面上は「おめでとう」と言いながら、内心では全くよく思っていないのが丸分かりだった。
クラリッサは殆ど意地になっているのか、レイモンドに腕を絡め密着し仲の良さをアピールしていたが、肝心の新郎であるレイモンドの顔は沈んでいる。
てっきりクラリッサと上手くいっていると思っていたレイモンドだが、ケイトリンに拒絶されたあの日以降、以前のように明るい笑みを浮かべることが無くなった。学園の友人からも遠巻きにされ、実家の家族からも距離を置かれているようだ。ライト子爵家は家族仲が良かったはずなのに、式の前も一言おめでとう、と言ったきり、誰もレイモンドに近づいてくることはしなかった。
大事なものが掌から砂のように零れ落ちていくのを、私は、私たちはただ茫然と眺めることしか出来なかった。
***
「あら、次期ローリエ女侯爵のお出ましよ」
「まぁ、では隣にいらっしゃるのが噂の妹君から略奪したお方ですのね」
「殿下のことがあった時には同情していましたが、まさかあれほど被害者面しておいて妹君にそれ以上の仕打ちをするとは、恐ろしいですわよねぇ」
くすくすくすくすと、今日も遠巻きに笑い声が聞こえる。必要があって出席した夜会だったが、クラリッサは明らかに怒りの表情を浮かべており、その隣のレイモンドは蒼い顔で俯いている。
此処で面と向かって口論するわけにはいかない。私はレイモンドにクラリッサを抑えておくよう言いつけたが、近頃感情の制御が出来ていないクラリッサがいつ爆発するかと思うと冷や冷やしていた。
レイモンドとの結婚以来、クラリッサに来ていたお茶会や夜会の誘いはパタリと無くなった。レイモンドの婚約者がクラリッサに代わりケイトリンの姿が見えなくなった上、外で使用人に当たり散らす場面を他家の使用人に目撃され、あっという間に噂が広まった。我が家が高位貴族でなければ、どの家も関わりたくないと思っているのは肌で感じる。
殿下の婚約者時代に仲良く行動を共にしていた令嬢たちも、手の平を返したように近寄って来なくなった。それがまたクラリッサのプライドを傷つけ、癇癪を起こす原因になり……と悪循環だ。
上手く行っていないのは貴族間の付き合いだけではない。
次期侯爵として、経験の乏しいクラリッサだけでは難しいので、私やレイモンドがフォローしながらではあるが今までケイトリンが主体となっていた侯爵家の仕事をクラリッサが引き継いだ。
ケイトリンは高位貴族家の令嬢にしては珍しく、使用人や平民にも気さくに接し、公の場以外では気安い口調で話していた。ケイトリンが当主代行として領民と関わっていた時は関係も良好で、領民長の家や領地の屋敷の庭に招いて皆で食事をすることもあった。私も勿論参加したことがある。
突然姿を消したケイトリンと後継者の交代に、領民は皆困惑していたが、初めの内はそれでもそれなりに好意的に接してくれていたと思う。領民長を始め、彼らは彼らなりに思うところがあっただろうに、クラリッサに歩み寄ろうとしてくれていた。
ところが、クラリッサの気位が高い所が災いしてしまった。ケイトリンにするように気安い態度で接する領民たちに我慢がならなかったようで、私やレイモンドのいない所で彼らに暴言を吐いたらしい。レイモンドの必死のフォロー虚しく、彼らはクラリッサとは最低限の言葉しか交わさなくなった。
侯爵家と領民の間には今や深い溝が出来つつあった。
止めを刺したのは、ここ数年ケイトリンとレイモンドが中心となって開発していた特産品だ。これまではそのまま瓶に入れて販売するだけだった蜂蜜を、美容クリームやヘアオイルに加工し売り出すため研究を重ねていた。
本来であればケイトリンとレイモンドが学園卒業後、結婚した際に発表する予定だったが、思ったよりも開発は順調に進み、ケイトリンが姿を消す少し前にはほぼ完成していたため、クラリッサとレイモンドの結婚を機に大々的に売り出すことにしたのだ。突然侯爵家の後継者になったクラリッサへの風当たりは強い。ここで開発したものが流行すれば、クラリッサが再び社交界で受け入れられるきっかけになると考えたのだ。
読み通り、婚約破棄以来落ちていた我が家の評判にも関わらず、女性を中心にそれらの商品は中々の売り上げを見せていた。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、私たちの望むような展開にはならなかった。
数年に渡りケイトリンと開発に取り組んでいた領民や研究者たちが、ケイトリンの手柄を横取りしたとクラリッサだけでなくレイモンドや私まで白い目で見るようになった。間接的にそれが他家にも伝わり、クラリッサが開発に関わっていないことが周知されてしまった。
「俺は貴族のことはよく知らないから、侯爵様の跡継ぎがケイトお嬢様でなくなったことに関しては何か事情があるんだろうと思ってとやかく言う気はなかったが……跡継ぎの座やレイ坊ちゃんだけでなく、功績まで奪うなんてな」
そう言って領民長から向けられた冷たい視線は忘れられない。
視察に行っても領民とトラブルばかり起こすため、とてもではないがクラリッサを窓口にすることは出来ない。仕方なく、白い目で見られてはいるが、一応まだ会話はしてもらえるレイモンドが彼らとの橋渡しをすることになったが、以前のように皆が笑顔で集まる姿を見ることは無くなった。
レイモンドの婚約者を入れ替え、侯爵家をクラリッサに継がせようと考えついた時には、全てが上手くいくと思っていた。これでローリエ侯爵家も安泰だと。
だが蓋を開けてみれば、家族は滅茶苦茶になり、侯爵家はゆっくりと衰退の道を辿っているように思えてならない。
屋敷の雰囲気は暗く、頻繁に癇癪を起こすクラリッサとそれにうんざりした様子のレイモンドは最近では一緒にいることも少なくなった。当然跡継ぎなど期待出来ない。
深夜、眠れず目を覚まし屋敷内を歩いていると、誰もいないパティオにレイモンドの姿を見つけた。じっと見つめる手の平に乗っているのは、見覚えのあるピアスだった。月の光に輝くそれは、かつてケイトリンとレイモンドが揃いで着けていたものに違いない。もしクラリッサが未だレイモンドがそれを大事に持っていることを知ったら、酷い癇癪を起こすに違いない。
レイモンドの頬を静かに伝う涙を見て、私は声を掛けることが出来なかった。
***
ある商会から発売されている立体の刺繍を使った服や小物が話題らしい――出入りの商人からそんな話を聞いた私は、ふと胸騒ぎを感じ販売元を調べた。それはかつてケイトリンが働いていた商会だった。
あの商会には未だに見張りをつけているが、ケイトリンらしき姿を見たという報告は一度もない。
しかし、使用人に身分を隠して買いに行かせた実物を目にした私はそれがケイトリンの作った物だと確信した。
いつだったか、一度だけケイトリンに刺繍を施した見事なタペストリーを貰ったことがある。
領地の風景の一部を切り取ったようなそれは見事なもので、花の一部や虫が立体的に刺繍されていた。未だ領地の自室に飾ってあるくらいだ。
私は最近件の商会に入ったばかりの男を秘密裏に買収し、刺繍の作者について探らせた。男によると、隣国の支店に勤める女性が趣味で始めたものだと言う。すぐさま隣国に送り込んだ密偵の報告により、私はケイトリンが商会の隣国の支店で翻訳の仕事をする傍ら、刺繍の仕事を請け負っていることを知った。ケイトリンはどうやら商会の同僚と結婚し、子供まで生まれているらしい。
クラリッサとレイモンドの間に子供が出来る気配はない。
ケイトリンの産んだ子供を侯爵家で引き取ることが出来れば、双方にとって悪いことではない。
我が家には跡継ぎが出来るし、自分が当主になれなくとも最終的に自分の産んだ子供が当主になれると分かれば、ケイトリンの溜飲も下がるのではないか。再び侯爵家に戻ってくることは無くとも、交流を持つことくらいは出来るだろう。
いてもたってもいられず、ケイトリンに取り次ぐよう何度も商会を訪れたが、するりと躱された上にダンウッド公爵直々に釘を刺されてしまった。ならば、と直接家を訪れようとしたが、公爵に動きを察知されそれも阻止された。社交界で居場所を無くしつつある我が家は、これ以上公爵家から睨まれるわけにはいかない。
渋々引き下がった私だが、隣国に送り込んだ密偵からケイトリンに男児が生まれたと聞き、やはり諦めきれず連絡を取ろうとしたが、何処から聞きつけたのか、隣国の祖母の生家である公爵家からも『これ以上又従妹に手を出すな』と脅しのような手紙が送られて来て、諦めざるを得なかった。
毎日のように聞こえるクラリッサの癇癪と破壊音。
疲れの抜けない蒼い顔で執務をこなすレイモンド。
侯爵家を取り巻く環境の変化による心労から体調を崩し寝込んでいる妻。
そして――それを傍観することしか出来ない情けない自分。
以前のような、幸福な家庭が戻ってくることはもう二度とないだろう。あの幸福は、ケイトリンの忍耐の上に成り立っていたまやかしだったのだから……。
最後、レイモンドや姉視点も書くつもりだったのですが、どうもざまぁを書くのが得意ではないようで、父親目線でそれとなく侯爵家の人々のその後に触れるに止めました。
拙いですが、最後まで読んで下さりありがとうございました。
ステイホームやテレワークなんかで隙間時間のある方は、作者ページから他の作品も読んでいただけると嬉しいです。(連載は投稿が少し滞っていますがそろそろ再開予定です)
~入りきらなかった設定~
・そもそも父侯爵がクラリッサにレイモンドと結婚させ侯爵家を継がせようと考えるようになったのは、姉が何度も「ケイトリンだったら……」と涙ながらに語り誘導したから。
・実は隣国への準備期間中にマルスはハワードに連絡を取っており、ケイトリンに内緒で隣国に渡ってからも度々連絡している。ハワードは子供の頃からケイトリンに同情していたため、マルスに協力的。
・ケイトリンの父侯爵が隣国の公爵家に釘を刺されるに至った背景には、マルスがハワードに連絡→ハワードが殿下に連絡→殿下がミーシャ嬢を通し隣国のミーシャ嬢の実父に連絡→ローリエ侯爵家に怒りの手紙 ……という流れがあったのですが、ややこしいので省略しました。姉の元婚約者であった殿下は、クラリッサのことは嫌いでもケイトリンのことは嫌っておらず、自分が婚約破棄した煽りを受けた彼女に負い目を感じているため協力的。