チョコレートケーキと薔薇の花
読んでいただきありがとうございます。
「ケイト?明かりもつけずに何しているんだ?」
どのくらい時間が経っていたのだろう。
気が付くと、部屋の中は真っ暗で、開いた扉の前にはマルスさんが立っていた。
「ごめん、ノックしたけど返事がなかったから……ってケイト?聞いてる?」
私の様子を不思議に思ったらしいマルスさんが、私の手元に視線を落とし目を見開いた。
「それ……」
「あ、あの、これは、その……!ま、マルスさん、私、全然気が付かなくって……!」
「ちょ、ちょっと待って!」
「え?」
暗くてよく見えないけれど、私を遮ったマルスさんが必死な顔をしているのは分かる。
「えっと、とりあえず灯りをつけよう」
言われるがままに部屋の灯りをつけると、マルスさんにそのまま自然にエスコートされダイニングのテーブルに座らされる。
私が帰って来た時には何も無かったテーブルの上には、小さなチョコレートケーキが置かれている。
家から少し離れたところにあるカフェのケーキだ。真四角に切られたスポンジの合間にはナッツと刻んだチョコ、チョコレートを混ぜたクリームが挟んであり、周りも同じクリームで美しく飾り付けられている。
貴族の頃ならいざ知らず、平民となった今の私にとってチョコレートはかなり高級品の部類に入るため、特別な仕事が終わった日などにご褒美として食べているものだ。
「マルスさん……?これは?」
傍らのマルスさんを見上げると、マルスさんが徐に跪いた。
戸惑う私を見上げ、マルスさんが緊張した面持ちで告げる。
「今日で、君と出会ってからちょうど一年だから、そのお祝い」
出会って一年――私が初めてマルスさんと会ったのは商会に入った初日だった。あれからもう一年が過ぎたなんて信じられない。
「わ、私ですら忘れていたのに……覚えていてくれたんですね」
「当然。初めて会った時から可愛い子だな、って思ってたからね」
面と向かって可愛いと言われ、思わず頬が熱くなる。
揶揄うような声色とは裏腹に、マルスさんの表情は硬い。
「ケイト、俺はただの平民だけど……俺に出来る全てを使って君を守るよ。君と生きていきたい。君を愛している」
どこから出したのか、いつの間にか目の前には薔薇の花束が差し出されている。
12本の薔薇の花――鈍い私でも、それが意味することは流石に知っている。
「マルスさん……私、わたし……」
「君がひとりで生きていこうとしているのは知っているよ。必死に自立しようと、誰にも寄りかからず頑張っているのも」
マルスさんの言葉に、私は喉を詰まらせた。
マルスさんは多分、分かっているのだ。家族やレイモンドとの関係は、それ程詳しく話したわけではない。けれど、レイモンドやハワード様が訪ねてきたあの時、一緒にいたマルスさんには分かったのだろう。
侯爵令嬢として暮らしていた頃、私は誰にも頼れなかった。私に関心のない両親と私を嫌う姉。
使用人はあくまで使用人でしかなく、唯一の支えは婚約者だったレイモンド。
そのレイモンドに、お前は姉と違ってひとりでも平気だと、言われた言葉に、私は自分で思った以上に傷ついていた。
ひとりでも平気なんじゃない。
誰も周りにいなかっただけだ。
ひとりで頑張らざるを得なかっただけだ。
実の家族の裏切り以上に、レイモンドの言葉は私の心の柔らかい所を深く抉った。
「寝る間を惜しんで刺繍の仕事を引き受けているのも、そのためだろ?何かあっても、ひとりでも生きていけるように」
ジョアンナさんやマルスさん、商会長のことを信用していないわけじゃない。信頼しているし、頼ることも勿論ある。
けれど、心の何処かで距離を取っていた。レイモンドと同じようにいつか裏切られるかもしれない。その時にジョアンナさんたちを恨んだりしたくない。
だから、私はひとりでも平気な人間になりたかった。
マルスさんが同じ家に滞在するようになって、楽しいけれど、同時に怖くもあった。自分以外の人間が出す生活音がない暮らしに、戻れるだろうか。ひとりきりで食べ、何の会話もない食事に耐えられるだろうか。
マルスさんの滞在を嬉しく思う反面、同じくらい離れたい気持ちもあった。一緒にいると、自分が弱くなっていくような気がして不安だった。
「ケイト、君がひとりでも生きていけるようになりたいと頑張っていることを、否定するつもりはないよ。だけどさ……」
マルスさんの持つ薔薇から、ふわりと香りが漂ってくる。私を酷く落ち着かなくさせる。
「君がひとりで生きていける人だとしても、俺は君と一緒に生きていきたい。ひとりでも平気だからこそ、二人でいることに意味があるって……思わないかい?」
マルスさんが私の頬に手を伸ばす。温かくて少しささくれだった指で拭われて初めて、自分が泣いていたことに気が付いた。
ひとりでも平気だからと、私ではなく姉を選んだレイモンド。
ひとりでも平気だからこそ、一緒にいることに意味があると言ってくれるマルスさん。
私の中で張り詰めていた何かが解けていくのが分かった。
無理して肩肘を張って生きなくてもいいんだと、素直にそう思えた。
その夜、泣きながらケーキを頬張る私と、それを見つめるマルスさんの手はいつの間にか固く握られていた。
――一ヵ月後、私たちは職場にほど近い小さな町の教会で結婚式を挙げた。
ドレスは勿論、ジョアンナさんのデザイン。指輪は商会長とマルスさんが二人でデザインしてくれた。
一年後には子宝にも恵まれた。生まれてきた赤ちゃんは、マルスさんの穏やかなアンバーの瞳と私の金色の髪を受け継いだ女の子だ。名前はロザリア。マルスさんから贈られた薔薇の花からとった名前だ。
ロザリアが生まれたのを切っ掛けに、私は髪を染めるのを止めた。
髪を染めるのをやめてから、昔の友人に声を掛けられたことが何度かあるが、こそこそ隠れることはしないと決めた。今の私はもうケイトリン・ローリエではなく、ただのケイトなのだから。
マルスさんのご両親や妹さんは、何かと理由をつけては此方にやってきてロザリアを可愛がる。商会長を始め、商会の同僚やジョアンナさん、少しお姉さんになったリコちゃんまでやって来て構い倒す。出産前の、例え周りの人全てが敵になっても私だけはこの子を守ろう、という私の決意は必要なさそうだった。
風の噂でロザリアの存在を知ったのか、侯爵家が何度か連絡を取って来た。内容はロザリアに会いたい、出来れば跡継ぎとして養子に取りたいというもの。
どうやら姉とレイモンドの間には子供が出来なかったらしい。町でばったり会ったかつての友人から夫婦仲があまり上手くいっていないとは聞いていたが、私にはもう関係のないことだ。
勿論、養子に出すつもりも会わせるつもりもない。
今の私の家族に、侯爵家の人間はいらない。愛する夫に愛する娘、そして夫の家族に商会の皆、ジョアンナさんとリコちゃん――ひとりでも平気だと強がっていた昔の私はもう何処にもいない。
あの時私を切り捨ててくれた家族やレイモンドに、今では感謝している。
あのまま侯爵家にいても、私はきっと今以上には幸せになれなかっただろうから。
その後、私とマルスさんは双子の男女に恵まれ、家庭は更に賑やかになった。
男児が生まれたと知り、再度侯爵家の人間が突撃してきたが、今では大商会と呼ばれつつある商会長が上手く追い返してくれた。そんなことをして大丈夫かと青い顔をする私に、商会長はこっそりと教えてくれた。
どうやらローリエ侯爵家は私への仕打ちや、それを知った領民との軋轢が広まり、社交界で総スカンを食っているらしい。
ローリエ侯爵領でないと手に入らないというものはない。だからこそ、侯爵家にいた時、私とレイモンドは協力して新たな特産品を作ろうと躍起になっていた。私がいなくなった後、華々しく発表したその特産品も、私の功績を奪い取ったものだと批判を浴び領民にそっぽを向かれているという。
私たちの子供を引き取ることで、跡継ぎを確保すると同時に和解していると世間に示したいのだろう。思惑は分からなくもないが、そんなことのために大事な我が子を差し出す気にはならない。
跡継ぎが必要だというなら、どこか別の所から養子を取ればいい。
だって、血の繋がりだけが家族ではないと、私は知っている。