マルスさんの花
読んでいただきありがとうございます。
三カ月程港町で宿を借りながら隠れるようにして暮らした後、私は隣国に渡った。
早いもので、もう三カ月が経ち――商会長やマルスさん、現地の商会員の方々の手を借りながら、私はなんとか平民の商会の一員として暮らしている。
本国では王都の真ん中に店を構えていた商会だが、隣国では王都より南に位置する伯爵領に店舗を構えている。とはいっても、王都へと続く街道に面しており、沢山の人や物が行き交いながらも素朴な人や物に囲まれた穏やかな土地だ。
侯爵家で過ごしている時、あんなに息苦しかったのが嘘のように息が楽に吸える。
こちらにはまだ商会の寮はないので、森の中のこじんまりとした一軒家を借り一人で暮らしている。家を探してくれた商会の人曰く、私の前の住人が高ランクの冒険者だったとかで、こんな森の中に必要とは思えない対侵入者用のトラップや防犯対策が多数施されており、女性の一人暮らしでも安心して暮らせる。広い庭もあるので、養蜂や畑仕事もしながら、相変わらず契約書の翻訳や商談の際の通訳の仕事をこなす毎日だ。
それに加えて、商会長から隣国で面白そうな本やあちらで流行りそうな商品があれば買い付けして欲しいと、時々バイヤーのような仕事も任されている。良いものを見つけようと、張り切ってあちこちの市場を歩き回ったお陰で、体力も付いたし知り合いも沢山出来た。
綿や麻で出来た質素なワンピースに帽子を被り、革のブーツで歩き回る私を見ても、誰も侯爵家で生まれ育ったとは気付かないだろう。
休日や空いた時間にちまちまと刺していた刺繍はあちらでも隣国でも人気が出て、有難いことに作る端から売れていくそうだ。質を落としたくはないので量産は出来ていないが、専門のブランドラインを立ち上げないか、という打診もいただいている。ジョアンナさんのデザインした服と御揃いになるようにヘッドドレスやコサージュを作るのも素敵かもしれないと言えば、商会長もジョアンナさんも大層乗り気であったそうなので、実現する日も近いかもしれない。
先日、商会からの定期便を経由して、一度だけハワード様から手紙を貰った。なんと、マルスさんの家を調べて(!)直接ご本人が渡しに来たらしい。
ハワード様によると、やはり公爵家――というより王家とローリエ侯爵家の間で、ナルサス卿と私を婚姻させることは内々に決まり、密かに婚約が成立していたのだと言う。王家がその気になれば、私を連れ戻すことなど朝飯前だろうに何故、とも思ったが、王太子殿下が王家側の動きを抑えてくれたそう。
どうやら、自らの身勝手な婚約破棄が波及して、私が割を食ったことに責任を感じているらしい。それについて、許す、とも許さない、とも私には言えそうにない。
今はまだ婚約状態が継続しているようだが、破棄されるのも時間の問題だということだ。
視野の狭い王太子殿下が元婚約者の妹である私のことまで気が回ったとは思えないから、恐らくハワード様が何らかの働きかけをしてくれたのだろう。
私は少し悩んで、手紙を書く代わりに白のダリアを刺繍したハンカチをマルスさん経由で渡して貰った。それで気持ちは伝わったはずだ。
私は今、住んでいる森の家を離れ、本国からの定期船が届く船着場にいる。
そろそろ時間だ、と思いながらきょろきょろしていると、一隻の船が近づいてくるのが見え、そちらへ向かって駆けだす。
貴族の令嬢だった時なら、はしたない!と叱責されること間違いなしの振る舞いだが、すっかり平民生活が板についた私には関係ない。
「マルスさーん!」
船から順番に降りてくる人をじっと見つめていると、見慣れた髪色が見えた。マルスさんに会うのは二週間ぶりだ。不思議なもので、前回会った時からたった二週間しか離れていないのに随分と会っていないような気がする。
私が名前を呼び、顔を上げたマルスさんと目が合うと、蕩けそうな笑みを向けられる。隠すことなく向けられる好意はちょっぴり恥ずかしくて、でも同時に心の中が温かくなる。
「ケイト、迎えに来てくれたんですね!」
「勿論!楽しみにしていたんですもの!」
マルスさんからクローバーの可愛らしい小さな花束を渡される。
「ふふ、いつもありがとう!」
私は笑顔で受け取る。
私が此方に住むようになってから、マルスさんは仕事で訪れる度に私に花束をくれる。前回は赤いゼラニウム、その前はリナリア、その更に前はアガパンサス。
刺繍の仕事に役立つようにとの配慮だとは分かっているが、レイモンドと婚約していた時は、学園や侯爵家でしょっちゅう顔を合わせていたこともあり、花を貰った記憶はあまりない。
幼少の頃からレイモンドと婚約していたこともあり、レイモンド以外の男性に免疫のない私は、マルスさんのこうしたさり気ない気遣いにもむず痒い気持ちになってしまう。
「でも、今日は荷物が多かったでしょう?わざわざいいのに」
「……うん、わかってたよ。君に遠回しは伝わらないって」
「………?」
マルスさんはひとり肩を落としてブツブツ言っていたが、暫くすると元に戻ったので気にしないことにする。
「マルスさん、お腹空いてない?今日はマルスさんのために、朝からちゃんと料理したんだ。お昼楽しみにしていてね」
「おや、それは楽しみだ」
沢山の人で賑わう街中を、マルスさんと並んでのんびり歩く。馬車に乗ってもいいのだけれど、天気がいいから外を歩きたい気分だ。マルスさんも特に何も言わないので、同じことを考えていそうだ。
「到着!」
30分程ゆっくり歩いて、家に着いた。マルスさんを部屋へ案内する。
今回マルスさんはかなり長い間滞在するかも、とのことで、滞在中は私の借りている家で同居することになった。私が何度大丈夫だと説いてもマルスさんは前々から一人暮らしなんて危ない!と過剰に心配しており、護衛でも雇いかねない勢いだったので、今回の滞在は安全面を確かめてもらうためにもちょうどいい。部屋は沢山余っているし、私としては問題ない。
マルスさんのために用意した食事(そう、私は数か月に及ぶ平民生活の中で、それなりに料理が作れるようになったのだ!)は綺麗になくなった。
「とても美味しかったです」
「それはよかったです」
にこにこと微笑むマルスさんと目が合い、なんだか気恥ずかしくなってテーブルの上のクローバーに目を落とす。マルスさんがくれた花束を花瓶代わりの透明な空き瓶に挿したものだ。クローバーは侯爵領にも沢山生えていたので、私にとっては馴染み深い。クローバーの花の蜜から作られた蜂蜜は、黄金色に輝いてほんのり上品な香りがしてとても美味しいのだ。
「……ん?」
よく見ると、クローバーの花束の中に、葉が四つのものがある。
「マルスさん、これ四つ葉のクローバーですよっ!珍しい~」
「……今、気付いたの?」
「えっ」
「それ、探すの大変だったんだから」
「ええ、これってマルスさんが作ってくれたんですか?」
「うん、そう。今回だけはどうしても、自分の手で作りたくてね。早朝出掛けて夕方までかかったんだから」
「マルスさん……?」
「意味は、自分で調べてね」
疲れたから早めに寝る、と言って、マルスさんはその日そのまま寝てしまった。
「なんだろ、調べてって……花言葉とかかな?」
明日商会の人に聞いてみよう、とそのままそのことを忘れた私は、数週間後、それを激しく後悔することになる。
マルスさんと同居を開始し二週間――私達は特に問題もなく暮らしていた。マルスさんが会食の時などを除いて、基本的に朝と夜は二人で、もしくは交代でご飯を作り、一緒に食べる。洗濯だけは下着などもあり恥ずかしいので、それぞれ別々に行っているが、それ以外の家事も概ね分担している。
「ねぇ、マルスさん」
「ん?なにー」
二人で夕食の準備をしている最中、じゃがいもの皮を剥いているマルスさんに声を掛けると、視線はそのままに返事を返してくる。
「暫くこっちにいるって言ってたけど、暫くっていつまで?」
「ん?んー、ずっとだよ」
「ずっと?」
「うん」
きょとんとする私を、マルスさんがじっと見つめる。最近のマルスさんは、妙に熱のこもった瞳で私を見てくるので、心臓がどきどきしてしまう。同じ家に住んでいることもあって、職場で揶揄い半分に夫婦のような扱いを受けることもある。
マルスさんと過ごすのは楽しいけれど、この生活がずっと続くとは思ってはいけない。
また一人になった時に、孤独に押しつぶされるなんて嫌だ。
「それって……どういうこと?」
「ケイトが嫌だって言うまで、ずっと此処にいるよ」
「んん……?」
「ケイト、手が止まってるよ。お腹空いてるから早く作ろう」
手元のおぼつかない私より数段は華麗な包丁捌きで次々と野菜を切っていくマルスさんに急かされ、慌ててじゃがいもを掴みながら、私はマルスさんの言葉の意味を測り兼ねていた。
***
「あらっ!いいじゃない!」
久々に再会したジョアンナさんが、私の作ったヘッドドレスを見て嬉しそうな声を上げる。
商会長の一声で、ジョアンナさんのデザインした服や小物に、私の刺繍を入れて売り出すことになった。その最終確認のためジョアンナさんが此方へやって来たのだ。残念ながらリコちゃんはまだ小さく、長時間の船旅は厳しいということで、近所の人に預けてきたらしい。
今回は小さな女の子向けの余所行きのワンピースと、それに合わせたヘッドドレスを売り出す予定だ。
刺繍を商品のひとつとして扱うようになってから、私はいくつかリコちゃんやジョアンナさんをイメージして作ったコサージュやブレスレットなどをプレゼントしていた。
それを見たジョアンナさんが対になるようなデザインでリコちゃんの服を作り、それをリコちゃんが身に着けてあちこち行った結果、広告塔になり色々な人から問い合わせがあったらしい。
私が選んだのは、先日マルスさんから貰ったクローバーだった。花部分は三色の刺繍糸を使いバリオンステッチで、クローバー部分はいくつかのステッチを組み合わせながら、四色の糸で仕上げた。
ヘッドドレスはクローバーの花と葉が絡み合う中に貝で作ったビーズを散らしてある。ワンピースには胸元に立体刺繍をコサージュのように刺した後、そこから裾まで下に蔓が伸びていくように平面の刺繍を施している。
貝のビーズはマルスさんが探してくれた。本当は真珠を使いたいところだが、そうするとぐっと値段が高くなってしまうため仕方ない。貝のビーズは太陽の光が当たると七色に輝き、中々綺麗だった。
「素敵ねぇ!」
目の色を変えて検分していたジョアンナさんは、一通り確認を終えるとはーっと息を吐き出した。
「これなら間違いなく売れると思うわ」
「ありがとうございます!」
久々にジョアンナさんに会えた嬉しさと、仕事を褒められた嬉しさで私は上機嫌だった。
「楽しくやっているみたいで安心した」
「はい、とても楽しいです」
「急に刺繍の仕事が増えて大変なんじゃない?」
「いえ、有難いことなので……それに私、こんなに明るい気持ちで刺繍を刺せたの初めてなんです。侯爵家にいた頃は、気晴らしのために刺すことが多くて――勿論、刺している間無心になれてよかったんですけど、それでもいつもどちらかというと鬱々とした気分で刺していたと思います。でも今は、これをどんな人が使ってくれるかな、とか、どんな刺繍を刺したら喜んでもらえるだろう?って考えながら刺すことが多くて、そうしたら自然と使う色や作る物も変わってきて……今、本当に楽しいんです」
「そう……良かった」
優しく微笑むジョアンナさんは、まるで本当の姉のようだった。
姉でなく、ジョアンナさんが本当の姉だったら、私は今もまだあの家で暮らしていられただろうか。
ふと頭に浮かぶ馬鹿げた考えを振り払う。
「ね、なんでクローバーを選んだの?」
「えっと、実は結構何の花にするか悩んだんですけど、派手過ぎずシンプル過ぎない花って考えた時、マルスさんから貰った花束を思い出して」
「………クローバーの花束を貰ったのね?」
「はい!わざわざご自分で四つ葉のクローバーを探してくださって、とても嬉しかったから栞にして持ち歩いているんですよ!あ、でも、マルスさんこっちに来る度に色々な花束をプレゼントしてくださるので、クローバーだけではないんですけど。全部枯れてしまう前に押し花にして、アルバムにして保存してます。それを見ていると刺繍の図案が浮かんでくることも多いんです」
「そう、自分で探したのね……」
財布にしまっておいた栞を取り出して見せ、笑顔で話す私に、ジョアンナが片手で目元を覆った。
「ジョアンナさん?」
「あのね、ケイト」
「はい?」
「『私のものになって』」
ジョアンナさんの脈絡のない言葉に首を傾げると、呆れたような声で告げられる。
「四つ葉のクローバーの花言葉よ。『幸運』て意味もあるけど……マルスが貴方に伝えたかったのは、そっちじゃないと思うわ」
「え……」
頭の中に、いつかのマルスさんの声が蘇る。
――今回だけはどうしても、自分の手で作りたくてね。早朝出掛けて夕方までかかったんだから。
――意味は、自分で調べてね。
――ケイトが嫌だって言うまで、ずっと此処にいるよ。
あれって……あれって……そういうこと!?
「え、ええ!?」
途端に顔を真っ赤に染める私に、ジョアンナさんが苦笑する。
「今更?向こうにいた時から食事に誘われたりしてたじゃない」
「そ、それはそうなんですけど……だって私、訳ありで迷惑ばかり掛けているし……なんとなくマルスさんはもっと大人な女の人が良いんじゃないかって……」
「それ、マルス本人から言われた?」
私はぶんぶんと首を横に振る。
「ま、私に言わせれば、ケイトが鈍いってわかっていて、回りくどいことしているあいつが悪いって思うけど……今まで貰った花、とってあるんでしょ?確認してみたら?」
その日、打ち合わせを終えるなり私は直ぐに家に戻ってアルバムを引っ張り出した。本当はジョアンナさんともう少し一緒にいたかったけれど、落ち着かない様子の私を見てジョアンナさんから早く家に帰って確認してこい、と言われてしまったのだ。
貴族だったくせに花言葉に詳しくない私は、途中で書店によって花言葉が書かれた本を買ってきた。
高鳴る鼓動を抑え、ページをめくる。
アガパンサス――恋の訪れ。
赤いゼラニウム――君ありて幸福。
リナリア――この恋に気付いて。
震える手で花言葉を調べながら、私の身体は沸騰しそうになっていた。
あの時も、あの時も。思い返せば、マルスさんは私に気持ちを伝えてくれていたのだ。
ジョアンナさんに“鈍い”と言われても仕方ない過去の自分を思い出し、私はひとり頭を抱えた。