逃亡
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寮に戻った私は、急いで荷物を纏めた。幸い、平民として暮らし始めて半年と期間が短かったため、私の持ち物はそれ程多くない。
マルスさんには仕事に行くと言ったが、私はもう職場に行くつもりはなかった。
ハワード様がわざわざ、ああして私に伝えてきたということは私とナルサス卿の婚約は内々に決まっているか、あるいはもう既に当事者不在のまま両家の間で結ばれているのかもしれない。
レイモンドやハワード様が私の居場所を知っているのだから、王家や私の家が知っていてもおかしくない。私に戻る意思はないといくら言ったところで、私がこのまま此処で働き続けていれば、お世話になった商会長や商会の皆に迷惑がかかる。侯爵家や王家に睨まれて、平民の商家がやっていけるはずはないからだ。
クローゼットを開け、先程マルスさんの妹さんから借りたワンピースを脱ぎ、綿のブラウスとロングスカート、ブーツに着替える。鞄に服を詰め込みながら、昨日あれ程泣いたというのに涙がまだ溢れてくる。
本当は悔しい。やっと手に入れた居場所と、温かい人たちを捨てていかなければならない。
どうして彼らは私から奪っていくのだろう。
両親や姉にとって、私ってなんだったのだろう。
考えても仕方ない。決して動きを止めることなく準備を進めながらも、怒りと悲しみで心が千切れそうだ。
私は便箋を取り出し、手紙を書いた。
書いた手紙は全部で四つ。
ひとつは、ジョアンナさんとリコちゃんに。借りたままの服とアクセサリーを直接返せないことを詫び、服の包みと一緒に封筒を置いた。今度リコちゃんに会ったら渡そうと思っていた、立体的な刺繍で作られた花の飾りがついたリボンも添えておく。
ひとつは、商会長さんに。世間知らずの私に仕事と住むところを与えてくれた。挨拶も出来ずに去っていく謝罪と、仮にローリエ家や王家の人間が押しかけてくることを考え、その時はこれを渡してほしいと、絶縁状も中に一緒に入れておいた。
ひとつは、商会の皆に。いつも明るくて前向きで楽しい人たち。あなたたちと過ごす時間は私にとってかけがえのない時間だった。突然仕事に穴を空けて申し訳ないと書いた。
そして最後は、マルスさんに。初めて私を侯爵令嬢ではなく、ひとりの女性として見てくれた人だった。随分お世話になったのに、何一つ返せないまま去っていくことを謝罪した。服を洗濯して返すことの出来ない詫びのつもりで、借りていた妹さんのワンピースの胸ポケットに少額だけどお金を入れておいた。
人目を忍んで寮を抜け出し、街道を走る。
真っすぐ行けば、隣町に着く筈だ。そこから船を経由して、隣国へ行けるはずだと、以前商会の人たちが話していたこと覚えていて良かった。
乗合馬車に乗り、慣れない長距離を歩き、なんとか乗船場に着いたところで私を待ち構えていたのはジョアンナさんとマルスさんだった。
「ど、して……」
――バシンッ!
ローブで顔を隠すように歩く私に気付いたジョアンナさんは、かつかつと靴音を鳴らしながら近づいてくるなり、私の頬を打った。衝撃に思わず石畳の上でたたらを踏む。
「ケイト!貴方、何故一言も相談しないで出ていくのよ!」
ジョアンナさんの顔は、今まで見たこともない程怒りに満ちている。
――ああ。また失ってしまった。大切な人を……。
絶望に目の前が真っ暗になる。
せめて、良い思い出だけ持って別れたかった。ジョアンナさんたちと過ごした半年間は本当に幸せだったから、この先辛いことがあっても、ここで過ごした思い出を胸に生きていけるように。
でも、それは自分勝手な言い分だ。私に泣く資格はない。筋を通さず、勝手に姿を消そうとしたのは私なのだから。
打たれた頬が熱を持っている。せり上がってくる涙を隠すように、頭を深く下げる。
「ジョアンナ、さん……恩知らずな真似をして、申し訳ありませんでした……」
けれど、ジョアンナさんから返って来たのは、予想外の言葉だった。
「ケイト、私は貴方が何も言わずに出て行ったことに怒っているわけじゃない。私が怒っているのは、貴方が諦めてしまったからよ。この半年、貴方はとても楽しそうに暮らしていたじゃない!ずっと此処にいたい、って言っていたじゃない!今の貴方はリコに連れられてやって来たあの雨の日と同じ。どうせ勝てないからと戦うことを諦めて、最初から誰にも相談することなく、大切なものを簡単に手放して……私たちのことをあっさり捨てていってしまった。私は……私たちはそんなに信用がないわけっ!?貴方にとって私やリコ、此処にいるマルスや商会の皆……全部、簡単に捨ててしまえるものだったの!?」
「――っ違います!私は……私だって……ずっとあそこにいたかった!生まれて初めて自分の居場所を得たって……だけど、私の事情に皆を巻き込むわけにはいかないから……だから……」
「馬鹿!」
声が尻すぼみになり涙をぼろぼろ零す私を、ジョアンナさんがぎゅうっと抱きしめる。ジョアンナさんからはいつも、優しいミルクのような匂いがする。リコちゃんと同じ、甘くて優しい匂い。
侯爵家で暮らしていた時、私は一度だって母にだってこんな風に抱きしめてもらったことはない。
「私、これでも貴方のこと、妹みたいに思ってるのよ。妹を、家族を見捨てるわけないじゃない」
私を抱きしめるジョアンナさんの声も震えていた。
実の家族は私のことをあっさり切り捨てたのに、何の血の繋がりもないジョアンナは何の役にも立たない私を見捨てないと言う。
どうして、どうして……。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしていいか分からない。
どうすべきなのか、分からない。
「ケイト」
名前を呼ばれると同時に、温かい手が頭を撫でる。
ジョアンナさんが私を抱きしめていた腕を緩める。顔を上げると、マルスさんが優しい顔をして此方を見ていた。
「ごめん、今朝俺がきちんと君の不安と向き合っていれば良かったね。俺も商会長も、商会の皆も――君のことを迷惑だなんて思わない。だから、あんな風に出ていくのだけは止めてくれ」
「ごめんなさい……」
私は二人に連れられ、近くの宿屋に入った。
私がマルスさんと別れ、荷造りをして出発した後――仕事に行くと言っていったのに、出勤してこない私を不審に思ったマルスさんは、同じ寮に住む女性に頼み、私の様子を部屋まで見に行ってもらったそうだ。そこで、置かれていた手紙に気付き、急いで探しにきてくれたという。
先に出発した私よりも二人の方が先に乗船場に着いていたのは、単純に私が不慣れなために遠回りして余計な時間がかかっていたから。もしかしたら私がもう乗船してしまっている可能性もあったが、それでもこの場所で私を待っていてくれたというのだから、二人には本当に頭が上がらない。
「商会長も、君の手紙を読んで驚いていたよ。貴族の出身っていうのは聞いていたけど、まさか侯爵家のご令嬢だとは思っていなかったって。君の事情も理解して、とりあえず暫くの間はこの街に滞在して身を隠すといいと言ってくれた」
「商会長が……」
見るからに人の良い商会長の顔を思い浮かべる。ジョアンナさんの口利きがあったとは言え、彼は最初から、見ず知らずの私にずっと親切だった。親切過ぎて心配になる程だ。
私は家族には恵まれなかったけれど、ただの“ケイト”として生きていく上で出会った人は皆、いい人ばかりだった。
「けれど、私があの商会で働いていたことは知られていますし、此処に身を隠したところで……」
「それなんだけど、ケイト、君――隣国で働く気はある?」
「え?はい。それは……元々隣国に行って職を探そうと思っていましたし」
「商会長がね、そろそろ隣国に出店を考えているんだって。うちが扱っている商品の需要が向こうでも結構あるらしい。君さえ良ければ、新規出店を手伝ってほしいそうだ」
「ほ、ほんとに……?」
私の言葉に、マルスさんが深く頷く。
――甘えても、いいのだろうか。頼っても、いいのだろうか。
振り返れば、私は侯爵家にいた時はいつも、両親や姉の顔色を窺ってばかりだった。迷惑をかけないように、役立たずだと思われないように。甘えたり弱音を吐きたい時も沢山あったが、決して口にすることは無かった。彼らが私に求める役割を全うすれば、私のことを見てくれると思っていた。
だけど、現実はそんなことはなくて、姉はどんなに我儘を言っても両親から見放されることは無かったし、私がそうすればそうする程、彼らの中で私はどうでもいい存在になっていったのだろう。だから、私をこんな風に踏みにじっても平然としていられるのだ。
逡巡する私の心を見透かすように、マルスさんとジョアンナさんが微笑む。
「や、やりたいです。私が何処までお役に立てるかは分からないですが、私……やりたい、です」
「うん、そう言ってくれると思った」
そこから先は、驚く程スムーズに事が運んだ。
ジョアンナさんはリコちゃんのお世話もあるので、そのまますぐ帰ったが、マルスさんは暫く私と同じ宿に泊まり、商会長と手紙や書類のやりとりをしながら、今後のことについてあれこれ教えてくれた。
店の準備が整うまでの間、私はこの港町に滞在しながら商会長から送られてくる書類を今まで通り翻訳することになった。送られてくる書類にはいつも必ず、商会長や商会の職員からの手紙やメッセージカードが付いていて、私は胸が熱くなった。貰った手紙やカードは綺麗な箱に入れて取ってある。全部私の宝物だ。
マルスさんはずっと私と一緒に、とは流石にいかないので、何日か置きに商会長からの荷物を持って訪ねて来てくれている。
一度、店に侯爵家の使いが訪ねて来たそうだが、私は突然置手紙だけ残し行方をくらませたことになっているらしい。実際その通りではある。マルスさんやジョアンナさんがいなければ、今頃私は一人で隣国に渡っていたに違いないのだから。
「あ、これリコちゃんから」
マルスさんから渡されたのは、リコちゃんからの手紙だった。リコちゃんはまだ幼くて字が書けない。代わりに、頭に花を着けたリコちゃんと、私らしき女性が手を繋いでいる絵が描かれている。
「この髪飾りさ」
マルスさんが絵の中のリコちゃんの頭についている花を指さす。私はそこで、それがリコちゃんに、と部屋に残していったリボンにつけた花飾りと同じ色をしていることに気が付いた。
「リコちゃん、凄く喜んでたって。気に入って毎日つけてるって」
「……良かった。私、何かあげたくて、でもお給金は殆ど生活費に使ってしまったから、自分で刺繍してみたんです。侯爵家にいた時は、よくやっていたから」
「ジョアンナさんも褒めてたよ。あんな立体の刺繍見たことないって」
「あれは中にワイヤーが入っているんです。スタンプワークっていうんですけど、結構手間が掛かるし材料も色々必要なので、そういえば貴族の間でもやっている人はあまりいないかも……」
平凡な私の数少ない特技――いや、趣味といってもいいかもしれない――が刺繍だった。
ローリエ侯爵家の領地では自然が豊かなことから養蜂が盛んで、蜜源となる植物が沢山生えていた。当主教育の一環で、領主代行として侯爵家の領地を訪れることの多かった私は、季節の花々をスケッチしては移動時間や就寝前の空き時間を使って、どれだけリアルに刺繍出来るか追及するようになった。次第に糸の種類や太さにこだわるだけでなく、ワイヤーや綿、薄いオーガンジーの生地などを使って立体的に仕上げるようになったのだ。
「商会長がさ、もしよければいくつか作って商会で売ってみないか、って言ってたよ」
「え?」
「上手く行けば、富裕層の平民や貴族にも売り出せそうだって」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
恐らく先日の騒ぎで、私が貴族の令嬢だということは周辺の人に広まってしまったはずだ。だから表立って店頭に立つことも出来ない。かといって裏方の力仕事も当然向いていない。翻訳の仕事以外に、経理や帳簿付けも出来なくは無いが、私よりずっと仕事が早くて正確なその道のプロが既に商会にはいる。
温かい眼差しで頷いたマルスさんは、私が語学の面でしか商会の役に立てていないことを心苦しく思っていることに気が付いていたのだろう。
「空いている時間に作って、出来たら送って貰えればいいって」
「や、やります!やりたいです!やらせて下さい!」
「うん、そう言うと思った。会長には言っておくから」
「ありがとうございます!」
嬉しくて、私の頭の中は既にどんなものを作ろうか、ということで頭が一杯だった。リコちゃんにあげたものは、アネモネとスカビオーサを立体的に刺したものを、レースのリボンに縫い留めたものだった。今度はミモザやカモミール、オールドローズなんかはどうだろう。
自分の世界に入り込んでしまった私を、マルスさんが愛おしそうに見ていることに、私は気付かなかった。




