捨てたのは私じゃない
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「ケイト、美味しいパン屋を見つけたんですけど、帰りに覗いていきませんか」
仕事終わりにマルスさんに誘われた私は、二つ返事で頷いた。
ちょうど今日は、先日借りた洋服やアクセサリーをジョアンナさんに返しにいくつもりだった。御礼に何か手土産でも買っていこうと思っていたのでマルスさんの申し出は嬉しいものだった。
まだ残っている他の商会員に挨拶を済ませ、二人並んで歩き出す。昨日私とマルスさんがデートしたことを知っている同僚たちに意味深な視線を送られるのが気恥ずかしくて、私は少し俯き加減に歩いていた。そのせいで、気が付くのが遅れた。
マルスさんと歩き始めて少ししたところで、突然強く腕を引かれた。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、つい半年前まではいつも私の隣にいた淡い色彩を持つ人――レイモンドその人だった。
「ケイト……だよな?そうだろ?」
驚き固まっている私の両肩をレイモンドが勢いよく掴み揺さぶる。
「よかった……生きててよかった……」
へなへなとその場に崩れ落ちながらも、決して逃がすまいという意思の表れなのか、私の手を掴んで離さない。
私は今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
思わずレイモンドの名前を口にしそうになった時、目がそこへ引き寄せられた。
レイモンドの左耳。私と揃いのピアスが付いていたそこには、今は違うピアスが付けられている。
心臓がぎゅうっと鷲掴みにされたように胸が痛む。
レイモンドと私が付けていたのは、お互いの瞳の色が入ったものだ。三日月の上にレイモンドの瞳のシトリンと、私の瞳のアメジストが並んで乗っているデザインのもの。
今レイモンドが付けているのは、並んだシトリンとエメラルドをぐるりと銀で囲ってあるデザインだ。シトリンの隣に並ぶエメラルドを見て、私は瞬時にそれが姉の色だと分かった。
自分の婚約者に、以前の婚約者とのピアスを付け続けることをあの姉が許すはずない。
それが分かっていても、私はそれを酷い裏切りのように感じてしまった。私の耳には今も、三日月が輝いていたから。
喉が詰まって、言葉が出ない。それならば此処から今すぐ逃げ出したいのに、足は地面に張り付いたかのように動かない。
「ケイト、どうして家出なんて……」
レイモンドがそう口にした瞬間、私の中で何かが爆ぜた。
「どうして?私がどうして家を出たのか、本当にわからないっていうの、ライト子爵家令息様?」
レイモンドが弾かれたように顔を上げる。
私の隣で、ライト子爵家の名に反応したマルスさんが息を呑んだ。
彼はかつて途中で退学したとはいえ、学園に通っていたことがあるのだ。ライト子爵家には、レイモンドの上に二人の兄がいる。時期的に彼らとマルスさんの在学期間は被っていてもおかしくない。
マルスさんは、怒気を発している私の手を掴んで離さないレイモンドを引き剥がすべきかどうか悩んでいるようだった。
「手を離して下さい。こんなところまで何しに来たのですか。帰ってください」
「ケイト、君の気持ちはわかる。でも、頼むから一緒に帰ろう」
「私はただの“ケイト”よ。貴方とは何の関係もない」
私は無理やり掴まれた腕を振り払うと、マルスさんに行こう、と声掛けしてレイモンドに背を向けた。
マルスさんは困惑しつつも、私をレイモンドから庇うように歩き出す。
「待ってくれ!」
「離して!私に触らないで!」
「離したら逃げるだろう!?」
「当たり前でしょう!」
後ろから肩を掴まれ、外そうと抵抗している内に、周囲に人が集まりだした。レイモンドはまだ学園の制服を着たままだ。
傍から見れば、貴族の男が庶民の女性を襲っているようにも見える。
まずい。此処で騒ぎになって、万が一私がケイトリン・ローリエだとバレてしまうのだけは避けたい。
やっと手に入れた居場所なのに、まだ私から奪おうというの?
涙が込み上げてきた時、
「おい、お前たち落ち着け!」
聞き覚えのある声が響いた。
「ハワード様……」
そこにいたのは、レイモンドと同じく学園の制服に身を包み、息を切らしたハワード様だった。
ハワード様の取り成しで、なんとか冷静になった私は、無理矢理連れ帰らないという条件で話を聞くことにした。流石公爵家の令息というべきか、本来なら事前に予約が必要な貴族御用達の店に連れられ、個室で話し合うことになった。
私の不安を察知したのか、マルスさんは自分もついていくと主張し譲らなかった。レイモンドとハワードは難色を示したが、最終的に合意し四人で顔を突き合わせることになった。
席に着いてからずっと、部屋には気まずい沈黙が流れている。
私とマルスさん、ハワード様が注文した紅茶は、久々に飲む味でとても美味しかった。普段飲んでいるお茶との味の違いに驚く。半年前までは、平民が口にする茶の味など知らなかったのに、今では貴族が楽しむお茶の味に驚いているなんて、おかしなものだ。
レイモンドは気を落ち着けようとしたのか、ウィスキーを頼もうとしハワード様に窘められ、結局冷たい果実水を注文させられていた。
「あの、お伺いしたいのですけど、私のことをどうやって見つけたのですか。そしてハワード様まで何故?」
レイモンドは唇をきつく噛み、だんまりを決め込んでいる。不毛な時間をこれ以上過ごしたくない私は、先に聞きたいことを聞くことにした。
「同じ学園の生徒が話していたのを偶然聞いたんだ。昨日この辺りでケイトを見たって。なんとか場所を聞き出して、それで居ても立っても居られなくなって――」
レイモンドが項垂れる。
成程、恐らく昨日マルスさんとデートした際に、あのカフェかその周辺でお忍びで来ていた学園生が私を目撃したのだろう。レイモンドが職場のすぐ近くで待ち構えていたということは、その時に跡をつけられでもしたに違いない。社員寮は職場と同じ敷地内の別棟にあるので、端から見れば職場に入っていくように見えたのだろう。
「ハワード様は?」
「俺はその一部始終をたまたま見ていたんだ。その、うちの馬鹿兄が関わった例の婚約破棄事件以降、関係ない君らの婚約がなくなるし、君はいなくなるしで、ずっと気にしていて……今日はレイモンドの様子が尋常じゃなかったから、後を追って来た」
「そうですか……」
「とりあえず、元気そうで良かった。今はその……隣の彼と暮らしているのかな」
ハワード様がちらりとマルスさんに視線をやる。
「えっ?いいえ、彼は職場の同僚です」
「今は、あの商会で働いているのか」
その質問に答えたくはなかったが、職場の場所まで知られていたのだから、ここで仔細を話すことを拒否したところで意味はないだろう。
「そうです。あの、此処にいるマルスさんもそうですけど、商会長や商会員の方々に私は返しきれない恩があります。絶対に迷惑はかけたくないんです。だから失礼ですけど、こうして突然押しかけて騒ぎを起こすのは最後にして下さい」
「それならば君が一緒に帰れば済む話だ。このまま一緒に帰ろう。お世話になった人たちには、また改めて御礼に伺えばいい。荷物は使用人に引き上げさせよう。謝礼もきちんと払えば――」
自分勝手に話し続けるレイモンドを、私は強引に遮った。
「私は帰る気はないわ。両親には死んだと伝えて下さい」
「ケイト。意地を張るのはやめろ。侯爵令嬢が平民に混じって暮らしていけると思ってるのか」
レイモンドの言葉に私はテーブルの下で拳を握りしめた。
「この半年のことを心配しているなら大丈夫だ。君は急な病で臥せっていることにしてある。学園も卒業試験さえ合格すれば、卒業出来るようにお願いしてあるし、そのまま高等部にだって進学出来る。君の両親も君への仕打ちを後悔して、この半年随分心配していたよ。いい縁談もいくつか用意してあると言っていた。君が不安に思うことは無い。一緒に帰ろう、ケイト」
レイモンドの言い分に、私は唖然とした。
急な病?新しい縁談?なんだそれは。ふざけるのもいい加減にしろと、今すぐ怒鳴りちらしてしまいたかった。
再会してから「一緒に帰ろう」としか言わないレイモンド。
誰より他人の心の機微に敏感で、いつだって私の嫌がることはしなかった幼馴染みのレイモンドは、この半年間で消えてしまったのだ。隣で黙っているハワード様が苦い顔をしているのがいい証拠だ。
「……レイモンド、貴方変わったわね。すっかりローリエ侯爵家の一員だわ。上手くやっていけそうでなによりよ」
「仕方ないじゃないか!子爵家が侯爵家に逆らえるとでも!?」
「……子爵令息が侯爵を名乗れるんですもの。仮令父からの圧力なんて無くても、貴方は姉を選んだでしょう?」
私はレイモンドと婚約を結んで以来、この半年間でさえ一度も外した事の無かったピアスを外した。レイモンドが息を呑んで顔を歪める。私がずっとピアスを外していなかったことに、今初めて気づいたようだった。
「……君は、家族を捨てるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、本当は内心で腸が煮えくり返っていた。身体の奥底から憎悪がこんこんと湧き出て目の前が真っ赤に染まる。怒り狂いそうになる衝動をなんとか押し込めて、小さい子供に話す時のようにゆっくりと、口にする。
「貴方も、私の家族も、姉を選んだの。私じゃなくて、姉を選んだのよ。私が家族を捨てたんじゃない。貴方たちが先に私を捨てたの」
この半年間に何があったのかは分からない。
半年前のレイモンドは確かに、姉より私を好いていたと思う。婚約者というよりは親友に近かったけれど、私たちの間には確かに愛情と信頼関係があった。
けれど、元々レイモンドは姉に私のように冷たくあたられていたわけではないし、私に対する家族の扱いも知ってはいたけれどそれについて意見することはなかった。半年前も父に抗議はしても、私を追いかけてくることはなかった。
そして今、レイモンドの耳に輝いているピアスはエメラルドだ。私ではなく、姉の色。
それが、レイモンドの出した答えだ。
私は外したピアスをテーブルに置いて立ち上がった。マルスさんも慌てて立ち上がる。
こんな惨めな場面をマルスさんに見られたくはなかったが、かえってよかったかもしれない。マルスさんが居なかったらきっと、私は後々後悔するような暴言さえ吐いていただろう。
マルスさんと二人、部屋から出ていく寸前、背中越しにレイモンドの呻くような声が聞こえた。
「……仕方ないじゃないか。どうせ俺は君の家には逆らえない。君は自分で思っているより強い人だ。俺の助けがなくても立っていける人だ。クラリッサは誰かが支えてやらないと駄目だから……」
その言葉は、今まで投げかけられたどんな言葉よりも私を深く傷つけるものだった。
レイモンドから見れば、私はひとりでも平気な女に見えているのかもしれない。
でもそれは違う。平民の“ケイト”として、沢山の人から数えきれない程助けられ、暮らしてみてわかった。ひとりで生きていける人なんていない。
侯爵家にいた頃、私は孤独だった。両親は私に関心がなかったし、姉は私を嫌っていた。私はひとりに慣れるしかなかった。本当は全然平気じゃなかった。誰かに助けて欲しかった。
あの家に私の居場所はない。
一番近くでそれを見てきたはずのレイモンドが、それを言うのか。
レイモンドの知っているケイトリン・ローリエは死んだ。
それと同じように、私の知らないところで、かつて私の心の支えだったレイモンド・ライトは死んだ。
「さようなら、もう二度と会いに来ないで」
マルスさんにそっと手を引かれながら、私は部屋を後にした。
店を出たところで、後ろから声をかけられた。
「ケイトリン嬢、待ってくれないか」
振り返ると、息を切らせたハワード様が立っていた。
「……まだ何か?」
「突然押しかけて済まなかった」
ハワード様が頭を下げる。半年前の私なら、公爵家の子息に頭を下げられるなんて、おろおろしていたことだろう。
けれど、“ケイト”になった私は、それを見ても何の感情も湧かなかった。
「レイモンドは勝手なことを言っていたが、君のことを心配する気持ちは嘘じゃないということは分かってやって欲しい。あいつもあいつで、この半年間追い詰められていた。婚約者が君から姉に代わり、その君は婚約解消直後から姿を見せない。いくら君の両親が君は病気で休んでいるだけ、君も納得している、と弁解したって、周囲はそうは思わない」
「………言いたいことは、それだけですか?」
予想外の私の冷淡な反応にハワード様は面食らったようで目を見開いたが、私には心底どうでもよかった。それよりも、今は早く此処から立ち去りたい。
「あ、ああ……いや、君に知らせておきたいことがあって、あいつとは別に私も君のことは探していたんだ」
「では、どうぞお話し下さい。この後の予定があるので、出来れば手短に話して下さると助かるのですけど」
「……君は、変わったな」
思わずといったようにハワード様が零す。どういう意味合いでハワード様がそう言ったのか計りかね、私はじっと彼の顔を見た。失礼な言動を取っている自覚はある。けれど、ハワード様からは怒りや蔑みといった負の感情は感じられなかった。
「変わらなければ、生きていけませんでしたから」
「そうか……そうだな」
「あの、それで話とは」
「ああ、引き止めてすまない。君はまだ知らないだろうから、教えておこうと思って。さっき、レイモンドが君の両親が縁談をいくつか用意していると言っていただろう?」
「………まさか」
ハワード様の言葉に血の気が引いていく。体温が一気に下がり、嫌な汗がじっとりと吹き出してくる。
「その、まさかだ。レイモンドは知らされていないようだが、私にはちょっとしたツテがあるのでね」
「………相手は……どなたですか……」
毅然と対応したいのに、絞り出した声はみっともないくらい震えている。私に非はないとはいえ、婚約解消されたばかりの私に、そう条件の良い縁談が来るとは思えない。
私に関心の無かった両親がレイモンドの言う通り、私を必死に探しているというのなら、それは恐らく私の身を案じてのことではなく――。
「ナルサス・コーウェン公爵だ」
苦い顔で告げるハワード様を前に、私は目の前が真っ暗になった。市井で逞しく暮らす前なら気を失っていたことだろう。
「成る程、それはあの両親やいずれ婿入りするレイモンドにとっては、さぞいい縁談でしょうね……」
鏡を見なくても分かる。今の私の顔は、リコちゃんに助けられたあの日のように蒼白に違いない。
ぱりんと、心が小さく砕ける音が聞こえた。
……なんだ、あんな仕打ちをされてもまだ、心の何処かでは家族に……両親に期待していたのか。愛されていないことなんて、初めからわかっていたじゃない。
「ケイトリン嬢……」
痛ましげに顔を歪めるハワード様の姿がぼやけていく。いつの間にかマルスさんが正面にいて、私をぎゅっと抱き締めた。
「泣いていいんだ、泣いて……。辛いときは我慢しなくてもいいんだ」
耳元でマルスさんが囁く。その掠れた声を合図に、私はマルスさんの胸へ顔を押し付け泣いた。マルスさんのシャツが私の涙でびしょびしょに染みを広げていく。
そこから先の記憶はない。
目覚めた時には、見慣れない部屋の一室だった。瞼が酷く重い。状況を把握しようと身体を起こそうとして激しい眩暈に襲われ、再びベッドに倒れる。
眩暈が治まるまでじっと目を瞑る。
右手が何か掴んだままだったことに気がついて、そっと目を開け、ゆっくりと隣を向いた私は――
「き、きゃああああああああああああああ」
時刻は午前四時。その日鶏が鳴くより早く、若い女性の悲鳴が辺りに響いたという――。