家族の裏切り
読んでいただきありがとうございます。本日二話目です。
放課後、私とレイモンドは我が家の馬車に乗り込み侯爵家へ向かっていた。
私はまだ昼間のハワード様に言われたことを引きずっていて、あまり会話をしたい気分ではなかった。
レイモンドはそれを察したのか、何も言わずに窓の外を眺めている。
レイモンドは昔から人の心の機微を読むのが上手く、こういう時に無理に話しかけてくることはしない。その心遣いが有難かった。
屋敷に着くと、執事が待ち構えていて、制服を着替える間もなくそのまま応接室へ案内された。
てっきり父ひとりが待っていると思っていたが、いざ部屋に入ってみると父だけでなく、母と姉もいたので驚いた。
私とレイモンドは密かにアイコンタクトしながらも、促されるまま席に着いた。
「ただいま戻りました」
「ああ、そこに座ってくれ」
わざわざ呼び出しておいて、父は中々話を切り出さない。目線を泳がせながら、ちらちらと私とレイモンド、姉を順番に見ている。
挙動不審な父の様子も気になったが、私は何より姉がレイモンドに向ける視線に背筋が寒くなった。
姉は私たちが部屋に入ってからずっと、私のことなど目もくれず、レイモンドをねっとりと見つめている。その瞳には、今までとは違う感情が浮かんでいる気がして、私は昼間のハワード様の言葉を思い出していた。
レイモンドもそれには困惑しているようで、時折困ったように私に視線を向けてくる。
仕方なく、私は自分から切り出すことにした。
「あの、お父様、それでお話というのは……」
「あー……そのことなんだがな」
父が口髭をしきりに触る。緊張している時の癖だと、経験から私は知っていた。
「先日、誠に不愉快なことにアシュトン殿下とクラリッサの婚約が解消されたのはレイモンドも知っているな?」
「ええ、聞いています」
「あー、その、それによって我が家のみならず貴族間での力関係や派閥にも影響が出ている。お前たちの婚約も含めて、考え直さなくてはならない」
「そんなっ!」
私は父が言おうとしていることに感づいて、思わず腰を浮かせた。
私がレイモンドと婚約を結んだのは、姉が婚約を結んで暫く経った頃。
レイモンドは我が家の分家筋にあたるライト子爵家の次男だ。わざわざ分家筋の、それも家格の低い家から選んだのは、王家と縁を結んだ我が家への更なる権力の集中があってはいけないと危惧する声を抑えるためだった。
王妃の外戚になるという前提が崩れた以上、わざわざ格下の家から婿を取る必要はないのだ。
姉が妃教育を受けていた間、私とレイモンドも同じように厳しい当主教育を受けていた。レイモンドと私の間にあるのは、恋愛感情というよりは家族に向けるそれだったが、私たちの関係は良好だった。
レイモンドは優秀な男で、子爵家に生まれながら侯爵家の婿に望まれる幸運を妬む人間からの嫌がらせも何のその、今では父も一目置く存在である。
領地を豊かにするため、新しい特産品を作る取り組みもレイモンドと二人で既に進めている。
今更レイモンドとの婚約がなくなるなんて、考えられない。
「レイはこれまで私と一緒に当主教育に励んできました。厳しい指導にも耐え、今では領民にも慕われています。レイはローリエ侯爵家に必要な人間です!レイがどれ程優秀かは、お父様だって分かっているでしょう!?」
「ケイト……」
「分かっているから、落ち着いて座りなさい」
隣に座るレイモンドは泣きそうな顔をしているように見えた。
「レイモンドがよくやってくれているのは私とてよく知っている。頭の回転も速いし、人当たりも良く領民にも好かれている。これまでの努力を水泡に帰すようなことはしないよ。子爵家との契約もある。レイモンドを婿に取る予定に変わりはない」
「それじゃあ……」
私とレイモンドは顔を見合わせた。互いの顔には困惑の表情が浮かんでいる。
「ケイト、予定が変わるのはお前だ。お前とレイモンドの婚約は解消し、クラリッサとレイモンドを新たに婚約させる」
「…………え?」
一瞬、父が何を言ったのか理解出来なかった。
予定が変わるのは私?
レイモンドが姉と婚約する……?
茫然とする私は、レイモンドの声で我に返った。
「ウィリアム卿!正気ですか!?いくらなんでもあり得ない!」
「レイモンド。口の利き方に気を付けたまえ。いずれ婿にくるとしても、今はまだ君は子爵家の令息に過ぎない」
父がレイモンドを冷ややかに見つめる。
「何故ですか。どうして……私と婚約解消して、ケイトはどうなるんですか……」
「君も貴族の端くれなら分かるだろう。忌々しいことにクラリッサが殿下に大々的に婚約を破棄されたのは周知の事実だ。今から縁談を結ぶとなると家格の面でも人格の面でも君より条件の良い相手は望めない。例えそれなりの相手に嫁げたとしても、肩身の狭い思いをするのは目に見えている。
その点、ケイトはまだ十五だ。デビュタント前で幸いだった。クラリッサと違い学園卒業まで三年あるんだ。その間に条件の良い婚約者を探せばいい。なに、悲劇に見舞われた姉のために家督と婚約者を譲ったと美談を流せば、君と婚約解消したことも問題にはなるまい」
「ケイトは今まで次期侯爵として教育を受けていました。領民にも慕われているし、既に私と二人で特産品の生産にも取り組んでいます。クラリッサ嬢には悪いが、突然やってきた彼女がケイト以上にローリエ侯爵に相応しいとは思えません」
「だからこそ君がいるんだろう。クラリッサは今まで立派に妃教育をこなしてきたんだ。当主に必要な知識も直ぐに習得するはずだ。そりゃあ最初は上手くいかないこともあるだろうが、それこそ君が婚約者として補佐すればいい」
「レイモンド……いえ、婚約者になるんだもの。これからはレイと呼ぶわね。至らないところもあるかもしれないけれど、頑張るつもりよ。ケイトにだって出来たんだもの。私にだって出来るわ。これからよろしくね?」
姉がレイモンドに手を重ねるが、レイモンドはそれを思い切り振り払った。
私は、私のことなどお構いなしに進む一連の流れを、まるで他人事のようにぼーっと眺めていた。
現実に、心の速度が追い付かない。
「俺はっ!クラリッサ嬢と婚約するつもりはありません。俺の婚約者はケイトだ」
「君がなんと言おうが、既に子爵家からも了承の返事は得ている。本来なら跡継ぎは長女のクラリッサで、家を出ていくのはケイトリンだった。正しい状態に戻っただけだ」
子爵家が侯爵家の決定に異議を唱えられるはずもない。
レイモンドは唇を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。
「ねぇ、レイ。私のことが嫌い?私はレイとなら上手くやっていけると思うのだけど」
姉が私には向けたことが無いような慈愛に満ちた表情をレイモンドに向けている。
私は部屋に入った時から姉がレイモンドに向けていた視線の意味を悟った。
――やめて。レイって呼ばないで。私の婚約者に触らないで!
父は先程から私と目を合わせようとしない。
母はこの部屋に入った時から空気のように振る舞い、姉はいつも通り私を無視している。
私がこれまで費やして来た努力や時間は、この家の人間にとっては何の意味もないことだったのだろう。
父はレイモンドに、正しい状態に戻るだけ、といった。
私が生きてきた十五年間は、間違った状態だったのだ。私だけが、それを知らなかった。
――私は、ローリエ侯爵家にいらない人間なのね。
これ以上その場にいることが耐えられなくて、私は部屋を飛び出した。
「ケイト!」
背中越しにレイモンドの声が聞こえる。
気付いた時には屋敷を飛び出して街中にいた。振り向いた先には、誰もいない。
「名前は呼んでも、追いかけては来ないのね……」
この期に及んでまだ期待していた自分がおかしくて惨めで笑えてくる。
いつの間にか降り出した雨が身体を濡らす。
「ハワード様……予感、的中しましたよ」
頬に流れ落ちるのは涙か雨か――頬を伝う水滴は暫くの間途切れることが無かった。
***
「おねしゃん、だいじょうぶ?」
あどけない声に振り返る。視線を落とすと、私の膝の高さまでしか身長のない小さな女の子が不思議そうに立っていた。クリーム色の花が描かれたモスグリーンのお洒落な防水布のコートを身に着けている。
私がなんと言ってよいか分からず戸惑っていると、女の子は「こっち」と私の手を引いて歩き出した。困惑しながらも、されるがままについていくと、ブルーの屋根と白い壁の可愛らしい家に着く。
「ただいまぁ!おかしゃんー!」
女の子がドアを開けて叫ぶと、少しして水色のエプロンを着けた若い女性が出てきた。髪を後ろでひとくくりにし、うっすらと化粧している。
「おかえりー!……って、あれ?」
女性は私に気が付くと、警戒するように目を細めた。
「リコ。この人は?」
「えっとね、みちのまんなかでないてたの。だからつれてきたの」
女の子はリコという名前らしい。いい年して往来の真ん中で泣いていたことを暴露されて顔が熱くなる。
「あ、あの、その、私……」
「リコ。あとでお話があるけど、とりあえず着替えて来て。貴方はこれ使って」
女性は女の子を部屋の奥へ促すと、私にタオルを寄越した。戸惑いながらも、ありがたく受け取る。
「ありがとうございます……」
「今何か着替え用意するから、ちょっと待ってて」
「いえ!そこまでしていただくわけには」
「でも、その恰好でいるわけにはいかないでしょう?まだ暫く雨も止みそうにないし、うちにいる間に今着ている服を乾かした方がいいわ」
そう言って、私の返事を待たずにその場を離れる。
私は下を向き自分の状態を確認した。全身見事にずぶぬれで、制服は水を吸って色が変わってしまっている。雨に打たれた身体が冷えてきて、先程から寒気に襲われていた私は、ありがたく女性の好意を受けることにした。
「……なるほどねぇ。長年の婚約者も跡継ぎの座も奪われて、衝動的に家を飛び出した、と」
私は今、若い女性――リコちゃんの母親で名前はジョアンナと言うそうだ――に着替えの服を借り、彼女が作ってくれたホットミルクを飲みながらテーブルを挟んで向かい合っていた。事情を尋ねられた私は、侯爵令嬢であることを伏せ、詳細はぼやかしつつ、大体の事のあらましを語った。
ちなみにリコちゃんは疲れていたのか、ホットミルクを飲みながら舟を漕ぎだしたので、ソファに毛布をかけ寝かされている。
「うーん、貴方の両親って、貴方に何か恨みでもあるわけ?」
「さぁ……恨み、というより、どうでもいいんだと思います。あの人たちにとっていつも大切なのは姉で、私はそのオマケでしか無かったから。今回のことも、私じゃなくて姉を手元に置きたいからだと思います」
「そう……」
ジョアンナさんは若くして結婚し、リコちゃんを出産した直後に旦那さんを事故で亡くしてしまったらしい。
以来、庶民向けの商品を扱う商会で、服のデザインや縫製をしながら女手一つでリコちゃんを育てているのだそうだ。
「私には信じられないわ。自分の子供にどうしてそんな仕打ちが出来るのかしら」
そう言って眉を下げたジョアンナさんに育てられるリコちゃんを、少し羨ましく思ってしまった。ジョアンナさんがリコちゃんをとても大切にしてるであろうことは、ほんの少し一緒に過ごしただけの私にも充分伝わって来たから。
私は乾かすために室内に吊るされた学園の制服に目をやる。私が通っている中等部には平民の生徒も一部いるとはいえ、荒れていない手指や手入れされた肌と髪を見れば、貴族の出身だということはジョアンナさんにはすぐに分かっただろう。
けれど、彼女は私が語った以上のことを私に聞いてくることはなかった。
ジョアンナさんの話によると、リコちゃんは時々、育児放棄された猫や捨て犬、ケガした鳥などを拾ってきてしまうのだという。家に連れて来て、フクフクになるまでお世話するのだそうで、何度注意しても止めないらしい。やっていることが悪いことだとはいえないのもあって、あまり強く注意出来ないのだという。私のことは、「流石に人間を拾ってきたのは初めてだけどね」と笑っていた。
こんなに良くしてもらっても、今の私はお金を持っていない。唯一お金になりそうなのは、レイモンドと婚約した時に指輪代わりに貰ったピアスだけだ。それも、ワンセットを私とレイモンドと二人で分けたので、私が身に着けているのは片側だけだ。元々の宝石も安物だし、これでは質に入れたとして、まともに御礼も出来そうにない。服が乾いたらすぐ出ていこうと思っていたが、雨が止むまではうちにいたらいい、というジョアンナさんのお言葉に甘えて、私は少しの間だけお邪魔することにした。
「お腹空かない?少し早いけど夕飯にしましょう」
「私までいいんですか」
「ふふっ、そんなに良いものは出せないけど。手伝ってくれる?」
頷いた私は、ジョアンナさんにジャガイモの皮を剥くよう頼まれ、包丁片手に、ごくりと唾を飲み込んだ。
引き受けてはみたものの、何を隠そう私は包丁を握ったことがない。包丁どころか、ペーパーナイフ以外の刃物を手にするのも初めてだ。恐らく、ジョアンナさんとしては誰にでも出来る簡単な仕事を割り振ってくれたつもりだったのだろうが、貴族令嬢とは普通、厨房に立つことがないのだ。
「わっ、ちょっとストップ!」
私が包丁をジャガイモに突き刺そうとしているところで、振り向いたジョアンナさんが物凄いスピードで私から包丁を取り上げた。
「……今日はふかし芋にしようと思うの。皮は火が通った後に剥くからやっぱり大丈夫」
「あの、なんか、すみません……」
「気にしないで。あ、そうだ。レタス千切ってもらえる?」
芋の皮剥きすら出来ないなんて、と愕然とする私の肩を、ジョアンナさんが笑顔で叩く。私は気を取り直して一枚一枚レタスを千切り始めた。
そうして出来上がったメニューは、レタスとトマトのサラダ、ふかした芋をバターと混ぜて潰したもの、ベーコンに干し肉が入ったスープだ。昼寝から復活したリコちゃんとジョアンナさんと、三人で食卓を囲む。
リコちゃんはお芋が好物らしく、嬉しそうにフォークをぶんぶん振ってジョアンナさんに怒られていた。
目の前に並ぶのは、普段侯爵家で食べているものより質素な食事なのに、どうしてか家で食べるものよりずっと美味しく感じる。リコちゃんが今日あった楽しいこと、新しい発見など舌足らずな口調で明るく語る。聞いているだけでも幸せな気持ちになり、私とジョアンナさんは時折相づちを挟みながら楽しく耳を傾けていた。
侯爵家での食事はいつも、姉が話題の中心だった。あれこれ話すのは姉で、両親や私が聞き役になることが多かった。話題の中心が姉からリコちゃんに変わるだけで、こうも違うのか、と私は驚いた。
心にもない称賛を口にしなくてもいい。必要以上に謙遜しなくていい。相手の顔色を窺わなくていい。笑わないからといって睨まれたり、質問して無視されることもない。
たったそれだけのことが、どれほど心休まることか。
これほど温かい夕食を、今まで摂ったことがあっただろうか。
「おねしゃん、どうちたの」
「え?」
「どこかいたい?どちて、ないてるの」
子供用の椅子に座り芋を元気に頬張っていたリコちゃんが突然話すのを止めたかと思うと、心配そうにこちらを見ていた。横に座るジョアンナさんもだ。不思議に思い頬に手をやると、指先が濡れていた。自分でも気が付かない内に涙が溢れていたらしい。
「あれ?私、なんで……」
慌てて涙を拭うが、次から次へと溢れてくる。
「おかしいな、止まらない。なんでだろう。すみません……」
ごしごしと目をこすっていると、ぽてぽてと軽い足音を響かせながら、ハンカチを持ったリコちゃんが隣にやってきて私の膝によじ登る。
「よちよち」
きっと、リコちゃんが泣いた時、ジョアンナさんはいつもそうしているのだろう。ふくふくした小さな手で私の涙を拭くと、膝の上で伸び上がりながら私の頭を撫でる。
「うっ、うう……」
止めようと思えば思うほど、涙が溢れて止まらない。
私の家族は誰も、こんな風に頭を撫でてくれたことはなかった。涙を拭ってくれたことはなかった。
泣きじゃくる私と戸惑うリコちゃんをまとめてそっとジョアンナさんが抱きしめる。
私は物心ついて以来初めて声を上げて泣いた。
***
「おはよう」
目が覚めると翌朝だった。昨日はいつの間にか、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
とてもではないが、成人近い女性の振る舞いではない。今更ながら昨日の自分が恥ずかしくなって、呻き声をあげる。ジョアンナさんはそれを見て笑っていた。
「おはようございます。あの、すみません、私」
「いいからいいから。とりあえず顔洗ってきたら?」
ジョアンナさんに促され裏の井戸まで行き、顔を洗う。朝の冷たい空気が肺を満たしていくのが心地いい。顔を洗ってさっぱりすると、自分の現状を思い出してげんなりする。
「これから私、どうしよう……」
ジョアンナさんに甘えるまま、朝食を共に食べ、すっかり乾いていた制服に着替える。
昨夜、最終的に号泣する私につられて泣き出したリコちゃんは、余程疲れたのかまだ眠っているらしい。
「このまま家に帰るの?」
「……他に行くところがないですから」
心配そうに尋ねてくるジョアンナさんの目を、私は見ることが出来なかった。
最早侯爵家に居場所はない。既に婚約解消の手続きも後継を変更するための書類も王宮に提出されているだろう。
屋敷に帰れば外泊したことを叱責され、軟禁されるかもしれない。私に興味のない両親のことだから、私の不在に気がついていない可能性もあるけれど。
何のお咎めもなかったところで、学園へ行けば、婚約破棄され家督を奪われた令嬢として好奇の目に晒されるだろう。
今まで家族の冷たい態度にも耐えられたのは、レイモンドがいたからだ。
だけど、もう隣にレイモンドはいない。例え本心で受け入れたわけではなくとも、レイモンドが実家のために姉との婚約を受けざるを得ないのは、分かっていた。
それに、とあの姉のじっとりした視線を思い出す。
姉はきっと、今までのように私とレイモンドが親しく接するのを許さないだろう。きっともう愛称を呼ぶことさえ出来ない。
私を家族と思わない家族と、私ではなく姉の婚約者として振る舞うレイモンドが出入りする屋敷で暮らしていく未来を想像するだけで吐き気がしてくる。
「ねぇ、働く気はある?」
絶望しながら立ち上がりかけた私の手を、不意にジョアンナさんが握る。
「貴方、良い所のお嬢様でしょう?働くことに抵抗があるなら仕方ないけれど、そうじゃないなら私の働いている商会に口利きしてあげられるわ。そこが無理でも、商会長は顔が広いからきっと職は見つかると思う」
思いがけない提案に、私の心は揺れた。平民でも、知り合いの口利きや紹介状が無ければ、まともなところでは雇ってもらえないのは何処の国でも同じだ。
けれど、ジョアンナさんが口利きしてくれるのであれば――。
そこまで考えたところで、私ははっとして昨夜の夕食の準備を思い出す。
「でも、私、何もできません……ご存知でしょうが野菜の皮剥きさえまともに出来ないんです……」
自分で言っていて情けなくなって、昨日あれ程泣いたというのにまた涙が込み上げてくる。
「あんなの、やったことがあるかないかの違いだけよ。これからいくらだって覚えられる。それに、貴方に仕事を紹介するとしたら、帳簿付けとか、翻訳とかを担当してもらうんじゃないかしら。あの学園に通っているんだもの、それなりの教育を受けているのでしょう?」
「帳簿というか……一応一通りの計算は出来ます。領地経営のイロハは叩き込まれましたし、外国語は三か国語くらいならなんとか……」
私の言葉にジョアンナさんは目を輝かせた。領地経営という、到底平民の口からは出ない、最早誤魔化しようのないワードを盛り込んでしまったが、それについては気にする素振りを見せず、「それなら多分いけるわ!貴方さえ良ければ、今から行きましょう!」と息巻いている。
少し、ほんの少し逡巡して――私はコクリと頷いた。
それ程、あの家に帰りたくなかった。
結果として、私は直ぐに採用された。
何でも、最近隣国との取引を始めたところで、契約書の細かいチェックのため、隣国の言葉を読み書き出来る人を探していたらしい。
商会長だといって紹介されたその人は、壮年の男性で、アッシュブラウンの髪を短く刈り上げ清潔感のある服装をしていた。
そんなに簡単に決めていいのかと思うほどあっさり採用され、念の為訳ありであることも伝えたが、逆に空いていた社員寮の一室をあてがってくれた。
その上、着替えも無いのは困るだろうと、まだ何の仕事もしていない私に、給与を一部前借りして日用品を揃えさせてくれた。
本当に、商会長とジョアンナさんには頭が上がらない。勿論、私を助けてくれたリコちゃんにも。
それからの日々は、慌ただしくも穏やかに過ぎていった。仕事は最初は簡単な文書の翻訳作業だったが、速さと正確さが認められ、次第に重要な契約の書類も任されるようになった。時折、人手が足りない時には店舗の応援にいってお客様の対応をすることもある。
この商会では、事故で足が不自由になってしまった人や夫を亡くした未亡人、幼い子供を抱える女性なども多く雇っており、皆が声かけしながら助け合っていて、ギスギスした貴族社会しか知らない私には衝撃だった。
職場ではただの“ケイト”として名乗り、念の為、唯一の自慢だった明るいブロンドの髪を黒く染めた。この国では貴族は明るい髪色が多く、平民は暗いトーンの髪色をした人が多いためだ。平民では貴族令嬢のように髪を腰より長く伸ばしている人はあまりいないので、普段はくるくる纏めてお団子にしている。
職場の人たちは、平民なら知っていて当然のことを知らない私を見て、薄々出自に気付いているようだったが、特に態度を変えることもなかった。
私は仕事の外に、洗濯や料理など日常生活に必要なことも少しずつ覚えていった。ジョアンナさんやリコちゃんは私を何かと気にかけてくれ、週に一度は食事を共にする仲になっていた。
そうこうする内、気付けば半年が経っていた。私のこれまでの人生の中で、間違いなく最も充実した半年だった。
仕事にも家事にも慣れ、貴族特有の感情の読めない笑みではなく、自然な笑顔を浮かべられるようになった頃、同じ職場のマルスさんから食事に誘われた。
マルスさんは私より八歳年上で、なんとその昔、学園の中等部に特待生として通っていたのだという。そのため法律に詳しく、契約書の翻訳を担当する私と組んで仕事をすることも多い。
マルスさんは左手に麻痺があり、荷物など重いものを運ぶことが出来ない。学園在学中に馬車に轢かれる事故に遭い、重傷を負って三ヶ月間意識不明だったそうだ。そのせいで特待生の座を失い、退学せざるを得なかったのだという。特待生の条件は二カ月ごとに行われる定期考査で最優をとり続けることなので仕方ない。
レイモンド以外の男性と二人で出掛けたことがない私は少し悩んだが、マルスさんの優しく誠実な人柄は知っていたので、誘いを受けることにした。
すっぴんに普段着のワンピースで向かおうとした私は、全力でジョアンナさんに止められてしまった。服のデザインもこなす彼女からすれば、有り得ないらしい。侯爵家にいたときは流行に詳しい侍女に選んでもらうことが多かったので、こういったことにあまり明るくない私は恐縮しきりだった。
あまり気合いが入っているように思われるのも恥ずかしかったので、私としてはラフな格好がしたかったのだけれど、絶対に駄目だと主張するジョアンナさんの剣幕によって諦めざるを得なかった。
髪を編み込んでうっすら化粧を施し、瞳の色と同じ菫色のワンピースで現れた私に、マルスさんは目を丸くしていた。
「す、すっごく可愛いよ」
「ありがとうございます」
熟れたトマトのような真っ赤な顔で伝えてくれたマルスさんがおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「マルスさんも、いつもと雰囲気違いますね。その髪型似合ってます」
マルスさんは朝が苦手らしく、いつもふわふわした髪には寝癖がついていたが、この日は珍しく髪に整髪料をつけ後ろへ流している。
私が褒めると耳まで真っ赤にして御礼を言うマルスさんに、私はなんだかくすぐったい気持ちになった。
私たちは少し街をぷらぷらした後、マルスさんが予約してくれたというお店へ向かった。そこは貴族街の外れ、ちょうど平民が買い物をするエリアとの境目にあるお洒落な食堂だった。落ち着いた色合いの内装に、所々に目隠しにもなる植物が配置されていてとても素敵なお店だった。
これまで、生活に必要な物を揃えるだけで一苦労であまり外食はしてこなかった。久々の外食に、私は少し浮かれていた。
だから、思ってもみなかったのだ。お忍びで来ていた面識のある貴族にそれを目撃されていたとは。
食堂では、沢山あるメニューに目移りする私に、マルスさんがお勧めの料理をいくつか注文してくれた。お店のチョイスといい、案外女性慣れしているのかもしれないと思って、それとなく探りを入れると、恥ずかしそうに「実は職場の女性陣にこっそり聞いて来た」と教えてくれた。マルスさんが顔を赤く染めて照れるので、なんだか私まで顔が熱くなった。
プライベートで会うマルスさんは、仕事中に時折見せる鋭さは鳴りを潜め、おっとりとした雰囲気を醸し出している。元来はこちらが素なのだろう。ふわふわした栗色の髪に優しい琥珀色の瞳をしたマルスさんと向かい合っていると不思議と自然体でいられる。まるでもう何年も前から知っている、気心知れた友人と過ごすような心地良さを覚えた。
予想外に楽しく過ごした私は、帰り際「また誘ってもいいですか」と赤い顔で尋ねてきたマルスさんに笑顔で頷いた。
眠りにつく前、楽しかった今日一日を思い返す。いつも何処か憂鬱が付きまとっていたケイトリン・ローリエとして過ごしていた日々はどんどん遠くなっていく。置いてきてしまったものに、思いを馳せることがないわけではない。
けれど、私はただの“ケイト”として生きていこう。
清々しい気持ちで眠りについた私を翌日待っていたのは、望まない再会だった。