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第8章

第8章


 

 果たして、瑠璃と百瀬は、夜明け前で薄暗く、人の気配のない比叡山延暦寺の境内へと辿り着いていた。

 百瀬は入念に下見済みらしく、大きなリュックを背負い、三種の宝物の入ったジュラルミンケースを持ちながらも、慣れた足取りで、境内奥の、そのまた奥へと向かう。

 瑠璃は、未知の領域へと足を踏み入れ、百瀬の後を黙ってついていくしかない。

 立ち入り禁止の柵を乗り越え、雑草が鬱蒼と生い茂る道なき道を進んだ先に、朽ち果てて、今にも崩壊しそうな木造の小さな社殿があった。

「ここが?」

 瑠璃が、緊張感を漂わせ、ゴクリと生唾を飲み込みながら百瀬に尋ねる。

「あぁ。暦堂こよみどう……今では、延暦寺の堂塔どうとうリストからも外された、もはや修行僧さえ知らない御堂だよ」

「延暦寺って、単独の堂宇どううの名称じゃなくて、比叡山の山上から東麓にかけて位置する百五十もの堂塔の総称だったわよね?」

「その通り。東塔とうどう西塔さいとう横川よかわなどで構成された三塔十六谷と称する比叡山全体に点在する寺社の総称だ。信長公に焼き討ちされる直前の最盛期には、実に三千を超える寺社が集まっていたらしい」

「延暦寺の中の暦堂か……ふーん。暦の文字が重なっているのも、なんだか意味深ね」

「延暦寺の名称の由来は、開祖である伝教大師最澄が延暦七(788)年に開創したことを記念したものだが……その中に暦堂を作ったのは偶然などではない。天海大僧正の狙いのはずだ」

「天海の?」

「数ヶ月前、日光東照宮で行われた大規模な学術発掘調査で、東照宮境内の未調査区域を調べたところ、地下2メートルの深さに、明らかに人為的に埋められた小さな祠が発見された。今回の一連の動きは、全てそこから始まっている。その祠の中には、和時計盤が宝物箱によって厳重に保管されており、同時に見つかった銘板から、それは間違いなく、天海大僧正の遺物だとわかったのだ」

「へぇ……天海の遺物……」

「祠の名は『暦庵こよみあん』……これを必然と言わずして、なんとする」

 百瀬は興奮のあまり、思わず身震いした。

「スタートが日光東照宮の暦庵で、ゴールが比叡山延暦寺の暦堂……これも全部、天海が緻密に計算して仕組んだ仕掛けである、と?」

「百聞は一見に如かず……さぁ、そろそろ時間だ」

 暦堂の前に立った百瀬はまず、ジュラルミンケースを地面に置き、あらかじめ準備していた松明と木製の杖をリュックから取り出した。続けて、松明に火をつけて左手に持ち、右手で杖を手にすると、暦堂を中心に囲むように、その杖で地面に巨大な魔法陣を描き始める。

「その杖は、まさかワンド?」

 瑠璃の問いかけに百瀬は、当然とばかりに頷く。

「イチイの木で鍛錬した、強大な魔力を持つ杖だ」

 ワンドとは、黒魔術の呪術を行う際に用いる魔力を封じ込めた『魔法の杖』のことだ。呪いの種類によって材質は異なるが、百瀬が手にしているのは、生死にまつわる強い魔力が宿るとされるイチイの木を素材としていた。

 魔法陣を描き終えた百瀬は、ジュラルミンケースを開け、魔法陣の各所に、九重の鉾、十龍の水晶、地天泰の卦を並べる。

 並べ終えた瞬間、天空にわかに曇り、雷雲たちこめ、激しい雷が轟いた。

 その時!

「待て!」

 轟音を響かせて現れた垂直離着陸ジェットヘリから、零とアーリオが降り立つ。このジェットヘリは異端査問官メンバー専用の特別仕様機だ。

「クオン瑠璃、君は百瀬に騙されている! 信長の秘宝、鬼の財宝など、ハナから存在しなかったのだ! もちろん、かぐやの羽衣でもない!」

 零は必死に瑠璃を説得しようと叫ぶが、予想外のセリフを返される。

「私にとって、宝探しの最大の魅力は、こうして、異端査問官や謎の秘密結社、そして都市伝説上のトレジャーハンター……世界中の曲者、実力者たちが、自分の叡智えいちとプライドを賭けて、同じ宝を巡って競い合うド真ん中に参加すること……まさに、人間同士の化かし合い……誰が正義で、誰が悪かなんて関係ない。封印を解かれるのを待っているお宝の正体さえ見届ければ満足なの……まだまだAIなんかじゃ、人の心の中までは解析できないもの。そこが面白くてたまらない!」

「かぐやの羽衣が目的じゃないのか?」

「そんなの零、あなたをココに呼ぶための『エサ』よ。みんな、裏切ったり裏切られたりしてギリギリまで追い詰められないと、本当の実力を発揮できないでしょ。だから一芝居打ったってわけ。最高の舞台には最高の役者が全員揃わなきゃ」

 実は瑠璃は、高千穂峡狭野神社で零に捨てゼリフを吐いている間、まばたきとウインクを繰り返して、『HIEIZAN』のモールス符号を送り続けていたのだ。まばたきが長音。ウインクが短音である。

 万が一、零が、最終目的地がどこなのかを推理できなかったとしても、比叡山延暦寺まで追って来れるように……。

 だが杞憂に終わったようだ。但し、零が瑠璃のメッセージに気づいたかどうかは定かではない。

 瑠璃は続ける。

「信長がキリスト教を庇護すると見せかけ、ルイス・フロイスから騙し取ったという異端査問官しか持つことが許されなかった黒魔術秘法の魔本……それが、ここへの移動中に、百瀬さんと推理した信長の宝の正体よ!」

 瑠璃はさらに演説をぶつ。

 ――魔本の中身、それはズバリ、ファウストと悪魔が魂の契約を取り交わした契約書とその呪文である、と。

 文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』は、実在の人物であった希代の錬金術師、ドクトル・ファウストゥスの伝記に基づいた作品である。主人公ファウストが、悪魔メフィストフェレスとの取引で手に入れたもの……不老不死と永遠の命を得る契約書と呪文こそが、信長の宝の正体だというのだ。

「信長に謀られたことを知ったフロイスとヤスケは、明智光秀をそそのかして、本能寺で信長暗殺を実行させた。その後、二度と魔本が世に出ないよう、信長の家来だった豊臣秀吉、徳川家康、前田利家の三人と、天下獲りへの協力と引き換えに共謀して、魔本をこの比叡山延暦寺に封印し、三武将の宝物で各々に縁の深い三地点に結界を張って、守り続けてきたのよ」

「半分正しくて、半分間違っている。台本の修正が必要だな」

 零は言い切った。

「どういうこと?」

 既に、謎はすべて解けたと思っている零は、あえて遠回しに自説を披露する。

「本能寺の変が起きる前、信長の家臣たち、特に、秀吉、家康、利家、そして光秀……この四人が最も恐れたこと……それは信長が黒魔術の魔本により、不老不死を手に入れ、永遠に生き続けることだった……だが、実際には、信長は、永遠の命を得る直前に、本能寺の変によって確実に殺されたのだ。だとすれば、なにゆえに黒魔術の魔本を、その後も封印する必要があったのか? 信長暗殺の実行犯である光秀は、なにゆえに自ら主君殺しの汚名を被り、わざわざ死を偽装工作した上で、天海と名を変えて生き永らえたのか? その真相に辿り着かないことには、まだ全貌を解明できたことにはならない」

「え? 光秀が天海? なんか、もったいつけたエラそうな言い方、嫌われるわよ、零!」

 瑠璃は、フン!とソッポを向いた。

 零の視線の先は、瑠璃ではなく、その隣の百瀬に向けられている。

「百瀬さん……あなたが求めている財宝とは、信長の宝というより、信長そのものなんじゃないですか?」

「……」

 百瀬は先刻から沈黙を守っている。

「信長そのもの?」

 我慢できずに瑠璃が反応する。

「……謎をすべて解読できたような口ぶりですが、果たしてどうでしょう?」

 百瀬がようやく口を開いた。

 負け惜しみか、それとも……。

「いくら考えても変なんだよ……織田信長を鬼だとした場合、桃太郎が明智光秀、猿が豊臣秀吉、犬が前田利家、雉が徳川家康となるが、桃太郎伝説と本能寺の変を重ねあわせると、鬼を、つまり信長を成敗すれば、あとは財宝を奪って、お話は終わりのはず。にもかかわらず、残った家来たちが、信長の財宝を巡って争ったり、隠した痕跡は見当たらない……それはなぜか?……その宝とやらが、誰も欲しくないモノだったからに違いない」

 零は、一対一の対決とばかりに、百瀬の目を真っ直ぐに見据え、言い切った。

 そして尚も続ける。

「黒魔術の秘法で、一度死んだはずの信長が復活すれば、自分たちの命はない……」

 零の推理を聞いている瑠璃の表情に、生気が戻った。

「恐怖だったんだよ、ありとあらゆる人間の欲に勝るものは! フロイスたちが去った後でも、再度、ヨーロッパから別ルートで黒魔術が日本に渡ってきて、鬼=信長が復活する可能性に恐怖したんだ……キリスト教=黒魔術だと信じていた彼らは、キリスト教を弾圧するという形を取らざるを得なかった」

 これまで零に花を持たせていたアーリオが補足する。

「本能寺の変では、焼け跡から、殺された信長の遺体はついに発見されなかったと言われております。頭髪はおろか遺骨すら全て燃え尽きたのだと……しかし……実際には、秘密裏に本能寺から運び出されていたとしたら? そして、ここ比叡山延暦寺に、その信長のミイラが現存するとしたら、どうでしょう? かつての黒魔術では実際には難しかったことが、現代科学をもってすれば実現できるとしたら、どうでしょう?」

 アーリオの意味深な仮説に、瑠璃がハッとして声を上げた。

「まさか……クローン!」

「中世ヨーロッパの錬金術師によって生み出されたといわれる人造人間。あの時代においての成功例は眉唾ものだが、最新医科学においては、頭髪や爪さえあれば、クローン人間を創り上げることは難しくないはずだ」

 零も核心を突く。

「ましてや、希代の錬金術師、ドクトル・ファウストゥスが書き遺した人造人間ホムンクルスの手引書と合わせれば、まさに『鬼に金棒』です」

 アーリオも零の謎かけに答えた。

 零が百瀬に詰問する。

「そうですよね。日光東照宮総代にして元東西大学医学部医学部長、いや、非合法医療組織『レビュー』の日本代表、百瀬克己さん?」

 百瀬が不敵に笑い飛ばす。

「その程度の浅はかな推理で調子に乗るでない。今、この混乱した世を変えるには、信長様のような強大なお力を持った人物の復活が渇望されているのだ……だから私は、その昔、家来だった光秀、そして秀吉、家康、利家らの共謀によって無念にも殺され、その後の復活さえ封じ込められた信長様をこの手で生き返らせることを決意したのだ! 奴らときたら、身に余る恩義を忘れ、猿の分際で、雉の分際で、犬の分際で、第六天大魔王様を永遠に封印できるとでも思っていたのか!」

 百瀬は態度を豹変させて吐き捨てるように叫んだ。

 ――百瀬にとっての鬼の財宝とは、この比叡山延暦寺に封印され、埋葬されている信長のミイラにほかならなかった。

 本能寺の変の後、事前の計略通り影武者を仕立てた後に合流した、本物の光秀(桃太郎)、家康(雉)、利家(犬)、秀吉(猿)たちは、宣教師を隠れ蓑にした異端査問官たちの協力を得て、信長の遺体を密かに比叡山延暦寺本堂の北東に位置する暦堂へと運んだ。

 比叡山が選ばれた理由は、零の推理通りである。

 京都を守護するための最強の霊力を持つ鬼門としてだけでなく、信長憎しの負のオーラに満ちたマイナスのパワースポットでもあることに他ならなかった。

「でも、まだ分からないことがあるわ……光秀にしても、家康や秀吉にしても、そんなに信長の復活が怖かったのなら、どうして遺体と魔本を完全に焼き尽くすなりして消滅させなかったの?」

 瑠璃が素朴だが重大な疑念を口にする。

「おそらく、信長亡き後、お互いを牽制し合う『三すくみ状態』を維持するための保険でしょう。四人で協力して主君を葬り去った事実が絶対に漏れないように、一蓮托生のあかしとしたのだと思います」

 アーリオが鮮やかな見解を述べる。

「なるほど。秀吉と利家の死後は、不都合な秘密を知る者は、家康と、徳川家の重鎮となった天海のみ……淀君よどぎみ豊臣秀頼とよとみひでよりは、真実を知らないまま滅亡の道を歩んだわけね」

 瑠璃の疑念も晴れてきた。

「豊臣家が滅んだ後、家康も亡くなり、一人残された天海こと明智光秀は、二度と魔王・織田信長が復活することなく、平和な世がいつまでも続くことを願ったに違いない。最後の大仕事として、陰陽道や密教の知識を総動員し、新たに三武人にゆかりのある聖地に結界を張って、比叡山の封印を盤石にしたのだろう。暦堂から信長のミイラを掘り起こして焼却すれば、作業に携わった者に秘密を暴露される危険がある。百歳を超え、体力も衰えた光秀は、誰にも秘密を悟られないように一切記録を残さず、自分の死とともに全部封印したんだ」

 いよいよ零の推理も佳境を迎えた。

「ここまで露払いしていただいた皆様には感謝の言葉もありません。特に、プロフェッサー神代……桃太郎伝説と信長公を同一視した推理には脱帽です。私の代わりに動く駒として想定通りに動いてくれました」

「アンタの駒だと?」

 夜明けとともに周囲が明るくなりはじめ、百瀬の背後に隠れていた数人の部下たちが、様々な武器を手に身構えているのに気づいた。最新式の強力な電子銃やテーザー銃のようだ。

 部下たちの中に、零は見覚えのある顔を見つけた。

 不可思議堂に仏像を鑑定に持ち込んだ、あの小太りの中年男性……相模だ。

「……和時計盤の代金八万八千円返せ!」

 相模は零を用心深く睨みつけたまま、ニヤリとほくそ笑む。

「嫁に頭が上がらないオレ様の演技も、なかなかだっただろう?」

「アンタまで、仕組まれたピースの一つだったとはな……まんまとしてやられたよ」

 百瀬は、表向き、日光東照宮総代職を勤めながら、レビューの組織力とリサーチ網を駆使しつつ、十年以上を費やして信長復活に関する手掛かりを収集し続け、綿密かつ用意周到に信長復活戦略を練ってきたのだ。その計画の総仕上げの一つが、例の和時計盤である。学術調査という名目でレビューが資金援助し、天海にまつわる遺物を根こそぎ発掘した成果だ。

 長年の研究で、暦庵から発見された和時計盤が信長復活の重要な鍵を握ることは推測できたが、医療科学が専門のレビューの歴史的知見では、暗号解読は困難だった。

 ちょうどその頃、レビューの衛星監視網が、武田の洞窟から現れた二名の人影を追跡した結果、クオン財閥の瑠璃と、不可思議堂店主・神代零と判明。

 百瀬は、神代零なる人物の正体と実力を見極めるべく、寄木細工の箱に偽の仏像を入れ、和時計盤を隠して、配下の相模を送り込んだのである。

 零は、最初から百瀬の掌の上で踊らされていた現実に、己の眼力不足を痛感する。

「全てはこの私の計画通り。お疲れ様でした。神代零博士、いや音に聞くトレジャーハンターZEROと、その他の皆さんの出番はここまでです」

「出番終了なら、どうして物騒な銃口を向けたままなんだ?」

「感謝と信頼とは、また別モノ。完全に幕が下りるまでは、まだまだ油断できません」

 零も、瑠璃も、アーリオも、このままでは身動きが取れない。

「異端査問官の邪魔が入ったことだけは想定外でしたが、まぁ、結果オーライでしょう……ところで、バチカンの皆さんは、どこまで真相に気づいていたのですかな? 結界の三地点をはじめ、信長様復活の秘密についても最初からご存じだったようですが、全てを把握されていたのなら、なにゆえ四百年以上も放置していたのでしょう? なぜ今になって突然現れて、数々の妨害や攪乱工作を始めたのか……そのあたりの矛盾を説明していただきましょうか?」

「……なにを白々しい。我々は放置していたのではありません。ずっと、見守り続けているのです。全世界に封印された悪魔が復活するのを防ぐために! 私はアジア地区担当として、常時監視ポイントの一つだった日光東照宮の十龍の水晶が予定外に移動したことで、四百数十年ぶりに悪魔封印の結界の一つが破られた事実を知りました……これを機会に、信長復活を企む悪魔に魂を売った下賤で愚かな輩を根こそぎ炙り出し、対処するため、わざと関係者全員を泳がせていたのです」

 アーリオは、自分こそ全て計算ずくとばかりに、百瀬とレビューを小馬鹿にするように答えた。

 だが百瀬は、ほとんど表情を変えず、

「その程度ですか。ローマ教皇庁も恐れるに足らず、ですな」

 と鼻で笑い返す。

「戯言を語る時間もここまでです。ついに、封印を解く時が来ました。我々レビューの科学技術力とドクトル・ファウストゥスの魔本を掛け合わせれば、信長様を現世に蘇らせることができるのです! レビューの実力を全世界に見せつけられるのです!」

 百瀬が叫び、呼応した相模ら部下たちが、暦堂を囲む魔法陣に置かれた九重の鉾、十龍の水晶、地天泰の卦の方向を、黒魔術の呪術に従って、それぞれ九〇度ずつ移動させた。

 レビューは、バチカンにスパイを潜入させて調略し、秘伝の黒魔術の呪術を入念に調べ上げていたのだ。

 百瀬は次に、背後に控えていた別チームの者たちに合図すると、高さ1メートルほどの木箱を大事そうに抱えていた四名が、注意深く暦堂の中心部に木箱を置き、その蓋を取った。

「和時計かっ!」

 中身を見た零が思わず叫んだ。

「家康公が愛用されていたゼンマイ式の自鳴鐘じめいきょうです。家康公亡き後は、天海大僧正が貰い受け、ここ、延暦寺地獄堂に奉納しておりました……まさに封印を解く最後の仕掛けです」

 よく見ると、その和時計の中心部分、時刻を表記する丸い盤がゴッソリと剥がれている。

 数字も文字も何もない盤の中央部分には、針が一本だけ、虚しく、空白を指している。

 百瀬は、何ら動じることなく余裕の表情で、その針をジジジジと右手人差し指で動かしていく。

 あるところまで針を動かしたその時だ。

 瞬間、天空に雷鳴が轟く。

 直後に延暦寺暦堂に一陣の風とともに稲妻が落ちる。

 一帯に衝撃が走るが、朽ちているとはいえ、屋根上の銅製の鳳凰が避雷針となり、静寂が戻った。

 百瀬は天命を気取って、高らかに宣言する。

「信長様の亡骸に、ドクトル・ファウストゥスの魔術、ホムンクルスの呪文を注ぎます! 今こそ、信長様の復活です」

 百瀬の指示で、相模たちの手により、暦堂内部の床下から、厳重に何層にも封印された鉄製の棺桶が出現する。

 その中に信長のミイラと黒魔術の魔本が封印されているはずだ。

 眼前の異様な光景に息を呑む一同。

 手も足も出ない状況に苛立ちを隠せない零と瑠璃に比べ、アーリオは冷静さを失っていないように見える。

 相模たちが、鉄の棺桶を、暦堂の周囲を取り囲んだ魔法陣の鬼門の位置、すなわち丑寅の場所に置く。

 続いて、魔方陣を和時計盤に見立てて、申の場所に九重の鉾を、酉の場所に十龍の水晶を、戌の場所に地天泰の卦をそれぞれ置き直す。

「ファウストゥスの命により我は汝を召喚する……地獄の王位にある者たちよ……バエル、パイモン、ベレト、プルソン、アスモダイ、ヴィネ、バラム、ザガン、ベリアルよ……ホムンクルスの力を授け給え」

 しかし。

 鉄の棺桶に変化はない。

「そんなはずは……」

 百瀬は焦った。

 再度、呪文を唱える。

「ファウストゥスの命により我は汝を召喚する……地獄の王位にある者たちよ……バエル、パイモン、ベレト、プルソン、アスモダイ、ヴィネ、バラム、ザガン、ベリアルよ……ホムンクルスの力を授け給え」

 やはり信長のミイラが安置された棺桶は、何の変化も起こさない。

「どうしてだ! どうしてなんだ!」

 百瀬はハッと思い付いて平常心を取り戻すと、零を睨みつけた。

「そうかっ! 台座だ! 十龍の水晶は、本体だけではその力を発動させられないのだ」

 百瀬が瑠璃に目配せして指示を出す。

「ミス・クオン、あなたにチャンスをあげます。おとなしく十龍の水晶の台座を出しなさい」

「台座? なんの事だか?」

「私に従わなければ、あなたの安全も保障できませんよ」

 先刻まで冷静だったアーリオも、しきりに時計を気にして焦りが見え始めた。

 百瀬は勝ち誇ったように、情報開示する。

「バチカンからの援軍をお待ちのようですが、遅いですねぇ」

「むむっ、我々の仲間に何をしたのです?」

「ここは日本ですよ。いわば私の庭のようなもの。お客様がいらっしゃればすぐにわかります。まぁ、ちょっとテーザー銃の餌食になってお眠りのようですね」

 期待していた援軍を断たれ、途端に余裕を失うアーリオ。

 百瀬は、さらに容赦ない。

「あ、クオン財閥の無人攻撃ドローンも、我がレビューの電磁波防御システムで、その辺のどこかに墜落しているはずです」

 さすがの瑠璃も表情が曇る。

 想像以上に鉄壁なレビューの戦法に、零・瑠璃・アーリオは絶体絶命のピンチに陥った。

「さぁ、台座は誰が持っているのですか?」

 百瀬が蛇のような目つきで、三人を舐め回すように観察し、鋭く見抜いた。

 視線の先は、零が襷掛けにしているショルダーバッグである。

 十龍の水晶の台座は、アーリオが白山比め神社で瑠璃から奪った時から、零のショルダーバッグに入ったままだった。

 アーリオは、高千穂峡で百瀬と瑠璃に三種の宝物入りジュラルミンケースを盗られた後、ジェットヘリで比叡山に向かう途中、台座入りショルダーバッグを零に返していたのだ。

 零は、苦虫を噛み潰したような顔で反撃の機会を窺うが、自分にも瑠璃にもアーリオにも銃口を突き付けられている今、何もできず、流れに身を任せるしかなかった。

 相模が、クククと肩を揺らしながら、零から乱暴にショルダーバッグを奪い取り、中から台座を抜き出して百瀬に手渡す。

 瑠璃も悔しそうに百瀬や相模を睨み返して、一瞬の敵の油断を待つしかない状況だ。

 アーリオは、十字架を握りしめ、天に祈りを捧げて、まさに神頼み状態である。

 百瀬は、手にした十龍の水晶の台座を天に掲げ、自己陶酔して、

「いやはや、天海大僧正いや、明智光秀の念には念を入れた封印と、数々の巧妙な仕掛けには恐れ入りますな……まさか、パワースポットでもなく、一見、何も関係のなさそうな武田の黒山金山の地下に、徳川の財宝の一部を守り本尊として、十龍の水晶の台座を封印していたとは、さすがにバチカンの皆さんもご存じなかったでしょう。おそらくは、日光東照宮造営時に、百足衆の残党に盗掘防止策とともに仕掛けさせたものなのでしょう。私も最初は半信半疑でしたが、やはり水晶だけでは反応がないところをみると、この台座こそ、いわば信長様復活の最後にして最大の鍵! 現在では誰も解明できない陰陽道と密教の秘奥義を駆使して、この台座がなければ信長様復活は不可能となるように設計されていたのですね。執念ともいうべき光秀の用心深さよ。だが、この百瀬には通用しなかった!」

 と勝利宣言、魔法陣の中の十龍の水晶に注意深く台座を取り付けた。

 そして再び、呪文を唱え始める。

「ファウストゥスの命により我は汝を召喚する……地獄の王位にある者たちよ……バエル、パイモン、ベレト、プルソン、アスモダイ、ヴィネ、バラム、ザガン、ベリアルよ……ホムンクルスの力を授け給え」

 今度こそ、地響きが巻き起こり、天空の雷鳴も激しくなっていく。

 突然、豪雨が降り出し、信長のミイラが封印されている鉄製の棺桶が青白く光り輝き始める。

「いよいよです! いよいよ、信長様の復活です」

「させるかっ」

 アーリオが懐から『パラケルススの鞭』を取り出して、百瀬たちに振り回そうとする。

 が、すかさず相模が電子銃を放つと、強力な電磁力で絡め捕られてしまう。

「うわっ、なんなんですか、この銃は?」

「ふふふ、バチカンのインチキ武器など、我がレビューの新兵器の前ではオモチャ同然!」

 テーザー銃の銃声が一斉に迫る!

 必死になってテーザー弾をよけるアーリオと零。

「プロフェッサー神代! あなたも応戦してください!」

 アーリオが零に加勢するよう求めた。

「無理だ! 奴ら、新型の銃を持ってる!」

 レビュー軍団が繰り出す新型銃の威力にビビった零が木陰に隠れながら叫ぶ。

「あなた、ベレッタ92を持っていたじゃないですか」

「あれはモデルガンだ!」

「はぁ!?」

「日本は、拳銃所持禁止なんだよ! あんたこそ、あんな鞭持ってたんなら、もっと早く使ってくれよ!」

「私は神に仕える身ですよ」

「俺には容赦なく鎖を嵌めたでしょうが。これだってマジックなんだろ? 早くトリックを暴いて…」

「これはホンモノの超常現象としか思えません…」

 零とアーリオが、百瀬たちの注意を引くべく、大袈裟にボケとツッコミ漫才して仲間割れする中、瑠璃は阿吽の呼吸で真意を理解し、隙を見てジリジリと百瀬の背後に迫っていく。

 あと一歩で百瀬に襲いかかろうとするが、その直前で、部下たちに取り押さえられてしまう。

「残念です。ミス・クオン……あなたは、一番利用価値のある人間の味方だと宣言していたはず……この私に、メリットは感じてくださらないのですか?」

 テーザー銃を握った百瀬が、瑠璃の額に銃口を突き付けつつ、凄む。

「私、織田信長って全然好きじゃないの。だから、信長復活は勘弁してほしいわ。それに、もっと嫌いなのは女に銃を向ける男!」

「ククク……私は追い詰められた女性の悲壮な顔が大好物なのですよ」

 百瀬が変態じみた本性を現したその時、

 天空が光り輝き、一筋の雷光が、信長のミイラの入った鉄の棺桶めがけ直撃する。

 その刹那、棺桶全体が黄金色に燃え上がる。

「織田信長様! 第六天魔王様! お目覚めください! 四百四十年ぶりに復活を!」

 信長復活まで、あとわずかだ。

 不思議と熱を放たず、金色に輝き、青白く燃える鉄棺桶に吸い寄せられ、見惚れる百瀬。

 その時だった。

 百瀬と部下たちの視線が一斉に棺桶に釘付けになり、監視が弱まった一瞬のスキを突き、瑠璃が隠し持っていた何かを百瀬の首めがけて投げつけた。

「異端査問官さん! 今よ! パラケルススの呪文を!」

 その声に敏感に反応し、百瀬の部下たちと格闘していたアーリオが、ハッと百瀬の方を見た。

「ぶわっ、なにをする!」

 なんと、百瀬の首にパラケルススの鎖が嵌められているではないか!

 すぐさま、アーリオは十字を切り、呪文を唱え始める。

「パラケルススの命により我は汝を召喚する……天の王よ。ベララネンシス、バルダキシンスス、パウマキア、アポロギアエ・セデスによって、最も強力なる王子ゲニィ、リアキダエ、およびタタールの住処の司祭によりて、また第九の軍団におけるアポロギアの第一王子によりて……アドナイ、エル、エロヒム、エロヒ、エヘイエー、アシェル、エハイエー、ツァバオト、エリオン、イヤー、テトラグラマトン、シャダイ……」

 ギリギリギリ。

 パラケルススの鎖が百瀬の首を、情け容赦なく無慈悲に締め上げてゆく。

「く、苦しい……息が……息が……」

 呼吸ができなくなり、倒れ込む百瀬。

 百瀬の部下たちに動揺が走る。

 反撃の好機を逃さず、零が、アーリオが、そして瑠璃が、同時に魔法陣へと飛び掛かった。

 間髪入れず、零が九重の鉾を、アーリオが十龍の水晶を、瑠璃が地天泰の卦を、それぞれ躊躇なく叩き壊す。

 しかし、鉄の棺桶の黄金の炎は消えるどころか、一段と輝きを増しているではないか。

「どうして?」

 瑠璃が絶叫する。

「フフフ……無駄だ! 信長様復活の儀式は、もう、誰にも止められない!」

 パラケルススの鎖の威力で息も絶え絶えの中、百瀬が必死の形相で叫んだ。

「いや、絶対、なにかあるはずだ! 万が一に備えての最後の最後の安全装置が! あれほど念には念を入れ、幾重にも厳重で凝りに凝った封印を施した天海なら、絶対になにか……」

 さしもの零の頭脳も、極限状態で空回りしているようだ。

「諦めないで! あなたなら最後の謎を絶対に解けるはず!」

 瑠璃は零を信じて勇気づける。

「もう時間がない。信長が復活してしまいます!」

 アーリオも零に縋るように叫ぶ。

 零は眼を見開き、ハッと閃いた。

 次の瞬間、零は飛び出しながらジャケットのポケットを探り、何かが指に当たる感触を確かめた。

 零が向かった先、それは、魔法陣の中央、つまり暦堂の中心地に置かれた和時計だ。その中心の空白部分に、速攻で『あるもの』を嵌め込んだ。

 刹那、雷鳴が止み、稲妻が霧消し、――鉄の棺桶の炎も消滅した。

「と、止まったわ!」

 瑠璃が息を呑む。

「復活の儀式が……中断された?」

 アーリオも半信半疑で鉄の棺桶を凝視している。

 黄金色に光り輝いていた鉄の棺桶は、輝きを失い、信長のミイラと魔本を封印したまま、やがてドロドロに溶け、黒い金属の塊と化した。

「む…無念だ……神代零め…」

 青色吐息の百瀬は、気力も失せてガックリと気絶した。

 信長復活という悪魔の野望が完全に潰えたことを確認した瑠璃とアーリオが、和時計の傍に佇む零のもとへ近づいていく。

 和時計の中央部分に、例の和時計盤が嵌め込まれている。

 零は、四百数十年ぶりに元の場所に戻り、再び時を刻み始めた和時計の機械音に、光秀=天海の呪文が聞こえたような気がしていた。

 武田洞窟に『かぐやの羽衣』の狙いを定めてから、瑠璃と出逢い、十龍の水晶の台座を発見し、寄木細工から和時計盤を手に入れ……零は最初から、時を越え、天海の霊力に導かれていたのかもしれない。

「和時計盤……これが、天海が仕掛けた、信長復活を土壇場で食い止める究極のラストワンピースだったんだ。一番重要な鍵を自ら発掘しておきながら、オレに託したために最後の最後で野望を阻まれた百瀬という男、つくづく運命の皮肉を呪うだろうな」

 まさに首の皮一枚の攻防だった。

 零の言葉に、瑠璃もアーリオも、言葉がない。

 だが皆、死力を尽くして向き合った『冒険』に、何物にも代えがたい充足感と生きている実感が全身に漲って、お互い以心伝心に近い心地良い感覚に浸っていた。


 こうして、レビューの信長復活作戦は、危機一髪で未遂に終わった。

 落ち武者の如く逃亡した百瀬の部下たちは、テーザー銃で気絶させられていた別の異端査問官たちの手により、一網打尽で捕獲された。

 首尾良く百瀬を捕獲したアーリオによれば、百瀬と部下たちはその後、異端査問所で一切の記憶を抹消・改竄操作された後、国際警察機構により別件逮捕、別の罪状をもとに国際裁判に掛けられる予定だという。

 現在のバチカンにおいて、存在自体ありえないとされている異端査問官の活躍は、決して表に出ることはないのだ。

 だが、レビューという組織全体を壊滅できたわけではない。

 また、時を同じくして、匿名の多額の寄付により、延暦寺の暦堂が再建された。寄付者の希望に従って、暦堂の鬼門地から見つかった黒い鉄塊は、暦堂の地下深くに封印、これまで地獄堂に安置されていた徳川家康公縁の和時計・自鳴鐘が、解体修理された上で宝物として奉納されたという。匿名の寄付者がローマ教皇庁かどうかは定かではない。


 全てが終わり、アーリオは、東京国際空港の国際線ビジネスジェット専用ゲートで、零と瑠璃に別れを告げようとしていた。

「また会おう、と言いたいけど、もうパラケルススの鎖だの鞭だのは勘弁してもらいたいな」

「私も、記憶を消されたり、別人格を植え付けられたりしたら、たまんないもん」

「お互い敵味方に別れるような再会はしたくないですね」

 以心伝心、皆笑顔である。

 しかし。

 不意にアーリオのスマホに、緊急連絡暗号メールが飛び込む。

「なんだって? クロアチアで、『月の女王』の破片が見つかった?」

 零と瑠璃は思わず顔を見合わせ、二人とも妄想が膨らむ。

「月の女王って、……かぐや姫のことなんじゃないの?」

 瑠璃は、早く詳しい情報が知りたくて仕方ない様子だ。

「飛躍し過ぎだろう。クロアチアでなぜ?」

 新たな謎が謎を呼び、零もアーリオに問わずにはいられない。

「教えてくれ! 月の女王の破片が見つかった詳しい場所を!」

「私も聞きたいことがあります。『かぐやの羽衣』とは、いったい何なんですか?」

「かぐやの羽衣は……」

 瑠璃が説明しようとするのを零が遮って、

「かぐやの羽衣の存在を証明できれば、万由里まゆりが生きていることも証明できる」

 と、独り言を呟いた。

「万由里……誰のことですか?」

 アーリオが首を傾げ、瑠璃と目と目で会話する。



 数日後、零とアーリオ、そして瑠璃は、クロアチアのドゥブロブニクにいた。

 瑠璃とアーリオは知ることになる。

 万由里という人物の正体を。

 神代零がトレジャーハンターになった真の理由を。

 そして、零が追い続けているかぐやの羽衣に隠された哀しくも衝撃的な秘密を。


 血湧き肉躍る冒険譚は、また次の機会に――。


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