第6章
第6章
瑠璃と零の乗ったステルスドローンは、東京目白の瑠璃の屋敷屋上に自動着陸する。
既に夜十時を回っていた。
到着後すぐ、瑠璃は専用の直通エレベーターで、零を茶室地下の研究室へと案内する。
研究室に足を踏み入れるなり、零は、ガラスパネルで隔たれたクリーンルームにびっしりと整列するスーパーコンピューターに圧倒されつつ、そのマシン筐体に大きく掲げられた特徴的な無限大のマークに気がついた。
そして得心したように呟く。
「アンタ……リチャード・クオンの娘なのか?」
「そうよ。それがどうかした?」
瑠璃がムッとしたように零を睨み返す。
「最新鋭の搭乗型ドローンに、見たこともない特殊機能付きのスマホ、数々のトリックデバイス……いったい何者なのかと思っていたが、まさか、父親が世界一の大富豪・リチャード・クオンだったとはね」
零が瑠璃をマジマジと見つめつつ、大袈裟に感心してみせた。
瑠璃は、その視線が気に入らない様子で、フンとそっぽを向く。
「たった一代で、通信、金融、ネットショップ、不動産開発、電気自動運転車、ドローン、宇宙事業、映像娯楽、それら全てを統合する世界最大級の複合企業、クオン・ワールド・インクの創業者であり、今なお、トップに君臨し続ける世界一影響力を持つ男。いやぁ、まいったまいった」
少しも参っていない風に零は笑う。
同時に少しだけ、瑠璃の孤独で満たされない想いが理解できたようにも思えた。
無理もない。リチャード・クオンほど、毀誉褒貶の激しい人物も他にはいないのだから。その娘として生まれたからには、人知れない気苦労も多かったはずだ。
リチャード・クオンは大学在学中に、コンピューターソフトを紹介する小さな出版社を立ち上げた。その後、世界的スタンダートとなったOSを扱うコンピューター会社の中国法人のトップを任された後、会社の時価総額と実際の株価に大きな隔たりがある老舗企業にターゲットを絞り、小さな会社が大きな会社を飲み込む形で、企業買収に次ぐ買収を仕掛け、裸一貫からのし上がっていった。
時にアコギで相当強引な手法も厭わない買収工作に、世間はいつしか『禿鷹クオン』との通称で呼ぶようになった。
「そんな何不自由ない大富豪のお嬢様が、なんで危険極まりないトレジャーハンターなんかに? 金なんか、腐るほどあるだろうに」
零がストレートに疑問をぶつけた。
「お金目当てじゃないのは、あなたも同じでしょう? 神代零博士?」
瑠璃は、話題をそらすように整然とした研究室を見回しつつ、反対に尋ね返す。
「そう、かもな」
宝探しの目的については、お互い、似た者同士というところか。
「パパは、三十年後、五十年後の未来にしか興味がない……ま、好きにすればいいんじゃないって思ってるけど、娘の私は反対……未来には全然興味がない」
「それでトレジャーハンターを?」
「……」
瑠璃は、前にも見せた表情で、その時同様、何かを言いたそうに口を開きかけるも、自分に言い聞かせるように首を振る。
「……常に未来しか見ないパパへの対抗心としては、ちょうどいい力試しになると思ったんだよね……未来の反対は過去。だから私は、父とは真逆の、父の影響の及ばない過去にこだわっている……自分で切り拓く人生をね、なんだか、カッコいいでしょ?」
瑠璃は自虐的にクスクス笑いながら、トレジャーハンターを志した理由を淡々と語った。
零は、物憂げな瑠璃の眼差しに、それ以上何も聞かなかった。
そこへ音もなく白衣の男が現れ、神経質そうに銀縁のメガネを光らせながら、瑠璃の前で片膝をついた。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
「ドクター・マシュウ、本当、久しぶり……いつぶりだっけ?」
瑠璃が、ドクター・マシュウと呼んだ白衣の男性に、大げさなリアクションで懐かしがってみせる。
本名、マシュウ・ワン。年齢不詳。クオン・ワールド・インクのトップサイエンティストの一人だ。
ガリガリに痩せた体つきだが、身長はかなり高い。百九十センチは超えている。
けれども、零と同じく普段は極端な猫背スタイルで常にうつむいているせいか、さほど威圧感はない。
「お嬢様が高校の理科実験室を致死性毒ガスで充満させた後始末に呼ばれて以来でございますね」
マシューは、瑠璃のとんでもないお転婆ぶりを平然と言ってのける。
「そんなこともあったわね」
瑠璃も動じることなく笑っている。
「こちらが噂の神代零博士よ」
「はじめまして、マシュウ・ワンです……ミスター天童から詳しく伺っております」
事態を今ひとつ飲み込めないまま、黙礼する零。
「どう? 千五百年以上の歴史を誇る天才科学者集団、異端査問官たちと勝負する気はある?」
瑠璃の挑戦的な言葉に、黙って聞いていた零が驚きの声をあげる。
「異端査問官が天才科学者集団?」
「プロフェッサー神代ともあろうお人が、まさか、黒魔術だの錬金術だの魔法だのを本気で信じていたわけじゃあ、ないんでしょ?」
瑠璃が小馬鹿にしたように零に視線を送る。
「……いや……」
零は口ごもった。
実際のところ、彼は時として超常現象も起こり得ると信じていた。零は、厳格な科学主義者ではないのだ。
魔法、占い、因果応報、祟り……全てをそっくりそのまま無条件に信じきっているわけではないにせよ、やはりこの世の中、科学では解明できない神秘的な何かが存在し、それらは人智を超えたところで動いているのだろう、と漠然と捉えていた。
だが、今、そのことで瑠璃と議論しても始まらない。
零は適当に相槌を打つことにした。
「まぁ……そうだな」
マシュウが零の首に取り付けられた首輪のチェックを始めた。
「失礼……アーリオという男は、わざとパラケルススの鎖などと言って、歴史に詳しく、『第六感』に敏感そうなあなたを洗脳しようとしたんでしょうが、中世ヨーロッパの暗黒時代ならいざしらず、二十一世紀の今、それも、世界最高の科学技術を誇る我がクオン・ワールド・インク研究所の力をもってすれば、錬金術や黒魔術など、恐るるに足らず! でしょ?」
マシュウは、早口でまくし立てつつ、零に同意を求めた。
「……お手並み拝見、ですね」
零は苦し紛れに強がるしかなかった。
マシュウは零を、研究室の一角にあるレコーディングスタジオのような狭い密室へと案内する。
密室内部は、電波暗室、あるいはシールドルームと呼ばれる、あらゆる電気信号や電磁波の類をシャットアウトできる特殊な空間だという。
その中に籠り、瑠璃指揮のもと、マシュウが数々の計測機器、分析装置を駆使して、パラケルススの鎖の分析を開始する。
解析には、予想以上に時間を要した。
その間、零は不満一つ漏らすことなく、ひたすら耐え続けた。
1時間後……。
ようやく全ての解析が終了した。
「やっぱりね。なにが黒魔術よ。笑わせるわ」
瑠璃が嘲笑する。
「意外に手こずりましたが、まぁ、我々の読み通りですね。この鎖、一言で言えば、最新鋭のインタラクティブ型管理医療マシンです」
マシュウの説明に、零がオウム返しに聞き直す。
「医療マシン?」
瑠璃とマシュウの解説によれば、パラケルススの鎖は、見た目は古ぼけた十字架のペンダントトップと銀色の鎖に装飾されているが、実は、最新医学と最先端科学によって製造された超精密機器だというのだ。
「汗の量、心音、消費酸素濃度、血液分析から想定される興奮度、心の動揺、焦りまで全て予測演算処理が可能で、内蔵した超小型SIMカードによって、リアルタイムに相互データ通信し続けています。もちろんGPS機能で居場所も把握できます」
マシュウが科学者らしく冷静に分析結果を伝えるのに対し、瑠璃は、どうやら、零をからかうモードに入ったようだ。
「異端査問官の呪文で、呼吸できなくなった理屈については噴飯ものね……呪文をペンダントトップ内部の音声センサーが感知して、裏側にセットされた超小型モーターで、物理的に鎖を巻き上げていたのよ……あなた、息ができなくて、のたうち回ってたじゃない? あれ、魔法でもなんてもなくて、バチカン男の肉声リモコンで鎖が首に食い込んでいただけのことだったのよ! 大爆笑!」
瑠璃は、これでもかとばかりに、わざとらしく腹を抱え、腰をくの字に曲げてまでして、笑い転げている。
零は顔をひきつらせながらも冷静を装って、
「でも、今ココにいることも敵にはバレてるんだろう?」
「それも計算済みよ」
「お嬢さま。では、ニセの生体情報を上書きして送信します」
「そうね。お願い……じゃあ、この部屋から出ましょう」
シールドルームを出てすぐ、マシュウがパラケルススの鎖の十字架部分に小さな発信機を取付ける。
「これで、向こうを油断させられるわ。約1時間のデータ中断も、太陽フレアの磁気嵐をデータ偽装して誤魔化せるハズ……」
「向こうって……アーリオのことか?」
瑠璃の言葉に零は疑問を投げかけるが、瑠璃もマシュウもなぜか、回答しない。
零は憮然としつつ、
「で、コイツは、どうやったら外れるんだ?」
「……お嬢さま、コレは少し厄介ですね。デフォルトの設定が、生体反応のある状態では絶対に外せない仕組みになっております」
マシュウが珍しく険しい表情で呟いた。
「ってことは……つまり」
零が焦って問い返す。
「あえて言い換えますと、生きている状態のまま外すのは無理ということです。はい」
マシュウも、零の心臓をえぐるようなセリフをサラリと口にする。
「やっぱりそうなんだ。残念ねぇ」
瑠璃は予想通りという風に大げさに頷いている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話が違うじゃないか! それじゃあ、やっぱりオレが死なないと外せないってことなのか?」
零が慌てて口走る。
「そうなるわね」
瑠璃が平然と返す。
「冗談じゃないぞ」
さしもの零も動揺している。
「落ち着きなさいよ。トレジャーハンターZEROともあろうお人が、みっともない」
瑠璃が優越感とともに零を諭す。いくら歴史や遺物、暗号解読に詳しくても、最先端科学については子供同然とばかりに……。
その上で、チラッと腕輪型スマートウォッチを見た。
「そろそろ、かな」
瑠璃がマシュウに確認する。
「そろそろ、かと」
マシュウも瑠璃と顔を見合わせ、アンティック腕時計を確認した。
その時、瑠璃のスマートウォッチがメールを受信する。
「天童が無事到着したわ。時間通りね」
瑠璃が満足げに笑みを浮かべ、マシュウに向き直る。
「ドクター・マシュウ、お願い」
「かしこまりました」
瑠璃が空中に浮かび上がる操作パネルを目にも止まらぬ速さでエアタッチしつつ、マシュウに次々と指示を出す。
俄然、慌ただしく動き出すマシュウと研究員たち。
「一体……何が起きてるんだ」
零は訳も分からず、無数のケーブルや端子類を自分の首に接続していくマシュウたちに、なすがままにされつつも、不安な様子を隠しきれない。
「プロフェッサー神代、今からあなたには、死んでもらいます」
「は?」
瑠璃の殺し文句に絶句する零、慌てて、接続したばかりのケーブルや端子を引きちぎろうとするのを、今までになく真剣な表情の瑠璃が制止する。
「私を信じなさい! さっき言ったでしょ? パラケルススの鎖を外すためには、あなたが生きていてはダメなんだって……だから死ぬしかないわけ。でしょ?」
「オレはまだ死にたくない」
「これ以上、幻滅するようなこと言わないで! 誰も、本当に死んでくれなんて言ってないでしょう」
瑠璃が、「この人、ホントにトレジャーハンターZEROなの?」と、聞こえよがしにボヤキながら更に続ける。
「何度も言わせないで。このパラケルススの鎖は医療管理マシンだって。血液分析や心拍、汗の増減量など、あなた特有の生体反応を常にコントロールして、外れないようにしているだけなの。つまり、それを逆手にとれば……」
瑠璃が指を鳴らした。
マシュウが、「失礼」と零の左腕に注射針を挿し、微量の血液を採取する。
続いて、瑠璃がその血液に謎の液体や薬品を調合していく。
「人間は心臓が止まった瞬間、血液の成分が急変するの。血液は凝固し始め、肺でのヘモグロビンと酸素の交換反応が止まることで、細胞内にあるミトコンドリア中の、生命維持に欠かせない化学物質ATPの生産がストップし、細胞膜の崩壊が始まる……その状態を人工的に再現したのが、コレ」
瑠璃は、調合したばかりの、『死んだ零の血液』をうっとりと眺める。
「なるほど! そいつを、パラケルススの鎖のセンサー部分に一滴垂らせば、センサーは、オレが死んだと誤解し、鎖は外れる……そういうことなんだな」
零は、己の緊急事態に直面し、しばらく金縛りにあったように身動きできず固まっていたが、ようやく瑠璃とマシュウの救出作戦を理解し、笑顔で叫んだ。
「早くやってくれ」
今度は打って変わって、催促する始末だ。
しかし。
「慌てない慌てない。そんなに単純なわけないでしょ!」
瑠璃が釘を刺す。
「そんな簡単な方法で解除できるんなら、とっくの昔にやってるわ……向こうだってバカじゃないんだから、パラケルススの鎖をつけられたターゲットが、フェイクの血液を調合して、生体反応を偽装することぐらい、百も承知で対策しているに決まってる」
「じゃあ、どうすれば……」
「これは双方向デバイスなの。こっちだけで勝手にコントロールはできない。向こうとタイミングをピッタリ合わせないと!」
「こっちだけではダメって?……それに、さっきから言ってる、『向こう』って、一体どこなんだ?」
「異端査問の本拠地に決まってるでしょ」
「まさか……バチカン? ローマ教皇庁……」
零は、あまりにも強大な相手に途方に暮れた。
同時刻、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に一人の東洋人が忍び込んでいた。
その名は天童彦六。瑠璃の執事である。
数時間前、白山比め神社でアーリオと対峙した瑠璃から連絡を受けた天童は、すぐさまクオン財閥のプライベートジェットでローマへ向かった。
クオン財閥が誇るプライベートジェットの中でも、世界最強の92000馬力のロールスロイス社製ジェットエンジンを搭載したエアバス350XWBの速さは別格である。
すでに天童は、司祭姿で場に溶け込んでいる。
フィリピンにある聖ドミニコ修道会の日本支部に在籍する司祭という肩書で、精巧に偽装工作を施した通行証兼身分証明書を提示して、難なくカトリック教会の総本山に潜入していた。
天童は大聖堂の後方で、神に祈りを捧げながら、周囲の人の動きに目を配っている。
やがて、大聖堂中央奥に鎮座する巨大なパイプオルガンの左側面に、限られた者だけしか入室が許可されないエリアがあることを見抜いた。
天童は、目立たぬように人の流れに乗りながら、パイプオルガン左側面の秘密ゲートのセキュリティコードを万能スマホアプリで解読後、早業で解錠して無事くぐり抜ける。
天童が目にしたサン・ピエトロ大聖堂にある巨大なパイプオルガンの裏側は、歴史ある教会の内部とは思えないほど、最新設備でリノベーションされ、無数の情報収集機器に囲まれていた。それはまさに、一国の軍事司令室そのものである。
何十人もの祭服姿の聖職者たちが、地域ごとに区分けされた何百ものモニターの前で、全世界のメールやSNS、電話、ネットデータを完全傍受している。
異様な光景である。
首から十字架をぶらさげ、祭服に身を包んだ『神のしもべ』たちが、アメリカの国防総省(DoD、ペンタゴン)や国家安全保障局(NSA)、中央情報局(CIA)といった政府機関を全部一緒にしたような、恐るべき監視・諜報行動をとっているのだ。
そんな中、コルテーゼ枢機卿が、一人の助祭を呼んだ。
「極東の方はどうなっている? アーリオからの報告は?」
「状況に変化はありません」
若い助祭が答えた。
「例の、トレジャーハンターに取り付けたパラケルススの鎖の不具合はどうなっているんだ? センサーからの情報が一時間ほど止まったとの報告があったが」
コルテーゼは新情報が次々に更新されるタブレットをタップし、助祭に尋ねた。
「同時間帯に観測された太陽のコロナ噴火によって発生した、アジア地域での磁気嵐による通信障害として解決済みです。今は問題なく稼働しています」
助祭が、パラケルススの鎖からリアルタイムで送られてくる生命維持データを、手にしたタブレットに映し出しながら答えた。
当然、この助祭レベルでは、データがニセモノだと気づくはずもない。
「アーリオめ、なにを手こずっておるのだ」
コルテーゼが苛ついている。
「なんとしても、アレを……四百数十年前、我らの偉大な先人であるフロイスやヤスケが命懸けで秘匿したモノをなんとしても……」
枢機卿の眼差しは厳しい。
「世界の秩序はいにしえより、我ら異端査問官によって守られている……この千年あまりずっと……秩序を乱す者は例え一国の首脳、王族、支配者といえども秘密裏に始末しなければならない……それが我々異端査問官の使命と宿命……」
コルテーゼ枢機卿は、誰に語るわけでもなく、感慨深げに呟く。
次の瞬間――。
突如、情報収集室の全ての電源が落ちる。
「バカな? 停電など起きるはずがない」
司祭が口々に叫んだ。
「電源ルームで火災発生!」
司祭の誰かが絶叫する。
それらの工作は全て、忍び込んだ天童の仕業であることは言うまでもない。
即座に予備電源に切り替わる。
「データは?」
「問題ありません。全てのバックアップ体制、異常ありません」
「消火完了!」
「1分後、主電源、戻ります」
さすがに防災訓練が行き届いているらしく、聖職者たちは皆、無駄のない動きで突発的なトラブルに対処した。
同時刻、東京では、この瞬間に狙い定めた瑠璃が叫ぶ。
「今よ! 制限時間1分!」
ドクター・マシュウが、パラケルススのペンダントトップの内部センサーに、死を偽造した零の血液を一滴垂らす。
するとどうだ。あれほど、何をしても絶対に外れなかったパラケルススの鎖が、零の首からカチャリと簡単に外れたではないか。
瑠璃は間髪入れず、十字架のセンサー部分にスマホ大の生体デバイスを装着、零の生体データとリンクさせた『命綱』は、ほどなく稼働開始する。
この装置によって、アーリオやバチカンの監視チームは、今なお、零がパラケルススの呪縛下にあると疑わないはずだ。
「また借りを作ったな」
久しぶりにスッキリした首の周りをさすりながら、零は素直に瑠璃に礼を言う。
「気にしないで。いつか何千倍にして返してもらうから! それに、あなたの弱点も良く分かったし」
「オレの弱点?」
瑠璃は意味深に微笑んだ。
同じ頃、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を堂々と後にする一人の男がいた。天童である。当然キャソック姿ではなく、カメラをぶら下げた、物見遊山の観光客に同化している。
天童彦六というのが彼の戸籍名であるが、実は別名がある。
天童佐助。彼こそは十八代目猿飛佐助なのだ。
この時、天童は、忍び込んだサーバールームからダウンロードした極秘データ入りスマホを手にしていた。
瑠璃が零に、「感謝している」と言った真の意味はそのデータにあった。
天童は、抜かりなく瑠璃にそのデータを転送していたのである。
瑠璃にとって、零の命を救うことは、必ずしも、最優先ではなかったということか。
零と瑠璃は、高級ホテルのロビーラウンジのような場所のソファーに腰を下ろしている。誰かを待っているようだ。
ここは広大な瑠璃邸の玄関である。
「……ねぇ、織田信長が桃太郎だったっていう仮説なんだけど、そもそも、桃太郎っていうおとぎ話は、いつ頃出来たんだっけ?」
長い沈黙を経て、気まずさを取り繕うように、瑠璃が零に尋ねる。
「諸説ある……一番古い伝承は、鎌倉時代のものだが、今の内容とは似ても似つかない。中国の西遊記がベースだと言われている……その後、犬猿雉の家来を連れて鬼退治に出掛けるという現代に伝わる形になったのは、室町時代から戦国時代にかけてらしい」
「それこそ、信長=桃太郎説としては、ピッタリの時期ね」
「あぁ……」
「信長から皆が知ってる桃太郎伝説が生まれたとして、『信長の宝』って何だと思う?」
瑠璃は、一番知りたいことをズバリ直球で尋ねた。
「織田信長が天下布武のために、かなりの金を使ったことは随分昔から言われてきた。だがその出所には定説がない……オレは、武田信玄の子、勝頼が隠した信玄の埋蔵金を強奪したものだったと考えている」
「なるほどね……武田信玄は多くの金山を開発して、日本一潤沢な資金で武田騎馬隊を率いていた。しかし彼の死後、その莫大な軍資金は忽然と消えてしまった……」
瑠璃も零の仮説が腑に落ちた。
全ての辻褄が合うのだ。
「桃太郎が鬼ヶ島から強奪した金銀財宝こそは、織田信長が武田勝頼から奪い取った武田の埋蔵金……その後、本能寺の変を経て、秀吉、家康へと受け継がれていったと考えた場合、武田の洞窟で発見したつづみの中に十龍の水晶の台座があったことも、本体の水晶は徳川家康が引き継いで日光東照宮にあったことも、全部、見事に繋がるんだ」
自信満々に語る零だったが、瑠璃にはまだ引っ掛かる要素がいくつかあった。
なぜ武田の洞窟には、十龍の水晶の『台座だけ』封印されていたのか?
なぜ水晶と台座を一緒に、日光東照宮に祀らなかったのか?
その時だ。
視線の先の車寄せに、黒塗りの高級国産車が入ってくるのが見えた。
車を降りて、零に駆け寄ってきたのは日光東照宮総代の百瀬である。
「プロフェッサー神代、連絡を受けて、飛んでまいりました。それで、本当なんですか? 白山比め神社に異端査問官が現れて、信長の宝へとつながる2つの道しるべを奪い取っていったというのは」
百瀬が興奮してまくし立てる。
これまでの簡単な経緯は電話で伝えてあったが、
「申し訳ありません。全ては私の力不足が原因です」
零は素直に頭を垂れた。
「彼をそんなに責めないで。命が懸かっていたの。不可抗力よ」
零の背後に隠れていた瑠璃が、バツが悪そうに顔を出し、フォローする。
百瀬は瑠璃を見るなり血相を変え、
「どうして、この女が……」
と言ったきり、興奮しすぎて次の言葉が出てこない。
百瀬からすれば当然の反応である。そもそも、日光東照宮の秘宝であった十龍の水晶を強奪したのは彼女なのだ。
「なぜこの女が、このお屋敷に?」
親の仇でも見るかのような視線で瑠璃を睨みつけている百瀬に、零は耳元で囁く。
「ここは彼女の自宅ですよ」
「へ?……ということは、クオン財閥の?」
「クオン瑠璃です。ごきげんよう」
わざとらしい作り笑いとともに挨拶する瑠璃。
「あなた方は最初からグルだったのですか?」
怒りの鎮まらない百瀬に、零は諭すように弁明する。
「まぁ、呉越同舟といったところです。目の前に共通の敵が現れたので」
百瀬は、なおも憎々しげに瑠璃を睨み続けていたが、己に言い聞かせるように、
「共通の敵……確かに今は、異端査問官をなんとかしなければ……」
と呟くと、零に向き直った。
「実は彼らは、四百年以上前から、『信長公の宝』を追い続けているのです」
それは衝撃的事実だった。
「そんな昔から?」
瑠璃が思わず大声をあげた。
「最初に日本にやってきた異端査問官、それがルイス・フロイスです」
百瀬の言葉に、零は、「なるほどな」と合点がいく。
「ポルトガルからやってきた宣教師として、彼は数々の珍品を献上して織田信長公に気に入られ、様々な場所への出入りを許されました。もちろん、本来の来日理由であるキリスト教の布教も大きな目的だったはずですが、実は彼には秘められたミッションがあったのです。それが……」
「信長の財宝の強奪、ということでしょうか?」
零は百瀬の解説を先回りして答える。
「その通りです。武田信玄公の死後、武田家の軍資金は、織田信長公が奪い取ったと言われています。その総額は、現代の価値に換算して、三兆円とも五兆円とも言われるほど莫大なものだったようです」
「信長に近づいた異端査問官は、ルイス・フロイス一人だけだったんでしょうか?」
零の頭の中で引っ掛かっていた断片的なキーワードが繋がり始めたらしく、百瀬に問いかける。
「さすがはプロフェッサー神代です。いいところに気が付かれましたな」
百瀬がニヤリと笑い、
「もう一人、信長公に寄り添った異端査問官がいました。それは……」
「黒人奴隷として信長に献上された後、信長に目をかけられ、側近の家来として信長の最期まで仕えた男……ヤスケ」
零は確信を込めて自説を唱えた。
百瀬は零に頷き、続ける。
「ヤスケがなにゆえに、信長公の目を引き、側近として重用されたのか……その理由は、異端査問官が隠し持つ黒魔術や錬金術にあったのではないかと私は見ています……本能寺の変では、信長公はおろか、ヤスケの遺体も最後まで発見されませんでした。当然です。ヤスケは死んでなどいませんでした。もう一人の異端査問官、ルイス・フロイスの手により、燃え盛る本能寺から、信長公の亡骸とともに脱出できたのです」
「ますます仮説が現実味を増したな」
零もまた自分の仮説を二人に披露する。
「信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉はしばらくの間、信長同様にキリスト教の布教を認めていた。しかし、天正十五(1587)年になって突然、伴天連追放令を発令し、急に弾圧を始めた……オレはかねてから、秀吉の性急な心変わりが今ひとつ理解できなかったんだが、もし秀吉が、フロイスの正体が異端査問官であり、本能寺の変で信長と共に死んだはずのヤスケが生きている事実を知ったとするならば、豹変ぶりも納得がいく」
「面白い! 今までとガラッと景色が変わったわ」
瑠璃もまた、それまでバラバラだった事象や事柄が一つに結ばれていくのを実感していた。
「信長亡き後、異端査問官が信長の財宝を血眼になって探していることを知った秀吉は、キリスト教を弾圧することで異端査問官の動きを封じ込め、かつての仲間だった配下の武将たちと共に、何者からも暴かれないように、各武将それぞれが自分に縁のあるパワースポットに『結界』を張って、信長の財宝を封印した……そういうことなんじゃないかな」
瑠璃の推論に、百瀬が「なるほど、日本各地に点在する『道しるべ』は神道上の『結界』に配置されていると……」と頷いた。
「……」
無言のままの零。
「お願いです。プロフェッサー神代。異端査問官より前に、必ずや、信長公のお宝を守ってください……そして、十龍の水晶を取り戻してください。お願いします。あなただけが頼りなんです!」
百瀬が零に深々と頭を下げた。
「私もいるんですけど」
瑠璃も不貞腐れつつ、共通の目的のために協力することを百瀬に約束する。
「でも、十龍の水晶だけでなく、二つ目の道しるべの鍵となる地天泰の卦まで異端査問官に掠め取られてしまった今、三つ目の道しるべを知る手掛かりが……」
百瀬の不安げな顔を愉しむように、瑠璃が預言者の如く微笑んだ。
「ご心配なく。もう既に、三つ目の結界地点とその宝物の正体は掴んでいるわ、私たちが」
「本当ですか! ありがとうございます!」
百瀬が、恩讐を越えて、嬉しそうに瑠璃の両手を強く握りしめる。
他人から感謝されて、まんざらでもない瑠璃であった。
零は百瀬に対しても、桃太郎と信長の同一人物説、そこから導かれる解釈として、信長の家来だった、前田利家、徳川家康、豊臣秀吉を、それぞれ桃太郎伝説の犬、雉、猿に見立て、三つの宝物で結界を張った上で、主君・信長の財宝を隠して封印し、異端査問官や盗掘者から守り抜いているのではないかと説明する。
ただ零は、瑠璃の推理とは異なり、いったい誰が、いつ、結界点や各々の宝物を選定し、古地図や符号を高度な技術で巧妙に暗号化した上で、封印したのかは、まだ謎のままだと思っているようだ。
「徳川家康は雉。干支の酉は十番目。鍵となる宝物は十龍の水晶。奉納場所は家康に縁のある日光東照宮……前田利家は犬。干支の戌は十一番目。鍵となる宝物は、卦の中で十一番目を示す地天泰の卦。奉納場所は利家に縁のある白山比め神社。そして残るは、信長から『猿』とあだ名をつけられていた家臣」
「太閤秀吉公! そうだったんですね。三つ目の道しるべとなる結界は、秀吉公の手によって張られていたとは……あぁ、これまで私はなんという節穴だったのでしょう」
百瀬は、驚天動地の新説を前に、興奮冷めやらぬ様子だ。
「して……太閤秀吉公が奉納した宝物はいずこに?」
急くように百瀬は、一刻も早く答えを聞きたがる。
「日光東照宮総代ならご存知のはずです。秀吉が朝鮮出兵を決めた際、四番隊の大将に任命された島津義弘が、秀吉直々の命を受け、わざわざ戦勝祈願に立ち寄った神聖なる場所を。そしてそこに祀られている宝物のことを」
零が百瀬を試すように問いかける。
百瀬は、しばし考え込むが、パッと目を見開いて、講談師の如く語り出す。
「うむ!……文禄元(1592)年、太閤秀吉公に朝鮮出兵を命じられた島津義弘公は、薩摩の国から総勢一万五千の大軍を率いて、出陣の地である肥前名護屋城へ向かう途中、なぜか、わざわざ遠回りして、肥後国高千穂峡へと向かい、狭野神社に戦勝祈願をされました……高千穂峡、そして狭野神社は、この国を造り給うた神武天皇がお生まれになったと伝わる神聖にして神々しい場所……その時、島津公は、杉の木と共に、とある鉾を狭野神社に奉納したといわれています……その鉾の名は」
「九重の鉾。またの名を『くじゅう』の鉾……伝承と複数の文書に記述されているものの、まだ誰も見たことがない、幻の宝物……。島津は、なぜわざわざ遠回りしたのか? 明らかに秀吉から重大な極秘任務を直接命じられていたからに違いない……豊臣秀吉は猿。干支の申は九番目。奉納場所は九重の鉾を祀るのにふさわしい狭野神社!」
零は、百瀬の講釈の最後の美味しい部分だけを引き継ぎ、答えた。
「おそらく、ではありますが、白山比め神社の地天泰の卦に仕込まれた暗号メッセージだけでは、豊臣秀吉と高千穂峡の狭野神社、そして九重の鉾、この三つ全ての手掛かりを解読することは不可能でしょう」
「どういうことでしょうか?」
水を差されて、また疑問符のついた百瀬に、零は、瑠璃に語った時よりも一段と謎が深まった、三つの結界地点に封印された宝物の役割に関する疑問点を、分かりやすく説明する。
――零は当初、日光東照宮の十龍の水晶、白山比め神社の地天泰の卦、高千穂峡狭野神社の九重の鉾、この三つの宝物は、それぞれに、別の二箇所の結界地点が暗号化され、どの結界地点を最初に紐解いても三箇所全てに確実に辿り着けるように、暗号が封じ込められているはずだ、と推理していた。
――だが実際、十龍の水晶に秘められた暗号は、三つの結界地点を六芒星で示した大雑把な地図だけだった。これでは他の二箇所をピンポイントで特定できない。
――したがって、地天泰の卦に仕込まれた暗号が、九重の鉾の場所への道しるべになっている可能性もなくはないが、他の場所への手掛かりとは異なる何か別の暗号が隠されているのではないか。まだ自分たちは、結界に祀られている宝物の本当の役割に気づいていない気がする、と。
「なるほど、一段とミステリー要素が増えましたな……」
百瀬が、零の解説に、いちいち合いの手を入れる。
「一方の我々は、別のアプローチも踏まえて、信長と桃太郎の繋がりを導き出し、三つ目の道しるべが、秀吉と関連する九重の鉾だと解明済みなのです」
「ようやく、心が落ち着いてまいりました」
百瀬が安堵の笑顔を浮かべた。
「それに、万が一、異端査問官に高千穂峡へと先回りされても、明日の新月の夜までは、九重の鉾には指一本触れることはできない……時間的余裕があります」
「それ、この前も聞きたかったのよ! どうして、新月の夜までお宝に触れないの?」
瑠璃が、白山比め神社から戻る途中のドローン機上で、聞きそびれた謎に迫る。
「狭野神社は神聖なる神武天皇ゆかりの地……そのため、宝物殿は、いにしえからずっと、新月の夜にしか御開帳できない決まりとなっている」
「おぉ。そうでしたな」
百瀬も、神武天皇ゆかりの地ならではの聖なるルールを理解していた。
「天照大神が天岩戸にお隠れなった際、世界が闇に包まれた、との神話から、そのルールが作られたとされている……もっとも、厳密に言えば、天岩戸伝説における『闇』は新月がもたらす闇ではなく、日食、それも皆既日食が生み出した闇なのだが、皆既日食は、天文学上の計算だと、同じ場所では数百年に一度しか起きないわけで、毎月必ず巡ってくる新月の夜の御開帳ルールとなったわけだ」
「でもねぇ……天岩戸伝説は、日本人なら大勢が知ってるだろうけど、相手は外国人よ。そんなルール、バチカン男が守るかしら? 御開帳の夜は大勢の参拝者が来るだろうから、目立つ異教の外国人はヘタに手を出せないとは思うけど」
瑠璃が、犯罪者は法律を守るのかとばかり、素朴な疑問を口にする。
「アーリオも聖職者の端くれ。我々日本人にとって、国創りの祖と称される神武天皇は、いわば、カトリック教徒にとっての創造主のようなもの……しっかりとルールは守るはず!」
零は自信たっぷりに断言するが、それでも瑠璃は、
「そうかなぁ……甘いんじゃないのかなぁ」
と半信半疑の様子だが、人懐っこい話し方とは裏腹に、瞳の奥は別次元を見ているようだ。