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プロローグ

「世の中、お金が全てです」


 私のその言葉に、目の前の夫婦が合わせて瞳を丸くした。

 あえてゆっくりと間を置きながら、私は机の隅に置いてある契約書を意識する。


「先程申し上げました通り、人は生きるためにも、死ぬためにもお金が必要です」


 夫婦は自らの手元にある、先程私と共に作り上げた理想の人生設計書に視線を落とした。そこにはこれからの人生に必要な金額が概ね記入されている。

 神妙な面持ちをしながら、男性はその隣に並べてあるそのライフプラン表に即した保険の設計書を見ながら小さく唸り声をあげる。

 その反応も見慣れたものだ。十分に必要なものだと理解はしていてもすぐに決定できるものではないだろう。

 なんと言っても、そのプランは夫婦合わせて月の保険料が九万円を超える高額プランだからだ。


「旦那さまがいらっしゃれば、きっと何があっても奥様を、そしてこれから共に歩まれるご家族を守ることができるでしょう」


 あえて言葉を切り女性と視線を合わせる。女性は少し照れたように口元に力を入れた。


「ですが、旦那様がいなくなられたとき、奥様を守ってくださるのはお金しかありません。そのご準備ができるのは今なのです」


 再度視線を男性側に向ける。瞳の中に決意が宿る。それを見つけて、すぐに準備していた契約書を差し出した。

 男性はゆっくりとペンを取り、照れたように笑う。


「わかりました、これで申し込みますね」


 契約書の最初の一枚に名前を記入した。女性はそんな男性の横顔を見ながら満足そうに微笑んだ。

 今日も私は、人を救えたのだろうか。




 ×××





 保険の営業を始めてから、今年で丸十年になる。慣れてきたとはいえ、やはりお客様から契約をいただく日は並々ならない疲れが肩の辺りにずんと乗る。

 三十歳を超えたあたりから、こういう疲れも一日では抜けなくなってきた。今日は少し長風呂に浸かって体を癒やしてみようか。

 かばんの中に入った契約書を意識しながら事務所への道を急いだ。


 金融の仕事に就くことは、幼い頃から私の夢であった。

 私の人生は、お金というものに振り回されてきた。


 私の母はお金にも自分にも頓着しない人間だった。計画性など何もなく、どんな人の言葉も信じ、そしてどんな人にも簡単に騙されてしまう、そんな人だ。

 よくもあの性格で一人の人間を育てられたものだ。

 一言でいうと優しすぎる人だったのかもしれない。

 気がつけば雑用やら役員やら押し付けられて、ただでさえ忙しく働いていたというのに私生活すら人の世話ばかり見ていたような記憶ばかりだ。

 親戚だろうが隣に住むおばちゃんだろうが平気でお金を貸したりする。投資詐欺に騙されたことも一度ではない。私が気付いて止めなければ大損害を生んでいただろうものもたくさんある。

 母はそれほど抜けたというか、本当に何にも頓着しないような人であった。


 早くに父を亡くした母には、当然苦労ばかりだったはずだ。私もお金には苦労させられた。

 可愛らしい服など当然新調できるはずもなく、大抵は公営住宅に住むご近所さんからのくたびれた貰い物ばかり。食事もまともな料理が出るのは週の半分ほどで、残りはほとんど具のない味噌汁でお腹を膨らませていた。

 母はそんな私に「ごめんね」と謝りながら、あくせくといつも働いてくれていたように思う。

 中学生になるころには、私にも自分は貧乏であるという感覚は染み付いていく。貰い物でサイズの合わない制服、流行の雑誌や漫画はすべて借り物。友人と遊びに行く服がない。

 当然クラスでは浮いてしまうし、友達らしい友達も、私にはついぞできたことがない。

 これは幼い頃の話に限ったことではなく、今に至るまで変わらない。友人を作る暇があれば、私は自分のお腹を少しでも満たすために空き缶を拾っていた。

 お金さえあれぱ。

 母の前で言うことができなかったが、心の中ではいつもそう呟いていた。


 そんな母との別れは突然のことだった。

 私の中学の卒業式のその日に、母はこの世を去った。

 卒業式が終わり、来ているはずの母を探していた私の前に現れたのは、顔を真っ青にした担任の先生だった。慌てて病室の中に滑り込んだ私を迎え入れたのは、土気色をした母の姿だった。

 暖かな母の手にふれて、その手がいかに傷つき、そしていかに乾燥していたのか気がついた。

 母がこちらをみたような、そんな気がした。

 その瞬間、リズムよく音を鳴らしていた電子音が、突然一定音へと変わった。

 母との別れに、言葉はなかった。


 死因はクモ膜下出血だったらしい。

 叔母は私を引き取ってくれたが、母とも疎遠だった叔母から厄介もの扱いされるのは仕方のないことだった。

 お金がないというのは厄介だ。

 私に当てがある親族は母の妹である叔母だけで、その母と折り合いの悪かった叔母は母の葬式を上げてくれることはなかった。当然墓もなく、住職が良心で納骨堂にお骨を納めてくれた。

 母に大した供養もできず、それでも叔母にはどれだけのお金がかかったかとことあることにクドクドと言葉を並びたてられた。

 

 だがありがたいほどに四畳半の小さな部屋を与えてくれた。叔母夫婦とふたりの子供に出会う他の部屋に居場所がなかった私は、ずっとこの小さな部屋の中で時間を過ごした。

 お小遣いもなければ当然何かを買ってもらうこともない。ただ、食事だけは十分にあたえられていた。私にとって、それだけで十分だとも思えた。


 叔母が私を引き取ってくれたのは、計画性のない母が残したとは思えない小さな贈り物が私に残されていたからだろう。


 一つは貯金だ。

 どこにそんなお金があったのだろうか。母の通帳には百万円ほどの定期預金が残されていた。私はこのお金を引き取ってもらう代償として叔母に手渡した。

 だからこそ高校生活三年間、邪魔な存在だと感じながらも叔母は私を家から追出すようなことはなかった。

 そしてもう一つ、私に残されていたものがある。

 五百万円の生命保険だ。


 高校を卒業してすぐ、私は追い出されるように叔母の家を出された。そしてそれは私としても本望だった。

 母が残してくれた五百万は私の大学生活を支えてくれた。アルバイトをこなしながら大学を過ごすのは簡単なことではなかったが、大学卒業の肩書だけは絶対にほしいものだった。

 大学に入ってからも友達ができることはなかった。生まれつき表情が硬いせいか、人と距離を詰めることが幼いころから一度も縮まったことはない。

 そうして孤独に過ごした四年間が終わり、私は自分の希望通り、金融の世界に身体を窶すことになった。


 金融というのは、知れば知るほど面白いものだ。

 就職して銀行員になり、そこでの働きが認められたのか、今の支店長にヘッドハンティングされた。そうして私は外資系保険会社の社員となり、今も一金融マンとして毎日勉強の日々だ。

 知れば知るほど、金融の奥深さを知るばかりだ。

 この世はお金で出来ている。その一方で、その知識を知るのは富裕層だけに限られてしまっている。そんなこと、もったいない。

 人はもっと、幸せになることが出来るのだ。


 過去の私に教えたい。

 そして過去の母に教えたい。

 今の知識があれば、きっと母はもっと幸せになれたはずなのだ。あんな最期を迎えずに済んだはずなのだ。

 だって『世の中、全てお金』なのだから。




 ***




 夕方までに事務所に戻って、今日もらった申込書を早く本社に送り込みたい。

 ようやく事務所の最寄り駅に到着したところで、思ったより帰社時間が遅くなってしまっていたことに気が付いて心が少しだけ急く。

 せっかくお申込みを頂いたのだから、なるべくならば早く契約を成立させてしまいたい。生命保険の契約はすぐには出来ず、時間がかかるものだ。

 そして明日からは三連休。やはり、今日中には急いで送ってしまいたい。

 急がなきゃ。

 目の前の赤信号を前に、足が騒ぐ。早く、会社に。事務所の入っているビルはもう目の前だ。

 信号が青になったのを見てすぐ、横断歩道に足を踏み込んだ。


 その、瞬間のことだった。



 目の前が、真っ黒く、染まった。




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