第1章「巨人殺し-Giant killing-」 五 裏技
〈愚鈍な氷結王〉
ヨーの切り札の名。まだ、正確なことは述べられないが、ヨーの中に眠るの化身であり、その存在はこの世に魔王と呼ばれる存在が数多くいた時代の一人である。
そして、ヨーのこの化身は血や肉で呼ぶのではない、人が得た経験を元に呼ぶのだ。
経験とは血と肉を作る過程の一つであるといえる。ならば、血と肉と比べても同等、それ以上の意義を持つ。そして、場合によっては一人の人間の経験はその肉体以上の価値を持っている。
だから、ヨーは経験を捧げる。そして、その経験は人より奪う。
また、自分よりも強い魔物を相手とするこの少年、アデルの経験は並の人間の経験と比べものにはならない。それはヨーの化身を呼び出すには十分である。
アデルはこれによって経験を奪われ、格も下がる。だが、奇妙なことにドラ子の切り札、【遮断し、討破る】に対しては格が下がることは有益となる。
すべてにおいて、互いの利点を補完したものではないが、互いに利点となる。
ただ、欠点はお互いに格が上がらないこと。
互いにこれらを切り札にしている以上、仕方がない。経験を犠牲にして、切り札を運用するのだから。
* * *
ヨーが奪い取ったアデルの経験を捧げ、自身に眠る化身、〈愚鈍な氷結王〉を呼び出した。目の前の敵を圧倒するための力として。
名が示す通り、氷を司る存在で、その体は氷でできている。
大きさは巨大猿よりも大きいはずなのだが、捧げた経験の量が少なかったのか、その半分の姿しか現世に具現化していない。
つまりは上半身だけで、さながら地面に置かれた氷像だ。
それでも両手を上げれば、巨大猿の背丈よりも大きい。
ヨーはその〈愚鈍な氷結王〉の左肩に腰掛け、首を背にして椅子代わりにしている。だが、今のヨーにはその意識はない。
今は〈愚鈍な氷結王〉がヨーの体を支配しており、ただ捧げた経験を元に目の前の敵を倒すために呼び出されただけ。それまではヨーの意識は〈愚鈍な氷結王〉であり、体は契約書のようなモノ。
その〈愚鈍な氷結王〉は巨大猿に対して、問いかける。声は氷の体からではなく、ヨーの口から語られる。
「我は〈愚鈍な氷結王〉。汝の名は」
まるで騎士道の習いのような問いかけだ。
だが、巨大猿は威嚇の声こそ示すが、その問いかけに答えない。いや、何処までの知識を有しているか分からないが、この〈愚鈍な氷結王〉の問いかけにはいろいろな意味で理解できていないだろう。
そもそも、〈愚鈍な氷結王〉の名には愚鈍と入っている。これは言葉通りで無知で、理解や判断が劣ることからの形容である。
そして、『王』とも名にはあるが、実際は少し違う。その強靱さに周りが王と慕い、奉り、持ち上げ、その愚鈍さから、民を守ることが王の使命と騙し、本人は騙されていることなど知らず他の強靱な敵から周りの存在を守り続けた存在である。
実際は〈愚鈍な氷結王〉は単なる力だけが強い氷の巨人。
だが、その強さ、行動は攻め込む側には、まさに『王』そのものであった。
これが伝説上の〈愚鈍な氷結王〉のお話だ。
だから、巨大猿相手でも礼儀正しく相手をする。それが答えることのできない相手であっても、理解などしていない。
巨大猿はその氷の上半身に威嚇こそするも自分からは手を出さない。これほどの大きさの相手に瀕死な体で戦えば、たとえ見かけ倒しだとしても負けは目に見えている。
だから、様子を見て、逃げるなりの算段を整えようとしている。
アデルは寝転がっていたかったが、そこまで油断はしていない。何しろ、〈愚鈍な氷結王〉はヨーにとっての味方でしかないからだ。
アデルまで守ってくれる保証もない。しかも、敵対する可能性も零ではない。
そのため、アデルは回復薬を取り出す。回復薬は自体は瓶に入っており、この瓶の中身一杯で重症であっても、即時に回復が可能である。
ただし、回復による反動はそれまで受けた痛みの比ではなく、耐え難いモノがある。幾ら死にかけでも戦闘中に飲むのは自殺行為ともされる。
また、この一本で庶民なら一ヶ月以上の収入を出してようやく手に入る代物。
もっとも、普通の怪我や病気では体への負担も少なく、安価な薬は多くある。これは飽くまで緊急用の魔法の品。
アデルも怪我の度合いからは一本分飲みきる必要がある重傷だが、半分にも満たない程度だけ飲んでおく。これは回復の反動を押さえるためだ。
それだけでも、体の自由は大分回復する。回復の痛みも元からの怪我の痛みと大差もない。
巨大猿はアデルの様子に気がついていた。そして、完全に不利な状況を理解した。
「……汝、名はないのか」
再度、〈愚鈍な氷結王〉は呼びかける。
巨大猿は逃げようともしたが、体が動かない。獣であるが故に、目の前の相手の強さを肌で感じ、間合いもおおよそ理解している。
同族であれば、服従の意思で場は収めることはできるが、そういう相手ではない。
だから、巨大猿は無防備なヨーに対してまた、拳を振り上げる。それが今の状況での精一杯、それに殺すための攻撃ではない。
飽くまで不意を突くことで〈愚鈍な氷結王〉を防御に行動を向かせるため。
だが、〈愚鈍な氷結王〉は愚鈍であっても、動きは遅くない。怪我で幾らか俊敏さはなくなっている巨大猿の動きであっても、その氷の手は巨大猿の拳を受け止めていた。
そして、受け止めるだけでなく、氷の低温が巨大猿の拳を貼り付けさせる。
氷の体は当然、冷たいがその周りには冷気を纏って氷の体を維持している。そのため、見た目以上に〈愚鈍な氷結王〉は氷よりも冷たい。
生身で触れれば皮膚は貼り付き、それを取ろうとしても、この冷気の前では並の炎でも溶かすことはできない。
幸い、〈愚鈍な氷結王〉の紳士的対応は握手を求められれば、差し出された手のみ冷気を止め、そのような悲惨なことにはならない。それでも冷たいが。
「……名乗らずか」
たとえ、目の前の相手が獣であっても、それを理解することなく、ただ自動的に、これが『王』の対応と考え行動している。ただ、今までの態度から〈愚鈍な氷結王〉は相手が敵意しかないと判断する。
「ならば、【凍れ】」
そう言葉を放ち、貼り付けた手からも冷気を直に送る。巨大猿はみるみると凍っていき、大きな氷柱と化した。
あれほど、苦戦した相手も〈愚鈍な氷結王〉の前では赤子同然。当然、アデルも同様だ。そんな〈愚鈍な氷結王〉はアデルの方を向く。
「……さて、これをどうすれば良い」
アデルに対して〈愚鈍な氷結王〉は問いかけてきた。ヨーには今、意識がない。
そのため、呼び出された理由「目の前の敵を倒せ」が達成しているのか、〈愚鈍な氷結王〉には判断が付かなかったのだ。
そして、〈愚鈍な氷結王〉は面識のあるアデルにその確認を求めたのだった。
アデルは目の前の光景に見て、その答えにふと悩んだ。氷柱と化した巨大猿の始末を。そして、その決断を委ねられたことを。