最悪と災悪
夜更け過ぎ。
カインとファレンという従業員が増えたことでエルザにもようやくゆっくりと睡眠を取ることができるようになった。
とはいっても湯浴みなどの時間を差し引けば寝れて4時間ほど。それでもほぼ無休で働いてきたエルザには充分すぎる。
アトリの部屋と同じく、3階にあるエルザの寝室。
普段着兼仕事着の真っ黒なドレスを脱ぎ捨ててエルザが身に纏うのはこれまた同じように真っ黒なネグリジェ。ユースティアほど高価な物ではないが、それなりに着心地もよく軽い。
白銀のように輝き、雪原のように白い髪を丁寧に櫛でとき、窓際に置かれた1人がけソファーに座りながら夜空を見上げる。
細く長い足と控えめだが、美しい胸元が艶やかに月夜に照らされる。その姿はさながら一国の姫君、あるいは月の精霊か。
無機質で人形のように表情の薄いエルザは不意に気配を感じ、櫛をローテーブルに置いて扉を見つめた。
コンコン。
遅れて響く控えめな扉を叩く音。
冷たい床を歩き、エルザは扉を開いた。
「よぉ。紅茶でも飲まねーか?」
どこから出してきたのか、ヒビや所々が欠けてしまったボロのティーセットを盆に乗せ、カナタはエルザの了承を得ずにずかずかと部屋に上り込む。
「…女性の部屋へ夜遅くに押しかけるのは感心しません旦那様」
「はっはっ。お前みてーな色気のねー女誰が襲うか」
あらかじめティーポットに入れてきたのだろう。有無を言わさず、2つのカップに琥珀色の液体が湯気を立てて注がれる。途端に暖かく柔らかな、どことなくフルーティーな優しい香気が辺りに溢れた。
「これは…今朝の?」
「あぁ、ガキに飲ますにゃちょっと勿体ない嗜好品だと思ってな」
カナタがエルザの部屋を訪ねるなんてことはそうない。先ほどまでエルザが座っていたソファーに座り、物珍しそうに辺りを見回してカナタは紅茶を一口含む。
仕方なしにエルザもティーカップを取り、ベッドに腰をかけて紅茶を味わうことにした。
透き通った茶色に映る自分の顔。豊かな香りが鼻腔をくすぐる。舌感触は実に滑らかで嫌な苦味もない。飲んでわかる。最高級品とまではいかないが、高価な部類に入る茶葉だ。
「おいしい」
無意識に漏れたエルザの言葉はロウソクの火に照らされた室内に静かに響く。
「それで旦那様。要件をお話しください」
会話なく、静かに開かれた夜更け過ぎのお茶会。
しばしの時間が経ち、ひとしきり紅茶を楽しんだ後にエルザは訪ねる。
そうカナタがただ紅茶を振る舞いに来るわけがない。きっと何か別の要件があることは顔を見てすぐにわかった。
「エルザ…お前防音系の魔法は使えるか?」
「はい。唱えますか?」
「あぁ、頼む」
残った紅茶をカップの中で弄びながらカナタが頷くとエルザは虚空に手を添える。途端に空気の膜で包まれたような不思議な感覚が身体を襲った。
だが、決して嫌な感じがするわけではない。言い得て妙だが、安心するような心地よさ。それはエルザの敵意ない感情の現れか。
「この部屋の一切の音を魔法で遮断しました」
「あぁ、助かる」
カナタが懐から取り出したのは今朝のひと騒動起こした紅茶屋からの手紙。
徐に取り出したそれにカップに残った少量の紅茶を零した。
じわじわと薄茶色のシミが広がり、手紙を汚していく。
不思議に思ったが、エルザはその行動の意図をすぐに理解する。
「隠し文書ですね」
特殊なインクで書かれた文字が手紙の不自然な余白部分に浮かび上がるのを確認してエルザそれに目を通した。
ヨハンネス・ウィル・アルトリア。
確かにそうサインされた文書にはこう書かれている。
『親愛なる友、そして敬愛する我が宿敵カナタ・アマミヤへ。
貴殿の力が我が目的と野望、世界の救済のために必要だ。是非、力を貸して欲しい。世は私を王族の恥、最悪の王族と揶揄するが、最悪と災悪は王族にこそ有る。もし、私に力を貸してくれるのであれば5日後、王都から北東にある『リーファウスの大木』まで来て欲しい。
ヨハンネス・ウィル・アルトリア』
呼吸をするのを忘れ、エルザは何度もその手紙を読み直す。
間違いない。これはヨハンネスからの手紙だ。
ユースティアが疑ったヨハンネスとカナタの繋がりは真実だったのだ。
いや、繋がろうとしていると言った方が適切か。
「エルザ、お前はどう思う」
「…わかりません」
「おいおい、わからねーはないだろ」
沈黙するエルザ。
無理もない。差出人は魔族との人類族の戦争を激化させた張本人だ。エルザだけでなく、人類、魔族全ての人民が彼に振り回された。
「まず目的が分かりかねます。果たして、ヨハンネスは王族を滅ぼし、何を望むのでしょうか」
絵に描いたような物知り顔。口の端を上げてカナタはほくそ笑む。
「俺は知ってる。それを話した上でお前はお前に判断して欲しいと思ってここに来た」
「何故、私だけなのでしょうか?」
「もし、ヨハンネス側について失敗してみろ。お前は元魔女。ただ殺されるだけじゃ済まないかもしれないぜ?」
「それでもユースティア様やブドーリオ様にお伝えするべきだったかと」
「ダメだ。あいつらには負けても勝っても安全な王国側についてもらう。ヨハンもわざわざ雇われ兵まで皆殺しにはしないだろう。しようとしたとしても俺がさせない」
それではカナタがどちら側につくか教えられているようなもの。
だが、エルザはそれを口の中に留めて、追求はしない。
「いいか、ヨハンはなーー」
繰り出されたカナタの言葉。
耳を疑うような話だが、何故か信憑性もある。
エルザは相槌も忘れ、黙ってカナタが話し終わるのを待った。
それではまるで…。
「ーーといった感じだ。さぁ、信じるか信じないかはお前次第。選べ」
質問をする暇など与えない。
カナタはテーブルにリアムからの手紙とヨハンネスからの手紙を並べて置いた。
翡翠色の瞳が揺れ動く。
エルザ長い沈黙の後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……カナタ」
長い間呼んでいないその呼び名。
旦那様ではなく、カナタと名前で呼びたかった。
それは従業員と主人の関係ではなく、仲間として話をしたかったからだ。
「はっ。久しぶりにお前に名前で呼ばれたな。何年振りだ?」
カナタにも覚悟はある。
エルザがどちらを選んでも、例え敵として戦場にて相見えることになったとしても恨みはしない。
吐息のような小さな声。エルザの次の言葉をじっと急かすことせずカナタは待った。
「カナタ、私はーー」




