記憶の断片1
むせ返るような血の臭いとじめじめと人を不快にさせる湿度。
苔が所々に生えた石の壁には過去に幾人もの血を吸ったのであろう赤黒く汚れた箇所が目立つ。
環境的にも最悪なその部屋の光源は数本の蝋燭。
その場にいるだけでも悍ましく不快な気にさせるその部屋にはこれぐらいがちょうどいい。ここは拷問室なのだから。
「ユースティア殿」
部屋の雰囲気に飲まれていた矢先、不意に自分の名を呼ばれ、わたくしは思わず身体を震わせてしまった。
わずかな灯りの先に見えたのは第三王子にそれを取り巻く数人兵士たちと…
「こ、これは…なんてことですの…」
手枷から伸びた鎖を壁につながれ、酷い傷を負った魔族の少女だった。
「急いで手当てをしますわ。どなたかお手伝いを…!」
敵国とはいえ、痛ましく衰弱しきった少女のあまりの惨状に衝動的に駆けだしかけたわたくしの腕を誰かが掴んだ。
「ユースティア殿。私たちがあなたをお呼びしたのはこれを手当てしてもらうためではない」
「……ヨハンネス王子」
背の高くすらりと伸びた体躯に天の使いと間違えてしまいそうな程綺麗に輝く金色の髪。目鼻立ちも整っており、真っ青な両の眼は人を魅了に飲み込んでしまいそうなほど。
戦時中とはいえ、彼の人気は男女ともに高い。カリスマ的に支持を得ている人物。
けれど…わたくしにはこの方をどうにも信用できない。
慈しむように笑うその顔も兵士の死に涙を浮かべる様子も全てが嘘を貼り付けたもののように感じる。
だから、こんなふうに腕を掴まれても真正面から顔を見つめられてもまったく心は動かない。
「…それはどういうことでしょうかヨハンネス王子」
わたくしの問いに王子は掴んでいた手を離し、顔を寄せてわたくしにそっと耳打ちをした。
「あれの口を割らせて欲しいんだ。医療魔法に精通しているグリム・ユースティア医師のご令嬢である君になら自白を促す、または我々が考えるよりも一層効果的な痛みの与え方を知っているのではないか、と思ってね」
どうして…。
どうしてこの方はこんなにも甘く囁くような優しい声でこれほどまでに恐ろしく、醜い言葉を出せるのだろう…。
そうですわね…この方は魔族を人として認識していない。“あれ“とか“これ”などと決して人として扱うような気がない。
なぜ民衆や兵士たちはこんなような方に絶大な信頼を寄せているのだろうか。
「…わかりました王子。やってみますわ」
「ふふっ。君を呼んでよかったよ」
皇子は後ろからわたくしの肩を優しく叩き、そう囁いた。
「しかしながら皇子の好むやり方かはわかりません」
ボロボロになった辛うじて息をしている少女の前に膝をつきそう言ったわたくしの言葉に王子は眉をひそめる。
「どういうことだね、ユースティア殿」
「最も効果的なやり方はわたくしにはわかりかねます。しかし、口を割る気がないなら相手に心を開かせればいい。わたくしはそう考えます」
「相手は魔族だユースティア殿。我々の言葉が通じる相手ではない。…まさか君は…」
「はい、魔族言語なら少しだけですが話すことができます。魔族は高度な魔法技術を持っております故、医療魔法も同じく。国の医療の発展のため最低限の知識は学びました。…それを裏切りととりますか?」
話しながらわたくしは魔族の少女の容体を確認する。
酷い。
この言葉に尽きる。
何度も殴られたのだろう顔は晴れ上がり赤黒く変色して鼻の骨も折れ、片目のまぶたは無理矢理に糸で縫いつけられている。
当然のごとく両腕両足の骨は折られ、その爪という爪は剥がされていた。
一糸纏わぬその体には無数の暴行の後。性的暴行もされたのであろうその痕跡がちらほら残っている。
こんなにも小さな少女になんでこんなことを…。
診察をするだけでこの少女がなにをされたかが見えてきてギュッと目頭が熱くなり、同時に早く助けてあげられなかった自分への苛立ちを覚えた。
『………ん………し……い……』
光を失った瞳はぼんやりとわたくしを見つめ、小さく消え入りそうな声でなにかを呟いた。
「はっはっ! 俺が犯してやった時も骨を折った時も爪を剥いだ時も言葉という言葉は発しなかったのに。なかなかかわいい声してるじゃねーか!」
側で覗き込むように立っていた大柄な兵士の男の言葉に胸がぎゅーっと締め付けられる気がした。
今すぐにこの男を!
いえこの部屋にいておきながら止めることもしようとしなかった全員を殺してやりたい!
そう思いながらも何もできない自分に苛立ち、噛み締めた唇から血がぽたりと落ちた。
『大丈夫ですわ。わたくしは貴方の味方。きっとお家に帰して差し上げますわ』
国の人間にはほとんどが理解することの出来ないであろう魔族語で目の前の少女を安心させようとわたくしは笑顔で語りかけた。
まさか魔族の敵国であるアルトリアで母国の言葉を耳にするとは思っていなかったのか少女はうつむかせていた顔を静かに上げた。
その顔は見れば見るほど痛ましく、腫れ上がったまぶたを無理に縫い付けられた翡翠色の綺麗な目はほとんど見えていないのではと思うほど虚ろに揺れ動いていた。
『お姉ちゃん…もう…殺して…。痛いの…もう…ぐすっ…やだから…ひっぐ…』
幼い少女から聞かされるとは思わなかったその言葉に動揺を隠しきれずに不意に涙が溢れ出した。
構わずわたくしは少女の両頬を包み込むように手を伸ばす。
酷く少女の顔は冷たく感じた。
『大丈夫ですわ…! きっとわたくしがあなたを守ってみせます…!!』
『…ほ…ほんとに…おねえちゃん…わたしね…おとうさんを見に来ただけーー』
少女の瞳に希望の光が宿った刹那、目の前で少女の首が切り落とされた。