世界の名宿
一方、知らずのうちに従業員となってしまっていたカインは床のモップ掛けにテーブルの掃除、窓拭きや天井にはった蜘蛛の巣の除去など忙しなくロビーを走り回っていた。
「終わりました! 次はどこをやればいいですか?」
宿屋の主人カナタはといえば、そんな懸命に働く少年のことなど気にもとめず、だらしなくいつものようにカウンターテーブルに足を投げ出して一枚の紙に目を通している。
快活に働く少年の言葉にカナタはほんのひと時だけ紙から視線を外し、気だるそうに目を細めた。
「あそこの窓、まだ汚いな」
言われてカインは文句一つ言わずに誠心誠意働き尽くす。
自分たちを助けてくれたという純粋な感謝の気持ちともう一つ、カインには思うことがあった。
それを成すにはカナタに認められる必要性があるとカインは考えていた。
だからこそ、今までカナタがサボり続けた結果、酷い有様になった埃の数々を手伝えと言われようが咎めもせず、怠けもせず熱心にカナタの要望に応えられるよう努めている。
「あの…さっきから何見てるんですか?」
曇った窓ガラスを拭きながらカインは率直に尋ねてみる。
「……世界の名宿50選へのエントリーシートだ」
「世界の名宿50選ってあの毎年発行される本のですか?」
元いた世界の本ほど上等なものではないが、カインの言う通り、写真こそないものの宿名と評価概要などが事細かに書かれるその本は10年前に戦争の終結を迎えた今、旅行者や冒険者たちに多大なる影響を与える物となっていた。
エントリーシート自体は各国の都市にて無料で配布されている。
カナタが持っているのもたまたま王都アルシュタインに出かけていたユースティアに頼み持ってきてもらっていたからだ。
「へぇ〜応募するんですか?」
「毎年出してるよ。だが、毎回毎回エントリーを断られる」
「え? な、なんでですか?」
そこでカナタはふぅ〜と長く息を吐く。
「この村が地図上に存在しない村だからだ。原則、エントリーシートには所在地を書かないと行けないわけだが、毎年レインタウンとこの村の名前を書いても毎回毎回受付で突っぱねられちまう」
「あ、あ〜それは…どうしたらいいんでしょう…」
「わからないな。世界の名宿に選ばれれば誘致としては申し分なし、大繁盛が約束されているはずなんだが、エントリーさえもできないとはな」
エントリーできたとしてそのボロ宿でどうやって世界の名宿に選ばれる気でいるのか、と当然のように出た疑問が口から出るのをカインは喉元で押し込める。
「あー…ん〜…例えばですよ?」
「あ?」
不機嫌そうな肩を鳴らしたカナタにカインは少々、臆しながら言葉を続ける。
「あの…まずこれの審査方法ってどうやってするんですかね?」
「王国連合議員…まぁ、世界中の国の偉いやつらだな。その連中がまずは書類審査をする。次に覆面調査員を派遣して実際のサービスや外観、内観、景色など諸々を含め評価し、書類として上に提出。それを元に上で審査し、今度はその議員たちが来泊、自分たちの目で確かめる。その結果の元、再度審査し、世界の名宿が選ばれるってわけだ…それがどうした?」
「いや…あの…例えばの話ですよ?」
「勿体ぶってねーで早く言えよ」
「あの…直接そのお偉いさん方にアピールしちゃう…なんて…ははっ無理ですよね」
「それだ」
至って真剣な眼差しでカナタは前のめりに頷いた。
「えぇ! そ、そんな本当に? 半分冗談ですよこんなの!」
「いや、その冗談が割と現実味がある話になって見えてきた。ほら、さっき覆面調査員って言ったろ? 調査員に選ばれる人間ってのは大体、各国の大臣だったり上流階級だったり騎士団長だったりするわけだ」
「は、はぁ…」
「確かに俺には議員なんていういけ好かないお高く止まった野郎の知り合いはいないが、それに進言できるような人物の知り合いなら心当たりがある」
「あなた…何者ですか」
カインの問いにカナタは不敵な笑みを浮かべた。
「その前にだ」
厨房から漂ってくる朝食の匂いと二つの足音に反応し、カナタは話を区切った。
「どうよ! あたしに掛かればこんなもんなんだから!!」
上機嫌にお盆に並べられた美味しそうな朝食を手にファレンがエルザを引き連れて顔を出した。
「旦那様、ファレン様の教えの元、また私の料理の腕が上達しました」
「…そうか。それは何よりだな」
「あんたよくあんな料理を普通に食べてられたわね。ちょっと味覚も胃もおかしんじゃない?」
「慣れれば割となんでも食えるようになるもんだ」
フッと鼻で笑い、カナタは答える。
その態度にほんのわずかにエルザの眉がピクリと動いた。
「んで、このお盆は? どこに置けばいいのよ。クソ旦那様」
「若旦那様みたいな発音で呼ぶんじゃねーよ。オーナーって呼べ、オーナーって」
「はいはい、クソオーナー。それでこれは?」
抱えたままの朝食セットの行方をカナタに問うファレン。
カナタは人差し指を立てて真上を指差した。
「二人で挨拶がてら、『唯一の上客』であり、『常連』の『はた迷惑な客』に持って行って来い」
こんなボロ宿に常連客。
カインとファレンは目を見合わせ、パチパチとお互いを見て瞬きをした。




