さくらんぼ
「最近ね~幸せなんだ。何をしても幸せだ。それと比例して怖い。」
アヤのお気に入りのケーキ屋さんの一番奥のテーブル。僕とアヤの間には一つのチェリーのクラフティと一つの暖かいコーヒーがある。
「なんで?」
アヤのフォークに乗せられたチェリーはたっぷりのシロップで煮詰められていてツヤツヤと暗く輝いている。
「いつかは忘れてしまう・・・」
宝石のみたいなチェリーはアヤに咀嚼されジュワリと甘いキルシュのたっぷり入った液体を溢れさせたに違いない。
「日々勉強して覚える事がたくさんあるんだ。多少の物忘れなんて仕方がないよ。」
チェリーを覆い隠くすように流し込まれていたアパレイユ。チェリーの甘い液体と混ざりあって存在感のあったキルシュをほんの少しだけまろやかにしたに違いない。
「仕方がないって割り切れない。このケーキの味を忘れてしまうのかもしれない・・・今は覚えていても時間が過ぎると忘れるかもしれない」
しっかりと焼き上げられたフォンセ。アパレイユが染み込んだ層は口当たりが柔らかく、染み込む事の無かった層はサクリとした歯触り。食感の差が同じフォンセを別の生地の様に感じさせたに違いない。
「今はそんな事心配しなくていいんじゃない?老いたら誰でも容量が小さくなるんだから。」
アヤの右手は、フォークを置き去りしてコーヒーに伸びた。一杯ごとにペーパードリップされたコーヒーはクラフティーの全てを巻き添えにしてアヤの中に落ちていく。
「忘れてしまう事は限りなく消し去ってしまう事に近い。忘却は限りなく死に近い。私は消したくない。私は失いたくない。」
アヤの中にあるチェリーもアパレイユもフォンセもコーヒーも消えてなんていないし、失われてなんかいない。僕は覚えている。
「アヤの時間の中で、アヤはアヤを作っていく。アヤは誰かを記憶して、それと同時に誰かにアヤは記憶される。アヤが何かを忘れてしまってもアヤを何かが記憶している。大丈夫。アヤは忘れられたりしないよ。」
「私が怖いのはね、私が忘れ去られる事じゃないんだ。氷室君は私以外の誰かに記憶される事はない。それが怖いんだ。」
僕は、アヤの手元に残っていたチェリーのクラフティーに襲いかかった。アヤは驚いて椅子から立ち上がった。立ち上がったアヤに驚いたケーキ屋さんのお姉さんが見ている前で僕はチェリーのクラフティーを飲み込んだ。僕を認識していないお姉さんには自分の目の前でケーキが無くなったように見えたと思う。何度も何度も瞬きをしたお姉さんは顔色を青くしたままアヤのケーキのお皿を見ている。
「僕と一緒にいるアヤを記憶してくれているお姉さんがいると安心でしょ?」
僕はアヤが楽しみに残していたケーキを横取りして全部食べた事だけを怒られた。




