千夜一夜
「ねぇ氷室君。何かお話ししてよ。」
布団から顔を出したアヤは僕の尻尾を掴んでいる。アヤに掴まれたところで痛くはないのだけれど僕は今眠い。夢現だ。しかし、それでも僕は、僕が知らない現にアヤを置き去りにしたくはない。
「あるところに悲しさの無い世界がありました。」
「悲しさが無いの?」
「そうだよ。そこには悲しさが無い。そうだな、例えば自動販売機。僕は甘い珈琲が好きだ。でもアヤは苦い珈琲が好きでしょ。」
「うん。」
「僕が珈琲を求めて自動販売機にコインを入れると、悲しさの無い世界の自動販売機の中身は全て甘い珈琲になる。」
「私飲めないね。」
「そしてボタンを押して甘い珈琲が出てきた瞬間、その世界からアヤは消える。」
「なんで?」
「わからない?僕は信じられなくて、何度か瞬きを繰り返す。何かを誤魔化す様に滴り落ちてくる涙で視界が歪むんだ。そしてアヤがいなくて悲しいと気が付く。そして悲しさがここには無いと気が付く。」
「うん。」
「気が付いた瞬間、僕の目の前には甘い珈琲を美味しそうに飲むアヤが立っているんだ。アヤがいたから悲しくなくなった。しかし、僕はまた違う事に気が付くんだ。ここには僕の悲しさがない。ここにはアヤの本物の笑顔もない。」
「うん。」
「だからね、アヤ、僕は今の世界にアヤの笑顔があるのなら少しくらい悲しくても平気だよ。アヤ?」
眠たくて眠たくて悲しい僕を置き去りにしてアヤは夢の世界に行っていた。夢の世界が楽しいのか口元がふにゃりとしていて笑っている。寂しくて悲しくて少し涙が出た。それでもアヤが笑っているから平気。悲しさの無い世界、さようなら。眠くて悲しい僕も寝よう。




