AB(4)
慌てた様子で授業後の第二十番教室に駆け込んできたアデールのメイドに案内され、エマはアデールの自室へ来ていた。道すがらメイドが話してくれたところによると、どうやらアデールは、オーガストからの手紙の内容にショックを受けているらしい。
「それで、アデールさんは……」
「こちらよ、エマさん」
広い部屋の奥からセリアの声が聞こえてくる。声が聞こえてきた方へとエマが向かえば、ドアを開けて待っていたメイドが一礼して立ち去った。
いつもお茶会をするテーブルよりももっと奥、窓際に備え付けられた豪奢なソファに、彼女たちはいた。
絨毯に座り込み、ソファに座るセリアの膝に頭を預けて、憂いた顔でため息をつくアデールの姿に思わず足を止め、エマはひとつ頭を振って二人の近くへと歩み寄った。
「こんにちは、セリアさん。アデールさん、大丈夫ですか?」
気怠そうに視線をあげたアデールが、ふるりと小さく首を振る。
「もう……もう、だめです、わ……」
「ずっとこんな調子よ」
アデールの赤紫の縦ロールを指に絡めながら、セリアが苦笑した。
「さあ、エマさんもいらしたわよ。話してちょうだい、アデールさん?」
小さな子供のようにあやされたアデールは、しぶしぶといった様子でソファに座り、握りしめていた手紙を、エマとセリアに差し出した。
「……読んでも?」
エマは、頷いたアデールの手から、しわくちゃの手紙を受け取った。
ざっと目を通して、首をかしげる。
「これ、どういうことですか? “神授籍”……?」
弾かれたように立ち上がったセリアが、エマの手から手紙を奪い取る。
「まさか!」
「うわっ!?」
「……そう、そういうこと……そうなのね、オーガスト様……」
セリアは、文面を読んで納得したようにソファに座りなおした。
「あの。教えてください。どういうことですか? ベラミーさんは、何を言っているんですか?」
オーガストの手紙の内容は、父の後を継ぎ宰相となるべく、卒業後は朝廷で働き始めるということ、それから、父である現宰相がすでに高齢であり、神授籍を拒否しているため、代わりに自分は早々に神授籍に入るつもりである、というものだった。
アデールに、自分についてくる覚悟はあるのかと、問うものだった。けれども。
エマは、この『神授籍』が何を意味するのかわからなかった。
「神授籍って、なんですか?」
アデールは手を握りしめてうつむいてしまった。その背中を撫でながら、セリアが表情を引き締める。
セリアのその真剣な表情に、少し、胸騒ぎがした。
「この国には、二十の爵位持ちの家があるわね。その中でも、四侯と呼ばれる名家があるでしょう」
「アデールさん、ベラミーさんたちのお家ですね」
「その家の者は、望めば神授籍に入れる。その資格を持っているのよ」
「……あの、セリアさん」
「そうね。神授籍の話よね。――ねえ、エマさん。おとぎ話、知ってるかしら」
セリアが言うのは、このガーディナー王国には、神の意思が存在するという、誰もが知っているおとぎ話。
「王様は、神からこの国を任されているのだというお話」
「知ってます、誰でも知っています。……神授籍って、それになぞらえたものですか」
セリアは少しだけ、困ったように笑った。
「なぞらえたもの、ではないわね。正しく、神から授けられる、途方もなく長い命を約束された身分よ」
エマは呻いた。セリアの言い分は、まるで神が存在しているかのようだった。
「神、なんて、そんなもの」
「だって考えてもごらんなさい、今の陛下の在位は何年? 御年、いくつになられたの?」
現王が即位して六十年。今年で確か、九十六歳になったと聞いた。いまだその慧眼に陰りなしと言われている。――医学・科学がある程度発達しているとはいえ、現代日本よりも明らかにレベルの劣るこの世界の平均寿命からすると、その年齢は、異常だ。
王族や貴族は優雅な暮らしをしているから、健康状態もよくて長生きなのだと無根拠に思っていた。おとぎ話になぞらえて、神の意思を背負っているから長く生きるんだと無邪気に語っていた町の人々を思い出す。祭事のたびに、現王を言祝ぐように語られるその話を、養父のバトー医師が、否定するところをエマは見たことがない。
現代日本の記憶を得たエマから見ても、現実的な医学知識、それも西洋医学で治療を施してきた彼が、神がいるから長寿なのだという荒唐無稽な話に、笑って頷いていた。
駆け上ってきた悪寒に、エマは身震いした。
「普通に考えたら、ありえないわ。九十六歳のご老体よ。ねえ、陛下を見たことがある? どう上に見繕っても、五十代にしか見えないわ」
聞きたくなかった。ここは、剣はあっても魔法はなく、亜人はいても魔人はおらず、ドラゴンはいても火を吹かず、神も、妖精も、天使も悪魔もいない、とてもとても、現実的な世界なのだと、エマは信じている。現代日本の記憶を得てからは、なおさら。
それはおおよそで正しい認識だったけれど、ただひとつ。
「神は、いるのよ。……いえ、いるかどうかはわからない。けれど。神の意思は、確かに存在しているの。王はその意思を背負うことで長命となる。臣下も、限られてはいるけれど、王の長い治世を支えるために、神授籍に入ることができる」
「オーガスト様は、神に仕える夫に嫁ぐ覚悟はあるのかと、問うてらっしゃるのですわ」
アデールが続けた。きっと、お互いの寿命の違いに耐えられるのかとか、アデールも神授籍に入るならば、長い長い人生を歩ききれるのかとか、そういうことだろう。そこまでは、わかる。理解できる。
けれど。やりきれない感情が爆発する。
「――神が、いるなら」
鼻の奥に、嗅ぎなれた饐えた臭いが蘇る。まぶたを閉じずとも、再生される悪夢のような日々。
泣き叫ぶこともできずに道端に転がる人々。自らの吐瀉物で窒息した父。錯乱した母が、食料を分けにきてくれた伯母を燃え盛るかまどに突っ込んだ。その母も、正気付いた一瞬のうちに、自らかまどへ頭を突っ込んだ。
「どうして」
村中がそんな有様だった。村中に死臭が満ちていた。一度発症すれば、確実に死に至る奇病。誰もが死の恐怖に怯え、錯乱し、狂っていく。神への祈りと、怨嗟がこだました。
エマも、ロバの首に抱き着きながら、小さく、かみさま、と祈ったのを覚えている。
誰でもいい、なんでも。かみさま。たすけて。
「どうして、死ななければならなかったのです」
「エマさん……」
エマの身の上を知るが故の、気遣うようなセリアの声が、ただ不愉快だった。
「助けてって、家族を、みんなを、神に、……どうして」
息を呑んだアデールの釣り目がちな目から、ひとつ涙がこぼれたことさえ、不愉快だった。
「あんな苦しみを、あんな、私は、失うことなんて、神が、――神が、いるなら!」
「――ええ、ええ。エマさん。神は、いるのよ」
神はいるのよ。セリアの凛と澄んだ声が、エマの荒れ狂う感情を打つ。
もう一度、セリアは繰り返した。
「神は、いるのよ。だから、この国にはスタンシー女史の名を冠する医師の学校があり、そこから輩出された腕利きの医師たちによって、村一つの被害で抑えられたでしょう?」
「――っ!」
残酷な言葉だった。残酷な事実。その通りだった。現場の医師から状況の深刻さが伝えられ、国が即座に医師団を結成して村に送り込み、村一つを徹底して隔離した。
軍すらも動いていたという。誰一人、何一つ、村から出さないように。それは、病を治す方法がない状況において、とても的確な対処だったはずだ。だから村一つの被害で済んだのだと、それはエマもよくわかっている。
スタンシー学園を建立したのは、何代か前の王。それが神の意思に従ったものだとするならば。
「……でも、それでも、神がいるなら、と。その感情は、少しは、わかるつもりだわ」
セリアの声が優しすぎて、誘われるように涙がこぼれた。
泣きながら立ち尽くすエマの右手を、そっと握る細い指先があった。
「――エマさん。それがあなたの、医師を志す理由ですのね」
そう、それが理由。居もしない神に祈ってただ見殺しにするくらいなら、最後まで可能性を模索して足掻きたい。結局死なせてしまったとしても、いつか、足掻いたおかげで他の命を救うことができるかもしれない。
足掻くための知識と技術がほしかった。養父のように。
「エマさん。あなたはもう、……神に救いを求めないのですね」
アデールが、エマの右手を握って、じっと見上げてくる。
その目を見つめながら、小さく頷いた。
「そう。……それなら、私、決めましたわ」
涙を湛えながらも強い光を宿した目で、アデールはエマを見つめている。
「決めた、んですか」
「決めましたわ」
「何を、です」
アデールは、エマの涙をぬぐってとてもきれいに微笑んだ。
「神の意思を背負う、覚悟です」
アデールが細めた目の端から流れ落ちた涙の一粒を、絨毯に落ちるまでただ見送った。
次の休息日の昼下がり。オーガストが特別学生寮で与えられている二つの部屋のうち、客間として利用している方の部屋に、オーガストとアデールはいた。
お茶を用意しようとした侍女たちを下がらせ、この部屋にいるのは二人だけ。
「それで」
オーガストがアデールに椅子を勧め、自分もまた対面に座った。
「話とは、なんだ」
「まずは、先日の、いいえ、ここしばらくのお手紙、ありがとうございました。オーガスト様」
「ああ。いや」
「嬉しかったですわ。とても。幼いころを思い出しました」
「ああ……」
何回かの手紙を交わすうちに、彼がとても口下手な人だということを思い出した。会って話すときには端的な言葉しか口にしないのに、手紙になるとさりげない気づかいを織り交ぜることができる人。
思えば、昔からそうだった。必要最低限の言葉だけを口にする、実はきっと不器用な人。
アデールは、ふと微笑んだ。
「オーガスト様。昨年からは、ご迷惑をおかけしましたわ。申し訳ありませんでした」
「……なんだ、今更」
アデールは心中で苦笑してしまう。今更。昨年から始まったアデールの言動に眉を顰めつつも、まだ許せる範疇であったということ。
本当に、許容範囲の広い人だ。そして、優しいのに、それを表現する術を知らない人。手紙を交わすうちに、ようやく気づけた。
「学園の皆様からも、様々に、その、評判も。侯爵令嬢として、あまり相応しくなかった、と。……ああ、いいえ」
彼のその寛大な優しさに、惹かれていったのだということを思い出す。幼いころに引き合わされ、すでに氷の美貌を備えていた彼が最初は苦手だったが、アデールのたいがいのわがままを否定しないでいてくれた。
積極的に手を貸さないが、積極的に止めもしない。ただ、アデールが何かをやりたいと言えば、そうかと頷いて傍にいてくれただけ。
彼にとってそれは、年下の女の子に危険がないよう監督する程度の意味しかなかったのだとしても。
嬉しかった。
だからアデールは、今度は自分がオーガストの傍にいたいと思ったのだ。
「違いましたわ。あの振る舞いは、“次期宮宰の妻として”、あまり褒められたものではなかったと、思いますわ」
オーガストが、その冷たい美貌をほんの少し動かした。
「……決めたのか」
「決めましたわ。私、オーガスト様が好きですの」
不思議と、今まで彼に話しかけるときのような焦りは感じなかった。たくさん話しかけなければ心が離れるという焦燥感は、手紙を交わすうちに消えていた。幼いころを思い出したからだろうか。
ひどく穏やかな心地で、アデールは笑う。
「あなたと共に生きたいですわ、オーガスト様。神に見放されるその日まで」
神授籍。神の意思を授かる存在。それはただ長命になるというものではなく、一度人として死に、神から新たな肉体を与えられた不死の存在である。
王を始め神授籍の人間を殺せるのは、ただ、神の意思のみ。神から死を与えられない限り、永劫の生を得る。
首を切っても胸を刺しても食事を絶っても、死ぬことはない。その肉体は生命活動を行わず、神の意志のみで生を模倣しているからだ。
「発狂した高官の末路を、知らぬお前ではないだろう、アデール」
「存じておりますわ。大叔父が、そうでしたもの」
狂ったように自死を試し、死ねないことを確認したら、ありもしないくだらない罪を捏造し、もう何も見たくないと言って進んで牢へ入ろうとする。かつて生涯お傍にと誓った王に向かって、もう殺してくれと嘆願する。
その姿は、神も見るに堪えないほどの醜態なのであろう。王に詰め寄った大叔父は、見かねた近衛兵が取り押さえた瞬間に死んだ。
大叔父の葬式には、遺体はなかった。神授籍の人間の死体は、神が跡形もなく消してしまうのだそうだ。空の棺に花を捧げながら、これが神授籍だと、父が痛ましい表情で囁いたのを覚えている。
「それでも、神がいるなら、と彼女が泣きましたから。だから私は、神の意思を示して差し上げなくてはいけませんわ。その資格があるのですから」
力強く笑うアデールを、オーガストは少し驚いたような顔で見た。
「それは、……エマ・バトーか?」
「ええ、そうですわ。エマ・バトー。私の大切なお友達ですの。病でご家族を亡くされて、という話を聞きました。調べましたら、十数年前の、北部で起きたことですのね。――神がいるなら。私は、そう言って泣く彼女のために、神が救う命の数を増やさなければ。彼女がまた神に祈ることができるように」
エマの涙を思い出すたび、胸が締め付けられる。あれは、国に仕える貴族が救わなければならない命だと思った。彼女の助けになるためにアデールが出来ることは、ブレイン家とベラミー家の結びつきを強くし、自身もまた、政治に関われるポジションにつくこと。
アデールは、まだ驚いたような顔のオーガストを正面から見つめた。苦手としていた氷の美貌が揺らいでいるのを見るのは、少しだけ気分がいい。
「悠久の時であっても、たとえ刹那だったとしても、……あなたとの間に子供ができなくても。それでも、あなたと一緒なら私、きっと平気ですわ」
オーガストは、今度こそ本当に目を見開いた。
「……わかっているのか?」
貴族社会において、夫婦間に子供がいないという意味。まして、アデールとオーガストの結婚は、政略結婚以外の何物でもない。
口さがない連中からの謗り、血のつながらない子供の教育。様々な苦痛が、きっと襲い来る。
でも、そんなことは、もう考えた。
「ご安心なさって」
アデールは自信満々に胸を張る。
「卒業してすぐに神授籍に入るわけではないのでしょう? なら、可能性はございますわ!」
神授籍に入った者は、その肉体が疑似的な生命活動しか行えないため、生殖機能を持たない。神授籍の夫婦にとって望ましいのは、生身の人間であるうちに、子供を産んでしまうこと。
頑張りましょう! と笑って、兵士のようにこぶしで胸を叩くアデールに、オーガストは頭を押さえてため息をつく。
「……そうだな」
顔をあげた彼は、それでもどこか吹っ切れた様子でアデールに微笑んだ。