AB(2)
週に一度の休息日の昼下がり。
スタンシー学園中等部普通科一年、ブレイン侯爵家令嬢アデールは、一般学生寮に比べて豪奢な特別学生寮の一角にある自室にて、不貞腐れながらそれでも優雅に紅茶を味わっていた。
そんな彼女を対面に座って眺めるエマは、少年のように短く切った栗色の髪を指先で軽く撫でながらため息を吐いた。
「それで、アデールさん。成果はどうです」
「……どうもしませんわよ」
ぶすっとして顔をそむけたアデールは、不機嫌そうな声音を隠そうともしない。それもそのはず、彼女が恋い慕う婚約者の金髪貴公子、同じ中等部普通科一年生であるベラミー侯爵令息のオーガストとは、結局のところこのひと月なんの進展もなかったのだ。
「押してダメなら引いてみろ作戦、アデールさんには合わなかったのかもしれませんね。すみません」
アデールが真っ赤な顔でエマに恋愛相談を命令してからひと月。助力すると決めたエマは、時々こうしてアデールの部屋に招かれて恋愛相談という名のお茶会に参加している。そこでひと月前、エマが提案したのが「押してダメなら引いてみろ」作戦であった。
しかし効果は芳しくない、というよりも、婚約者のオーガストを前にすると舞い上がってしまうアデールには向いていない作戦だったようだ。
「エマさんが謝ることではありませんわ。私も普段通りにしてしまいましたもの」
このひと月でおおよそアデールとオーガストの関係は見えてきた。一度遠巻きに見ていたが、アデールは彼が目に入るとわき目もふらずに駆け寄り、時と場所をわきまえずに喋り倒してしまう。それに対してオーガストは一瞥するだけで、特に返事もせずに歩き去ってしまった。
ここ一年くらい二人はいつもあんな感じだと学園の生徒は言っていたが、乙女ゲームや少女マンガ的セオリーから考えれば、彼は彼女を面倒に感じているのだろう。そう考える生徒も多いようで、アデールを好ましく思っていないらしいオーガストファンの女子生徒の不愉快そうな声を耳にするのも少なくなかった。
「見かけたのは一度ですけど、お噂はかねがね。ご自分の噂は耳にしてます?」
「……存じてますわよ。ですけど、オーガスト様は私の婚約者ですわ」
彼女と彼の家は同格、かつブレイン家とベラミー家は古くから付き合いがある。そのため、歳の近い二人は当然の流れで婚約者となったようだ。アデールは今年十五歳、オーガストは十七歳。この学園は一学年の中で五歳程度の年齢差があるが、特別な家の事情もなかったオーガストの入学が遅れたのは、アデールがわがままを言ったからだという噂もあった。
高貴な家柄と整った容姿から、学園でも屈指の有名人である彼らの情報は、真偽はともかくとして次から次へと集まってきた。総合的な印象としては、オーガストは、幼いころからアデールに振り回されてきている苦労人だというものだ。
「ベラミーさんの気持ちがわかれば楽なんですけどねえ」
いかにも高そうな紅茶とお菓子に舌鼓を打ちながらエマがのんびりとそんなことを口にすれば、目の前の侯爵令嬢はますます不機嫌そうに睨みつけてきた。
「そこを推し量るのがあなたの役目ですわよ」
「それはまあ、重々承知してますが」
「他に何かありませんの」
「私がベラミーさんに近づくのは禁止されましたから……彼と仲のいいご友人、ええと確か、クリスティ・ドラモンドさん、でしたら、許可を?」
この国で五指に入る家柄で次期当主のオーガストは、その冷たい美貌と言動から学園内では氷の貴公子と祭り上げられ、気の置けない友人が少ない、らしい。
そんなオーガストの数少ない友人として代表的な人物が、ドラモンド侯爵家次男坊のクリスティであった。
出会ったのは学園の初等部かららしいが、以降ずっと同じ学科、同じクラスで誰よりもオーガストに近い親友とも呼べる相手ということだ。なのだが。
「いいえ。あの方は浮いたお話が多すぎますから」
「……まあ、お噂はかねがね」
クリスティには女遊びが激しいという噂があった。
医学専攻クラスで話を聞いてみれば、中流階級以上ではそれなりに有名な話だった。彼との火遊びに興じて涙したお嬢さんは数知れず。あなたも気を付けなさい、と話してくれた商家の娘がいやに真剣な表情をしていたのも記憶に新しい。
「オーガスト様に近づかせない理由の一つは、クリスティ様とも距離を取らせるためですわ」
「ははあ、なるほど」
「なんですの」
ツンとした声色に混じるものを見つけた気がして、思わず手を打ってしまった。訝しげな視線を寄越すアデールには曖昧な笑いを返しておく。人の心配をしていることを素直に言えない彼女が微笑ましいだなんて、本人には口が裂けても言えない。
制服のスカートの白地に走る黒いラインをなんとなく指で追いながら、どうしましょうかねえ、とエマは呟いた。
「いっそのこと文通とかしてみますか」
「文通? 学園に入る前によくやっておりましたわ」
学園では学べない貴族としての勉強に追われたりしていて、幼いころはなかなか会えなかったのだという。
その反動で今のアデールはオーガストに話しかけたがるのかと納得しかけるも、彼らがスタンシー学園の初等部に入学したのは三年前のはずだということに思い至って首を捻る。たしか、アデールがオーガストにまとわりつくようになったのはこの一年という話だった。
「お二人って、初等部入ったばかりの頃、あんまりお話されなかったんですか」
問えば、アデールはびくりと肩を揺らして顔を伏せた。
「……クリスティ様が」
「はい」
「…………私も、臆病、で」
それだけ口にしてアデールは押し黙った。クリスティの名前が出てくるということは、男友達に邪魔されてなかなか近づけなかったということだろうか。
三年前といえばオーガストは十四歳、女子と話すことを避け始める時期だったのかもしれないな、と推測する。アデールもアデールで、当時十二歳だった彼女に男子の仲に割り込む勇気の持ち合わせはなかったということなのだろう。
「ふむ、なるほど」
「ですが!」
納得したようにエマが頷けば、俯いていたアデールが突然立ち上がってこちらを見て、大きな声を上げた。
「昨年、手に入れました庶民向け恋愛小説に! 話しかけなければ彼の心が離れていくとありましたの!」
こちらですわ、とアデールが差し出したのは、確かに下町の娘の間で流行っていた恋愛小説だった。下町に暮らすパン屋の看板娘が、週に一度パンを買いに訪れる見目麗しい騎士に惹かれていくという内容で、二人の心の交流を丁寧に描いた作品だ。エマも、去年まで通っていた下町にある庶民向けの学校で、友人から借りて読んだことがある。
受け取った本をぱらぱらとめくりながら、エマはアデールを見上げた。
「……この主人公みたいに、頑張ってるんですね」
「ええ、そうですわ!」
一歳年下のこの美少女の輝く笑顔に、エマは返す言葉を持ち合わせていなかった。
スイッチが入ったのか、庶民向け恋愛小説、というよりも庶民の娘が貴族や王族と結ばれるシンデレラストーリー的な小説の素晴らしさを、アデールが怒涛の勢いで語り始めたお茶会から、エマはどうにか逃げ出すことに成功した。
アデールと関わるようになってから、縦ロールな貴族令嬢のイメージが音を立てて崩れていくのを感じている。まさかいいとこのお嬢様が庶民向け小説にハマっているとは考えもしなかった。あれは完全にオタクだ。
(でなければ、私が呼び出されることもなかったのだろうけど)
物語のように、王子様を射止める庶民の娘みたいになりたかった。だから実際の庶民の話を聞きたかった。けれど、学園内にはアデールが話しかけられるような庶民などいなかった。
優秀な「特待生」を除いて、彼女の格に釣り合う庶民などいなかったのだ。
(プライドが高くて、高飛車で、傲慢で、でも一生懸命で可愛い人)
胸中でアデールをそう評価しながら、広い中庭を突っ切って一般寮へと戻る。女子寮のロビーでは、顔見知りの生徒が何人か寛いでいた。
一人掛けのソファに座って本を読んでいる体格のいい少女が、顔を上げてエマに手を振った。
「こんばんは、エマ。今夜のスープはポトフだそうよ」
鼻の頭にずり落ちてきた眼鏡を直して夕食の献立を報告するその女子は、食物の流通にかかわる商家の娘で、食べ物のこととなると口数が増える。エマとは同じクラスで何かと一緒の班を組むことが多く、よく話すようになった。
「こんばんは。素敵な情報をありがとう、リュシー」
「明日の朝も知りたいかしら」
「教えて。教室へ持って行けるものだといいんだけど」
「喜びなさい、ハムと卵のガレットがあるそうよ」
「ありがとう。それなら明日は昼食を作らなくてよさそう」
ほっとしたようにエマは笑った。
寮食は朝と夜しかない。そのため、学食を利用しない生徒は、朝食で出たものを使って昼の弁当としている。持ち運びが簡単な料理ならば、弁当箱がわりの金属の缶に詰めればいいだけなので楽が出来る。
体格のいい女子生徒は、よかったわね、と眼鏡の奥の目を細めて笑い、手元の本に視線を落とした。
アデールとのお茶会から数日後の放課後。
実習棟と講義棟を繋ぐ渡り廊下で尻餅をついたエマは、窓から中庭を眺めて歩いていたせいでぶつかってしまった男子生徒を呆然と見上げた。
オーガスト・ベラミー。金髪を短めに整え、目にかかるほどの長さの前髪は左に流している。氷の貴公子と称される所以であろう切れ長の目は、確かに冷たい青色で、整った顔にも女子生徒とぶつかった動揺はまったく見られない。すらりとした長身の体躯は、銀のラインが走る青みがかった黒のブレザーと灰色のスラックスという、スタンシー学園の制服を見事に着こなしていた。
彼をこうして正面からまじまじと見つめるのは、初めてである。
「おい、立てるか」
オーガストがごく自然に発したその口調に、思わず苦笑いを浮かべながら、
「お気遣いどうも。よそ見していてすみませんでした」
差し出された彼の手に触れることなく、エマは自力で立ち上がって頭を下げた。
頼られることのなかった手を腰へと戻し、オーガストがエマを上から下までじっと眺めた。嫌な予感がじわじわと湧き上がり、何かを言われる前に立ち去ろうと、エマは彼の横を素早くすり抜けようとする。
「待て」
途端、腕を取られてたたらを踏んだ。振り返って見た彼は、相変わらず冷たい美貌のまま、表情を崩すこともなくこちらを見ていた。
「何か」
「お前、見ない顔だな」
「……離していただけますか」
だからなんだ。そう返しそうになったのをぐっと堪える。エマの冷めた目を受けた彼の視線が、ためらうように揺らいだ。
小さな謝罪とともに手を離したオーガストは、迷うような口ぶりで口を開く。
「その、……お前、エマ・バトーだろう。医学専攻特待生の」
「でしたら、何か」
「ここ最近、アデールと関わりがあると聞いた」
「ええ、仲良くさせて頂いてますが。それがあなたとなにか関係あるんですか」
要領を得ない言葉に苛立ちを覚えつつも先を促せば、オーガストは周囲に人気がないことを確認してから、小さくひそめた声で続けた。
「私はオーガスト・ベラミー。アデールは私の婚約者だ。……彼女の動向が最近妙だ、お前、心当たりはないか」
ありすぎるが、答えるわけにはいかないので、無言で首をかしげてすっとぼける。
眉尻を下げた彼はさらに声をひそめた。
「私はこれまで彼女と向き合ってこなかった。彼女の気持ちが知りたい。私の地位や権力に惹かれているのか、私自身を見るつもりがあるのか。お前、協力しろ」
お願いですらない命令口調に対して湧き上がった苛立ちは、普段の彼からは想像もできない、その困り果てたような情けない顔でチャラにしてやろうと、エマは心中で舌を出した。
そうして、彼女はにっこりと笑ってみせる。
「ええ、私でよければ。お手伝い、いたしましょう」
その過程で手に入る情報は洗いざらいアデールに報告し、彼女の側の作戦に利用すると決めながら、エマは快諾した。
その返答に、なんとなくほっとしたような雰囲気の無表情へと表情を変化させたオーガストへ、次に会う日時と場所を指定した。了承した彼が去っていくのを眺めて、エマは呟いた。
「アデールさんに怒られちゃうかな?」
オーガストには近づかない、という約束を破ってしまったことを謝って、そのうえで情報収集のために彼の相談に乗れるよう、彼女を説得しなければいけない。
エマは頬を掻いて、自室のある一般学生寮から、特別学生寮へと行き先を変更した。