第二十六話「目覚め」
キシローバ村領主、イノヴェルチ・ヴァムピィールヅィージャ・ジャラカカス。
在りし日の彼を知っている者なら、誰もが震え上がる名だ。
ヴァンパイア王国は誕生以来成長を続け、三代目の王の時代に最も隆盛を誇った。
領地は拡大し、民は増え、経済も活発化した。
――それと同時に、多くの敵も生み出した。外は言うに及ばず、内にも。
国を安全に運営するためには、それらを排除する者が必須だった。
イノヴェルチは三代目の側近として、主に内側に潜む敵を粛清する役割を担っていた。
人種、地位を問わず王に仇なす輩をことごとく消してきた。
危険と隣り合わせの汚れ仕事だったが、嫌ではなかった。
それは国のためという大義名分ではなく、単純に三代目の人柄に惹かれていたから、という個人的な理由が大きかった。
「人間種族は良き隣人である」というのが三代目の口癖だった。
だから「人間種族は家畜である」と言って憚らない四代目王とは反りが合わず、三代目が逝去した後、彼の居場所は失われた。
三代目と同じ人間親和派は重要なポストから軒並み降ろされ、僻地へと左遷されたのだ。
彼の場合はキシローバ村という聞いたことのない村の領主になることだった。
職業分類で言えば『暗殺者』である彼に領地経営の知識などもちろん無い。
果たして領主など勤まるのだろうか。
幾多の不安を抱えながら、彼はキシローバ村へ着任した。
キシローバ村は、一言で言えば最悪な状況にあった。
寒さのせいで農作物も育たない、周囲は険しい山々、満足な道具も無い状態で、猟師が時折狩って来る野生動物でなんとか飢えを凌いでいる有様だ。
当然、税も支払いが滞っていたし、口減らしと金欲しさから王国では禁止されている奴隷売買も秘密裏に行っていた。
どう考えても、自分の手に負える状況ではない。
それでも彼は三代目の言葉を思い出しながら、必死で村のために尽力した。
猟師にちゃんとした狩りの道具を買い与え、寒さに強い農作物を植えさせ、子供を売ることを改めて禁じた。
空いた時間を見つけては領主経営の本を読み漁り、知識を蓄えた。
――その結果が、今日の村に繋がる。
今では村人が飢えることも、子供が理不尽に売られることも無くなった。
財政状態から見れば村は相変わらず赤字だが、それでも当時とは比べ物にならない。
古くから居る村人は彼のことを『救世主』と呼び、誰もが慕った。
一部の子供達には少し怖がられているが……まあ、それは仕方ないと諦めている。
この村は良い村になった。
だからという訳ではないが、いつの間にか彼はこの村が好きになっていた。
それ故に、村に危機が訪れれば自分が率先して守りに出る。
それが彼の信念であり、そして、弱点でもあった。
◆ ◆ ◆
「ぐ……がっ」
イノヴェルチは血反吐を吐きながら倒れ伏していた。
酷い有様だった。今の彼を一言で表すなら、“虫の息”だ。
赤い双眸は釘のようなもので潰され、腹に大きな穴が開いている。四肢には黒い杭が刺さり、まるで標本の虫のように彼を地面に縫い止めていた。
いずれの傷口からも、赤い血がじわじわと滲み出ていた。
「『死神』と呼ばれたあなたも、さすがに耄碌しましたね。正直、拍子抜けしました」
アヅェは肩を落としながら言う。
イノヴェルチの作った数々の伝説を知っている彼は『確実に勝てるように』と周到に準備したが、そのほとんどが出番なく終わってしまったからだ。
人気の無い場所に誘い出し、背後から一撃。
アヅェは『強いヤツと戦いたい!』などと言うバトルジャンキーでは無いが、肩透かしを食らったような気分は否めなかった。
「継承権を持つ者の意図的な殺害は……禁じられている……は、ず」
「ええ。王国の監視の範囲内では、ね。地方ではこのような“継承者狩り”は当然のように行われています」
ヴァンパイア王国は巨大だ。それゆえ、監視の目は百%行き届かない。
首都から離れれば離れるほど、監視の穴は増えていく。
仮にこの村が滅びたことを誰かが疑問に思ったとしても、調査に乗り出すのは半年以上も先の話になるだろう。
それだけの時間が経てば、多少粗があろうと証拠は消えてなくなってしまう。
「愚かな……。こんな、ことを……しても、何の意味も、ない」
「負け惜しみを。では、我々は忙しいので、これにて失礼します」
アヅェはきびすを返した。
トドメを刺すつもりは無い。
既にイノヴェルチの魅了術は封じてあるし、出血量から見ても助かる見込みは皆無だ。
何より――簡単に殺すのは面白くない。
「ま……待て。村を……どうするつもりだ」
「あの田舎村はこれから舞台になります」
「舞台……だと?」
「そう。村人同士の殺し合いの舞台にね。恋人や親兄弟に殺される瞬間の、人間の絶望する表情は何度見ても飽きません」
醜悪な笑みで顔を歪ませるアヅェ。目が見えなくなったイノヴェルチでもその様を容易に想像できるほど、その声は悪意に満ちていた。
「貴様ら……人間種族を何だと思っている!!」
「家畜」
断末魔のようなイノヴェルチの叫びに、アヅェは即答した。
「良き隣人などでは決してありません。人間は我々に管理されなければ満足に生きることも出来ない哀れな家畜です。牛や豚と同類の、ね」
「ま……待て!」
「あなたはそこで、築き上げてきた大切な村が無残に引き裂かれる様を見ていると良い――ああ、失礼。もう見えないのでしたね」
アヅェの嘲笑う声が、徐々に遠ざかっていく。
「なんとか……しなけれ……ば」
遠ざかる意識の中、彼は必死で村を救う方法を模索した。
例えこの命が尽きても、村を守らなければならない。
一人でも多くの村人を救わなければならない。
それが、領主としての自分が果たすべき使命だ。
◆ ◆ ◆
<エミリア視点>
「じゃあ、領主様は――」
「もうとっくに殺されているだろうな」
「そん、な……」
「残念に思う必要はない。どうせ皆、死ぬんだ――もちろんお前もな」
「ひっ」
クドラクの赤い瞳が三日月の形に細められる。
私やウィリアムに向ける視線はもはや同種を見るものではなくなっていた。
そう――例えるなら、取るに足らない虫でも見ているかのような。
「では――死ぬ前にイワンの居場所を教えてもらおうとするか」
クドラクはしゃがみ込み、私の手を掴んで小指を、ぎゅ、と握り込んだ。
「答えなければ――指を一本ずつ、ひねる」
指先は神経の密集した部位として有名だ。
ほんの少しの傷でも激痛を走らせる。
二の腕をカッターで切ったのと、指先を紙の端でほんの少し切ったのとでは、明らかに後者の方が痛いのだ。
指をひねる、とは、実に効率的な拷問方法だと思った。
指を折るよりも力が要らず、爪を剥がすよりも簡単で、何の道具も必要としない。最小限の労力で最大限の苦痛を与えることができる。
ヒトを痛めつけるのに慣れていなければ思いつかない発想だ。
背筋に氷柱を入れたような――なんて表現が前世の小説にはあったが、まさに今、そんな状態だ。
私はぶるぶると首を振った。
「いやだ、やめて……」
自分のものとは思えないくらい、その声は弱々しかった。
こんな絶望と恐怖のどん底の中でいつもの声を出せるほど、私は強くない。
ただひたすら、『指をひねられる』という恐怖から逃れようと懇願するだけだ。
「質問に答えろ。イワンはどこだ」
「……っ」
すぐそこの屋敷の中です――喉元まで出掛かった言葉を理性を振り絞って押さえ込む。
指はひねられたくない。だけど、イワンの居場所を言えばイワンが殺されてしまう。
イワンか、私か。
どちらも選ぶことができず、沈黙を守るしかなかった。
そうなれば自然とイワンを選ぶことになると知っていながら、黙るしかできなかった。
心の奥底では、都合よくクドラクを信じたいという気持ちが芽生えていた。
なにせ私達はそれなりの期間、先生と生徒として過ごした仲だ。情が湧いて「やっぱりやめとくか」と、いつもの軽い口調で言ってくれるかもしれない。
そんな、ありもしない現実を幻視していた。
――そうしないと、心が砕けてしまう。
「お前はもう少し賢い奴だと思っていたが――見込み違いか」
クドラクは宣言どおり、情け容赦なく私の指を百八十度ほどねじった。
メキ、と、ブチュ、の中間くらいの音が鳴って、小指の、爪が付いている側が掌の方に来た。
「ぎゃああああああああ!!!」
神経に雷が落ちてきたような極大の痛みが私に襲い掛かる。
涙は溢れ、手足が勝手に暴れ出し、口から叫びと涎が溢れた。そのはずみで、口の中で転がっていた何かが外に出た。
歯だった。形状から察するに、生え変わり寸前で根元がグラグラしていた犬歯だろう。
永久歯じゃなくて良かった、と場違いに安堵する。
もし水分を多く摂取していたら間違いなく失禁していただろう。
気絶しなかったことが奇跡と言えるほどだ。
「あが……ひぃ」
「ははっ。強気なお前でもそんな顔をするんだな」
痛みにもがく私を見て、クドラクは満足そうに微笑む。
「面白いな。もう二、三本いっとくか」
「えっ……やだ、やだやだやだ!!やめてお願――」
私の願いも空しく、立て続けに指をひねられる。
小指に続いて薬指、中指、人差し指までも爪が逆方向に来てしまった。
鬱血し、指先が黒とも赤とも紫とも取れるようなおぞましい色に変色している。
もはや右手の中で残っているのは親指のみとなった。
この世界の平均的な医療レベルでは、もはや回復は望めないだろう。
もう、字を書くことも、包丁を握ることもできない……。
私の、私の右手がぁ……。
「はっはっは!見ろよウィリアム!傑作だぞこいつの顔!これだから人間を壊すのはやめられねえんだ!!」
「……クドラク様。イワンは宜しいのですか」
――気付けばウィリアムは、私の背中から膝を退けていた。
これだけの苦痛を与えれば、もう逃げられる心配は無いと思ったのだろうか。
確かに、逃げるどころか、立ち上がることすらも無理だ。
ひねられた指のせいで、腕を動かすどころか、そよ風が吹いただけでも激痛が私を苛んでくる。
「どうせこの村からは誰も逃げられない。それよりもこいつ、なかなかにイイ反応をする。壊し甲斐がありそうだ」
最初から、質問などどうでも良かったんだろう。
ただ、私の反応を見て楽しみたかっただけ――クドラクのおぞましい笑顔が、そう雄弁に告げていた。
彼と目線が交わった瞬間――魔物に殺されそうになった時、いや、それ以上の“死”を間近に感じた。
このままだと、死ぬ。間違いなく死ぬ。苦痛に苛まれて死ぬ。あっけなく死ぬ。裏切られて死ぬ。悩みを抱えながら死ぬ。何もできないまま死ぬ。母に会えぬまま死ぬ。
死ぬ――。
「嫌だ」
……それは誰のつぶやきだったんだろう。
私ではないことは確かだ。
なのに、私の声に聞こえた。
しかもクドラクたちの耳には届いていないようだ。
幻聴?
「さて。右手が終わったら次は左手だな」
クドラクが楽しそうに告げる。
……その言葉に、何の感慨も湧かない。
さっきの声を境に、胸の中を苛んでいた数々の出来事――クドラクの裏切り、イワンの殺害計画、魅了術による村人の暴走、イワンと友情を結んだきっかけ――が、嘘のように静まった。
指の痛みも治まったような気すらした。
頭の中にかかっていたもやが晴れ、思考がクリアになる。
難しい魔法の使用だって、今なら難なくできるだろう。
どうしてこんな状態になったのかは分からない。
ヒトは極限状態に陥ると自分が生き残るためにその他の感情を全て排除する、と異世界の記憶にはあったが、今がまさにその状態なのだろうか。
さっきの声は、自分自身のリミッターが外れた合図か何かなのだろうか。
それすらも、今はどうでもいい。
簡潔に状況を把握する。
私の周囲にはクドラクとウィリアムが居る。
クドラクは私の正面に立ち、ウィリアムはそのすぐ後ろに控えている。
それ以外には誰も居ない。周辺にも何も無い。
助けは来ないし、クドラクからは逃げられない。
私がこの窮地を脱する方法はただ一つ。
クドラクを殺すしかない。
すんなりと、その結論に達した。




