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ぐらぐらとしためまいにも似たそれを、私は三半規管がうまく機能しなかったのか。と判断して、後に間違いであることに気付くのだ。
小鳥のさえずり、というには数の多すぎる燕共の鳴き声をアラーム代わりに、私はゆっくりと目を開けた。
隣にまだ眠る愛し合った人を起こさないように身支度をして、いつも通りに部屋を出る。
早朝4時半。起き始める人はそういなくて、毎日ランニングをしているような健康志向の人、後はお年寄りの人ぐらいなのだろう。とにかく人は少なくまばらで
呼吸がとても新鮮なものに感じるひんやりとした空気。
今日は、快晴だ。
「芹香ちゃん」
玄関を開けてすぐにその声は飛んできて、私は姿勢を正す。
反射的なもので、肩が跳ねる、とも言い換えて構わないのだけれどそんなことはどうでもいいと言わんばかりに現実、つまりその声の主は私の目の前に現れた。
「こんな時間になるまでどこに行っていたのかしら?」
鋭い声。用意していた言葉をゆっくりと吐き出す。表情は憂鬱なことでも思い浮かべておけばいいだろう。
例えば目の前の事態とか。
「友達の家です」
「お母さんたちは知らなかったそうだけど、何も言わないで出かけたの?」
「すれ違ったみたいで。書置きを置いていきました。すみません」
素直に頭を下げて、まだ寝巻のままの姉を見た。困ったように眉尻を下げていることが分かって、厳しい声は意識して出したものなのだろうと容易に想像がつく。
「あのね、芹香ちゃん。書置きじゃなくて直接一言言って欲しいの。ご両親に言いにくいなら、私でもいいから。ね?」
「ごめんなさい」
困らせてしまってごめんなさい。
重ねるような本当のその声は、きっと目の前の人には届かなくて、でも謝罪は謝罪だから。そして誠意もこもっていたのは間違いがなくて。
目の前の人はまだ眠いだろうことを表情に出さずに、本当に安心したように、いいのよって笑った。
世の中には、家庭を持っている人と持っていない人がいてそれらがくっついたり離れたりすることもある。
くっついた一つである我が家は、とても仲睦まじい両親ができたりすることも、ありえない事態じゃなかったわけで。
離婚とか再婚とか言葉として知っていたものが実際自分の家庭に影響してくるなんてこと、実は全く考えていなかった私はとても驚いた記憶がある。
小さい頃には既に父親は交通事故で亡くなっていて、母親だけがいるって家庭が普通だったのに、突然別の誰かが父親ですって名乗り出てくるわけだからそりゃあびっくりする。顔合わせを何度かしていく内に治まりのつかない感情を飲み下していった。ゆっくりゆっくり嚥下する感情の中でもドロドロしたものはたとえ空想の例えであってもお世辞にも飲めたものではなかったけれど、やるしかなかった。
そしてお互いに連れ子がいるときたものだから私の精神的負荷はそりゃあもうメーター振り切ったわけ。会う直前に本当に吐いてしまったくらいには緊張で追いつめられていた。父親になる人の連れ子は当時二十歳の新社会人のお姉さん。
さっき玄関で会った人当たりの良い雰囲気を持つ女性である。当時中学3年生の思春期真っ盛りの私は、そんな家庭事情があったのである。
会う直前に吐くようなメンタルを持っている私は自慢じゃないがそれだけでは済まなかった。
慣れるまで、一緒に住んでからもしばらく吐いていたくらいである。吐いた吐いたと繰り返しているが、語彙が無いのでこれしか言いようがないのだけれど。
何とか誤魔化してはいたものの、一緒に住んでいればいずれは露呈してしまうもので両親は一時期別居を考えたほどだ。
これには反対した。
別に父親が嫌いな訳でも、不満があるわけでもないのだ。
予想以上に私の体に適応能力が無いだけで、心ではきちんと祝福している。私の体調なんかで家庭崩壊だなんてことになれば私は入院をするほどに弱ってしまうだろうことは半ば確信していた。
当時思い切って他人同然の仲でしかない姉さんに頭を下げて相談して、なるべく体調のいいところを両親に見せ、高校の受験模試の成績を問題なく上昇させ、自分は上向きであることをアピールし、阻止した。
簡単に言うが、姉さんの協力あっての賜物だ。
体調の悪い時の誤魔化し、成績の管理共に姉さんの協力あってこそだった。
結果を見れば私は2つは上のランクの高校に進んでいるし、両親は最近では家を空けるほどに私のことは心配していない。
元々母子家庭の時から放任だったわけで、この一連の流れで信じてもらうのは困難だろうがこれまで体調不良などとは無縁の体だったのだ、私は。
大丈夫。元に戻った。結果を出した後にそう伝えれば二人の時間だって欲しかった両親は晴れて外に飛び出したってわけ。
めでたし、めでたし。
朝食を作って姉さんの席に盛り付けてから自室に戻って制服に着替える。
登校時刻までは自主勉強だ。2つも上の学校に行ってからは予習をしないと、成績が維持できないのである。
やがて長針が一周半する頃に私はリビングで朝食をとって家を出る。ちなみに姉さんはこの時すでに会社に向かっている。
授業を黙々と受け、休み時間は友人と談笑し、放課後になれば空いた時間は勉強だ。
携帯を片手に今日はどこに泊まるかと扉に手を掛けた私は玄関をくぐる前に家の様子をきちんと見るべきだったことを失念していたのだ。
目の前に現れた、というより待ち受けていた姉さんに気付かずにぶつかりかけたのだから笑えない。
「芹香ちゃん、ちょっとお話ししましょう?」
そう言われれば、私は断るすべを持ってはいなかった。というか思考がフリーズして言われるがままだっただけなのだけれど。
「最近ずっと、夜は家にいないんじゃないかしら?」
「あー、はい」
「どうしてなのか私には言えない?」
床の木目を数えている場合でも無いだろうと意を決して顔を上げれば、真っ直ぐ射抜くような視線と遅れてその瞳の色が困惑を浮かべていることに気付く。
「そんなこと、無いです、けど……」
何と言おう、何と言おう、何と言おう。
心の中は同じ言葉をリピートしていて、その瞳から目を離せない。
真っ直ぐに人を見れるっていうのはすごいことだと、小学校の頃に国語の授業で習った。全くもってその通りだと当時の先生に同意する。
私はこんなに真っ直ぐにこの人の目を見ることはできないから。
ずるい、とも思うし、やっぱりすごい、とも思う。
愛想笑いでもなく、睨みつけるわけでもなく、ただそこにあって、その存在を認識させられることが。
ただ真っ直ぐに相手の心に耳を傾けるような視線を向けられるのはきっと、そう多くの人ができることではないだろう。
吸い寄せられるように見つめる先の瞳の奥、映る自分にそう言って瞳の中の私は同意していた。頷いたかのような幻まで見えたくらいには強い反応だった。
ああ、本当に仕様がない。もっと明確に表すならば
「ああ、止めます姉さん、私、やっぱり言えません」
真っ直ぐなその瞳を私は射抜くように強く見据えた。驚いた表情と落ち込むような眉尻が見えて私はテーブル越し、身を乗り出して
彼女にキスをした。
ぱっちりと目が大きく見開かれて、瞳と、瞳に映る私が巨大に視界に入り込む。
「今日、友達の家に泊まります」
「え?」
「……ちゃんと言いましたから。行ってきます」
吐息が感じられる距離を離して私は立ち上がると早々に玄関へと向かい、外に出る。
本当に仕様がない。もっと明確に表すならば、私には忍耐強さとか、常識とか、そう云ったものが欠落しているから仕様が無いのだ。
「もしもし、芹香だけど。今日、そっち泊まってってもいい?」
携帯の呼び出しにすぐ応じる友人を呼びだして、決まり口上を口にしている私は今しがたの私と比べればなんと機械的なことだろうか。
その日も友人と年相応に騒ぎ、親に窘められ、学校へ向かう前に家に寄った時、姉さんは玄関にいなかった。
仕事に行ったのだろうか。と靴箱を確認するとどうやら家にいるようで、寝ているのかもしれない。
昨日玄関にいてくれたことで、恐らく私は常人がたったそれだけと鼻で一笑するような出来事一つで舞い上がってしまったのだ。
やってしまった。覆水盆に返らず、取り返しがつかない、やり直しがきかない、もう戻れない、もひとつオマケするならば後の祭りってやつである。
両親の帰宅まで1ヶ月といったところだったと記憶しているが、果たして、私はそれまでに精神的社会的に無事だろうか。我がことながらお先が真っ暗なことである。
それでもルーチンワークというのはこなせるもので朝食を作って姉さんの席に盛り付けてから自室に戻って制服に着替える。
登校時刻までは自主勉強して私は友人と談笑していた。
どうしたらいいのか分からない。が、もう決着はついたのだろう。朝の玄関に誰もいなかったことが答えだ。
「芹香、顔色悪いけど大丈夫?」
良き学校には良き人間というものがいるのか、素早く気にかけてくれる友人がいて私は曖昧に笑って、放課後のチャイムを待っていた。
「今日は家でゆっくりした方がいいよ。お大事にね」
私に今日一番のクリティカルヒットをくれた同じ学び舎の友人たち。悪意無き善意が私の心を大きく蝕んでくれた。自業自得とも言うし、八つ当たり、とも言うのだろう。
しばらく商店街をぶらぶらと散策して、やはりやることが無いと踵を返して、大きく息を吐きだしながら玄関の扉を開けて
「おかえりなさい、芹香ちゃん」
「ただいま、姉さん」
思わず叫びだしたくなったのは、自業自得とも以下同文。
機械的に私は返事をして、その表情を見ることなく階段を駆け上がるための準備の一環として靴を脱ぎ、自分のスリッパをはいて。
「待ちなさい」
「はい」
ですよねー。と半ば投げやりに考えている自分は本当に、我ながら吐き気のする人間だ。
「昨日は言ってくれてありがとう」
ぽかんとした。
「友達の家に泊まるっていってくれたことよ。偉いわ」
「はあ、ありがとうございます」
頭の中の疑問符をひとまず追い出して、何とか耳を傾ける。
「今日は外に泊まるの?」
「いえ、今日は家にいます」
まるで英語の教科書の和訳のような会話だなと見当違いのことを考えて、そうと笑った姉さんの表情を私の眼と心はキャッチして、理性を総動員することに全力をかける。
姉さんは昨日の事を持ち出していないのだから蒸し返すようなことはしていけないしてはいけないしてはいけ
「私は買い物に行ってくるわ。今日はロールキャベツよ」
私の横を抜けて行った姉さん。扉の閉まる音。
そして私はへなへなと文字通り腰が抜けたようになってしまって靴箱に背中を預けていた。
行ってきますのチューをくれた理由を、誰か、どうか