第9話:思い出のテーブルクロス
「鈴木さん」
およ? と思い振り返った。
店長だ。潰れてしまったマクロビオティック・レストランの。
「このお店が潰れても、私は諦めないからね!また再挑戦するから」
まだ若い店長が、白い拳で涙を拭った。
「はい」
「そしたら、また鈴木さんにも声かけるから。ごめんね、結果出せなくて。私、好きだった店があってさ、ここを、そのお店みたいな場所にしたかったの。また挑戦するから、絶対」
「店長」
きっちり結い上げた髪の毛も、短くした爪も、店長を見習って始めた事だ。
この人に習った事はたくさんある。
でも、何も返せていないまま、自分は異世界に来てしまったのだ。
これ、夢かな……夢だよね。
そう思いながら、目の前のスッキリとした店長の立ち姿に声を掛けた。
「四方田店長……あの、また声かけて下さい、何でもやりますから。頑張りましょう!」
「ありがとう」
店長がニッコリ笑って、ずり落ちて来た袖をまくり直す。
「そうだね、頑張らなきゃ。私の夢はいいレストランを作る事だから。それにウチは母子家庭だしさ、休んでる暇ないわよ、私。借金が無かっただけ御の字だわ」
机を拭き始める店長と一緒に、自分も一生懸命椅子を拭く。
ただのアルバイトだったが、自分も店長のお店が好きだった。
あのお店は、お客さんの健康を考えるいい店だったから、絶対また返り咲いて欲しい。
…………。
「ナナちゃーん!お風呂ドーゾ!今日はお風呂の日だよー!」
「フェェ」
目を擦って体を起こした。
初出勤の疲れで、うたた寝してしまったようだ。
もう結構遅い時間なのだが。
「お風呂ドーゾ!」
背中に油紙に包んだ何かを背負ったデイジーが、入り口にちんまりと立っていた。
夜なのだが、お風呂の声掛けをするよう、エレナさんに言われて来たのだろう。
「あ、アリガト……デイジーちゃん」
よれよれしながら立ち上がった拍子にデイジーが言った。
「あれ、ここ、床びしょびしょだぁ!」
「うん、雨が入ってくるんだよね」
「ナナちゃん、ここじゃ眠れないよねえ」
デイジーが短い腕を組み、じーっと床を見る。
「ナナちゃんが寝られないよー、おかーさん、知らないんだよ、雨漏り」
「ううん、隅っこで寝てるからヘーキだよ、雨も明日くらいには止むんじゃないの」
ハーマンご夫妻の小振りなお宅には、収穫後の農作物が所狭しと詰んであって、泊めてもらう場所が無いのだ。
ホントに、これ以上迷惑はかけられない。
「さ、行こう、お風呂」
革袋に入れた着替えを胸に抱え、デイジーに言った。
「デイジー、お風呂キラーイ」
「なんで?」
「頭に水掛けるでしょ!あれ嫌いなの、目に水が入るでしょ!」
「そっか、あはは」
デイジーに手を繋がれ、ちょっと変わったキノコみたいに柄の太い傘を差して、ちっちゃな離れのお風呂に案内された。
「一緒に入りなさいって言われたよ。おかーさん忙しいんだって、刺繍してるから」
「そうか、じゃあ一緒に入ろうか」
「ハーイ」
デイジーが脱衣所の棚に、ポイッと背中の包みを投げた。寝巻が入っているようだ。
木のガタガタする扉を開け、大きなたるのような浴槽と、すのこの敷いてあるお風呂に入った。
ちっちゃな蝋燭に、デイジーがマッチのような道具で上手に灯をともす。
本当に何でも出来るのだ、こんな小さい頃から。
「これで体をこするの」
手渡されたのは、ごわごわした布のようなものだった。
「こうやってブクブクして、あわあわで洗って」
どうやら、これは木の皮のようだ。石けんみたいな成分を含んでいるのだろうか。
「ふーん、分かった」
「デイジーの背中も洗って下さい!」
くるりと背を向けて、デイジーが言った。
手が短くて届かないらしい。
「はいはい」
ツルッツル、スベッスベのデイジーの体をモコモコの泡で洗ってあげた。
ついでに水を被っただけの長い髪も、丹念に洗い直す。
絹糸みたいで本当に綺麗な金髪だ。将来は美人さんになるだろう、と思う。
「デイジーちゃん、お湯に入りなよ」
「ウン」
頷くデイジーを持ち上げて浴槽に入れた。
彼女はまだ、一人でお風呂に入れるにはちょっと小さい気がする。浴槽と同じくらいの身長だし、髪を洗う事も微妙に嫌がるし。
自分も木の皮のようなものを泡立てて、おそるおそる肌に乗せてみた。
何故これが泡立つのだろうか。
界面活性成分が含まれた樹液なのかもしれない。
「おお、スベスベになるね」
「なりますヨ!スベスベの木の皮だもん」
湯船からちょこんと顔を出して、デイジーが言った。
「そうなんだー……」
髪も体もその泡で丹念に洗い、デイジーを入らせた浴槽に一緒に浸かる。
「いい湯だな~」
呟くと、デイジーも得意げに真似をする。
「いい湯だナ!」
雨の音が、パタパタとお風呂小屋の屋根を叩き続けていた。
***
「店長!お皿の片付け終わりましたっ!」
ギシギシ言う膝を伸ばしながら、厨房で明日の仕込みをしている店長に声を掛けた。
昨夜は結局、ハーマン夫妻のお家の廊下で寝かせてもらったのだ。あれはあれで体が凝ったが、雨漏りよりマシだ。
雨が止まない。そのせいか、気温がずいぶん下がったように思う。
この世界に来て4日目。
もしかしたら、雨期なのだろうか。
「ありがとう。もう一度卓用の布を確認してくれる?」
「はい」
フロアに出て、机の真ん中に引いてあるクロスの汚れを確認した。
一つ一つに、綺麗な小花の刺繍がしてある。
古い物なのだろう。汚れを繰り返し洗ったあとはあるものの、糊も効いていて清潔だ。
「綺麗です、全部。この布可愛いですね、市場で買ったんですか?」
「いや、全部妻が刺繍したんだ」
奥様か。
まあ、居るだろう、こんなに格好よくて仕事ができるのだから。
「へえ、奥様がおいでなんですね。お店には遊びにいらっしゃらないんですか?」
何も考えずにそう言った瞬間、跳び上りたくなるような返事が返って来た。
「妻はもう居ないよ。それは妻の思い出の品だから、大事に使っているんだ。何といえばいいんだろうね、彼女がお客さんを呼んでくれる気がするから」
「!」
とっさに口を押さえ、そんな態度をとってはダメだ、と思い直して慌てて手を下ろす。
「あ、あ、あの」
「ちょっとおいで、ナナさん」
話を変えるように、穏やかな声で店長が言った。
「は、はい」
「今から面白いのを作るから、見ていて」
店長が指差す鍋を覗き込む。
「油がこのくらい泡立ったら、揚げ物を入れるんだ。これが溶いた麦の粉に、元気鳥の卵を合えたもの。これを塩蒸しした虹魚に絡めて油で揚げる」
「…………」
何とも言えない軽やかな音がして、しゅわしゅわと衣を纏ったお魚が浮いて来た。
ゆっくりと衣が虹色になってゆく。
「ウチの名物、虹魚の虹色揚げだ。この麦は特殊で、高熱を加えると虹色になるんだよ。ペレの村の名産品だ。ハーマンさんの所でも作っているはずだよ」
何とも不思議な、小麦色なのに虹色に輝く魚の唐揚げが完成した。
「綺麗……」
「よし、浮いてから、このくらいの時間で上げて。あらかじめ魚を蒸すのが重要だ。虹魚は歯ごたえが最高なんだけど、味が全くないから塩で蒸す。この青い塩でね。魚に色はつかないんだ」
アツい口調でそう言って、店長が白いお皿に虹色の唐揚げを置いた。
フォークを添えて、自分に差し出してくれる。
「どうぞ、今日の賄い。他のおかずはそこにおいてあるから食べて」
「ありがとうございます!」
料理の技を見せてくれた事、賄いを貰った事に頭を下げ、厨房の隅の、小さいテーブルで食べ始めた。
「おいしいです!」
蒸した野菜や、冷えても柔らかいパン、それからサクサクフワフワの虹色の魚の唐揚げを夢中で頬張る。
たぶん、メニューには無い物だ。有り合わせのもので店長が作って下さったのだろう。
「はい、これも。明日まで持たないから食べちゃって」
「はひ!」
デザートだ。きらきらしたゼリーのような、淡い桃色の氷のようなお菓子。
「豆の煮汁を冷やすとそうなるんだよ」
「豆ですか」
「ああ、空色莢豆だ。見たことあるかい? 空みたいな色の大きな莢。あの豆の煮汁は何故か桃色で、甘い。それを冷やして果汁を加えたのが、僕の特製『別腹』だよ」
「見た事あります、ハーマンさんの家で、筋取りしました」
このゼリー状のもの、とっても甘くて美味しい。
頷きながら夢中で食べる。
店長は流し台に寄りかかり、笑顔で自分の様子を見守っていた。
「ナナさん、明日も忙しいからよろしくね」
「ハイ!モグ……いつもの時間に来ます!」
そのとき、閉めたはずのお店のドアがキイ、と開いた。
「おや」
店長が滑るように厨房を横切り、フロアを覗いて驚いた声を上げる。
「おや、アレン君」
「こんばんは。姉に言われて、ナナさんを迎えにきました。彼女に貸している小屋の雨漏りが酷いので、僕の住んでいる実家の二階を使ってもらうようにと」
自分もゼリーを飲み込み、慌てて顔を出した。
何の話だろう……
「アレンさん、どうしたの?」
「すまなかったな、雨漏りの酷い小屋で寝かせてしまって。早く姉か義兄に言ってくれたら良かったのに。今日から、僕の住んでいる家の二階で寝て貰えればと思って」
「そうなんですか」
おお、屋根つきのまともな家で寝られる!
そう思ったが、ガッツポーズの手が途中で止まった。
ちょっと、まずくないだろうか。
このイケメン様のお宅に置いていただくなんて。
自分が動揺しすぎなのか。この世界では、別に普通の事なのだろうか?