母になる……のか?(ディアン視点)
「ふぎゃあ、ふぎゃあー! いー! いー!」
育児書によれば、3か月の子は親の見分けがつかず、また後追いも始まっていないため、抱いていれば泣き止むのが普通だとされていた。
だがルリィはリュシエンヌに置いてゆかれ、泣き叫び続けている。
毎日時間があればお湯で洗ってやり、真夜中に泣かれれば授乳し、襁褓もこまめに替えている僕をのけ反って嫌がり、喋れもしない月齢でありながら何かを訴えて絶叫しているのだ。
「ディアン、絶対に余計なことを話しかけてはダメ、子供の頭に刷り込まれるからダメです、ちゃんと綺麗な言葉だけで話しかけなさい」
母が鬼の形相で、僕に釘を刺した。他人を辟易させて止まないこの口の悪さを、最愛の孫娘には伝染させまいと必死なのだろう……。
「わかりました。あのね、ルリィ、お母さんは……」
――男を咥えこみに行ったんだよ、昔から夜遊びが大好きで、たったの半年でもう遊び足りなくなったんだろう!
うーん、さすがにこれはまずいだろう。
――お母さんはお勉強に行ったんだよ、さぞかし男の誑し込み方をたくさん覚えて帰って来るだろうね!新しくなったお母さんに乞うご期待だ。
余計どぎついか。
――お母さんはフラフラ出て行った。気まぐれだから帰って来るか分からないよ!
なぜか僕の精神が地味にすり減り始めたので、娘のちっちゃな体を抱き直して、まっかになったおでこを優しく撫でた。
「さ、お父さんとねんねしようね」
「にゃああああ! にゃあああああ!」
「ルーちゃん、お父さんとねんねしようね」
「にゃあああああー! う―! いぅぅーーー!」
ルリィが、身も世もなく泣き叫ぶ。眠いのに母が居なくて、幼い心は絶望に染まっているのだろう。あんな女でも、ルリィにとっては愛する母なのだ。
だんだん可哀想でたまらなくなって来た。
つい先刻、『ねえ、赤ちゃんをちょっと見ててね~すぐ帰って来るから~』などと言い放ち、ご機嫌極まりない表情で出て行ったバカ女を引っぱたきたい。
その時。
「ただいまぁ。帰りましたぁ」
僕の脳内予定より半日ほど早く、ふらっと出て行った美貌の妻が部屋に戻って来た。不在にしていた時間は、一時間弱だろうか。
「あらら、ルーちゃん、どうしたのそんなに泣いて。いらっしゃーい」
リュシエンヌが甘いやさしい声で言い、僕の腕から絶叫する娘を抱き取った。あんなに叫び続けていた娘が、ぴたりと泣き止んでリュシエンヌにしがみつく。
「嫌だ、汗だくじゃないの。こんなに泣かせないでよ。省吾ったらあやすの下手くそなんだから」
不満げにそう言い放ち、まるまるとしたルリィを器用に肩口に抱き上げ、リュシエンヌが慣れた手つきで背中をさすりはじめた。
……こうしているとまともな母親に見えるから困る。
「あの、リュシエンヌさん、どこにいらしていたの」
母がこめかみを痙攣させながら尋ねた。
リュシエンヌが、『お義母様の怒りなんて、私には全く痛くもかゆくもありません』という笑顔で答える。
「逢引。娘を産んだら何をするなりご自由に、と仰ってくださったのはお義母様でしょう?」
凍り付いた僕と母に、リュシエンヌがつまらなそうに言い捨てた。
「でもねぇ、やめました。なんだかバカらしくて。ルリィも省吾にずっと預けるのは心配だったし」
うとうとし始めたルリィの額の髪を何度もかき上げ、リュシエンヌが優しい声で言った。
「ああ、ルリィ、お留守番させてごめんね、いい子ね……」
「あの」
「大丈夫よルーちゃん、今夜のはただの気まぐれ。もう夜のお出掛けはしません。母様はルリィとずっと一緒にいるわよ、たった二人の家族だものね」
「あの、僕は?」
一応僕も家族ではないのか?
便宜上は夫なのだが。
「何? 省吾」
「いや……」
何なんだこの女。
本当に何なんだ、この女……!
「ねぇ、省吾ぉ、お風呂にお湯入れてきて」
「…………」
「お風呂入りたい。この子もすごい汗かいてるから、洗ってあげたいの」
「わかった」
母のきついまなざしに背を向け、風呂を立てるために僕は部屋を出た。
娘の教育に悪いので悪態もつけない!
ああ、腹が立つ。若干ホッとしている自分にも腹が立ち、僕は舌打ちしながら風呂の支度に着手した。
ふと気づく。あの家出、もしかして自分の存在感を母と僕に知らしめるための狂言だったのでは、と……。
今更、そんな事しなくてもいいのに……。




