第75話:嬉しいな、ありがとう。
「それでね、お父さんにお菓子作り方、ならった」
「そっかぁ」
「あとね、デイジーちゃんと畑で草むしりしたよ」
「楽しかった?」
「うん、ママ、えっと、ちがった、お母さんはね、買い物!」
ケンタ君が照れたように、ダンテさんの腰にぴょんと抱き付いた。
ダンテさんが笑って頭を撫で、目の前にケーキとお茶を置いてくれる。
「ナナさん、もっと遊びに来てくれればいいのに」
「えへへ……」
ダンテさんの言葉にあいまいに笑って、「仕事が忙しいから」と答えた。
ケンタ君が、外で遊んでくると言って飛び出してゆく。
「今は、お茶の営業をしてないんですか?」
がらんとしたお店を見回して尋ねると、ダンテさんが苦笑した。
「おふくろが孫とはしゃぎすぎて、ぎっくり腰で寝込んでるんだ。ま、リコもこっちの料理の勘を取り戻しつつあるし、手伝ってくれるって言うから再開するよ」
その時、お店の入り口の鈴が軽やかな音を立てて鳴った。
入って来た人を見かけて、息をのむ。
「ディアン」
ダンテさんが一瞬動きを止め、すぐに明るい声で言った。
「この前の竜殺し以来だね、どうしたの」
「リコが戻って来たと聞いて、届け物を」
そういって、ディアンさんが唇を閉ざし、自分の隣の椅子にどさりと腰かける。
何だろう。
何が始まるんだろう……。
内心びくびくしつつ、『兄』の言葉を待つ。
この人、妊婦の嫁、なのかどうかわからないけど、リュシエンヌさんを放って家にも帰らず、やっと旦那さんと再会できたリコさんの邪魔をしに来たのだろうか。
だとしたらクソすぎる。『妹』としてはシバき倒す以外の選択肢はないのだが……。
「これ」
「えっ?」
ディアンさんが小脇に抱えていたものを、机の上に投げ出す。
「四方田鳥子と、四方田健太・アドルセンの永住許可証と戸籍の謄本です。カイワタリとしてではなく、エルドラの住民として正規の居住権を付与しますので、どうぞ。あとはご自分たちで手続きをお願いします」
それだけ言って、ディアン管理官が立ち上がる。
「…………」
思わず顔を見合わせたダンテさんと自分の頭の上に、ディアン管理官の声が降って来た。
「10年遅れで申し訳ないけどお祝いだよ。結婚おめでとう、ダンテ。じゃあね。奥様によろしく」
それだけ言って、ディアン管理官は、さっさとお店から出て行ってしまった。
ダンテさんが、放り出された紙包みを取り上げ、しみじみとつぶやく。
「……わざわざ、政府に働きかけてくれたんだな。相当難儀したはずだけど。これあれば、彼女はこの国の人間として、何の問題もなく暮らしていける」
「ダンテさん……」
「偽造書類じゃないといいけどね。あいつは昔から腹黒いから怖いなぁ」
そういって照れ隠しのように肩を竦め、ダンテさんもさっと立ち上がった。
「そうだ、アレン君に挨拶して来たら。先月南の地方で起きた土砂崩れの救援作業を終えて、騎士団の寮に戻ってきてるらしいから」
「寮ですか……」
「今、地図を描いてあげる。待ってて」
「ハイ、ありがとうございます」
「ナナさんもこっちに嫁に来ればいいのに」
何やら不穏なことを呟きつつ、店長がカウンターに紙を置いて、何やら熱心に書きはじめた。
「すぐ描き終るからね」
「ハーイ」
返事をして、澄み切ったなごみ茶をすすった。
あのダメ兄貴がここまで頑張れる子だとは思わなかったので、正直……多大なマイナスが多少のマイナス位に回復したかもしれない。
本当に、あの人にはもっと真人間になってもらいたい。
もう38歳なんだし、アルビオナ様を泣かせるドラ息子から卒業していただきたいものだ。
◇◇◇◇
アレンは、寝台にどさりと腰を下ろすと、届いていた手紙の封を切った。
竜の件が片付くと同時に、『友』は、彼の故郷へと帰って行ったという。
そしてようやく寮に戻ったアレンは、ひと月遅れで彼からの知らせを受け取ったという訳だ。
中には、エドワードには書き慣れなかったであろう、エルドラのつたない文字でこうつづられていた。
「アレン、さようなら、帰ります。俺と、君は、ずっと友達。また来ます。
ナナちゃんとお幸せに エドワード」
あっさりした文章だった。
せめてゆっくり話したかったな、と思ったが、また来ると言っているので、機会はあるだろう。
そう思い直して手紙を畳みかけ、慌ててもう一度開き直す。
――ナナちゃんとお幸せに。
その一文を見て、アレンの心臓が跳ね上がった。だが慌てて心を落ち着かせる。
エドワードはエルドラの文字を綴ることに習熟していなかった。それゆえに書き誤ったのかもしれないと思い直す。
賢いエドワードが、文法をあやふやなままで手紙を送ってくるというのも、考えにくい事ではあったが……。
「何か誤解があるな」
落ち着かない気分でそう呟き、アレンは手紙をたたんだままウロウロと部屋の中を歩き回る。
下級の医技武官に与えられるのは、独房のように狭い部屋だ。あっという間に壁に突き当たり、落ち着かずに行ったり来たりを繰り返した。
「りゅ、竜のところに行ったのだって……手当をしようと、そう、手当をしようと思ったからだ」
エドワードの手当を終えるや否や、ひたすら空を見上げたまま「ナナは大丈夫か、ナナは大丈夫なのか」と譫言のように言い続けた事を、しっかりと彼には見られていたのだろう。
その事に気づいて顔を覆う。
「ナナさんはもう、ニホンに帰った……会うことはたぶん、無いだろう」
考えないようにしていたことを口にし、痛んだ胸を確かめた瞬間、思い切り扉を叩かれて飛び上がる。
「ウォルズさーん! 面会!」
寮母の女性だ。慌てて脱ぎ捨てた薄い上着を羽織り直し、扉を開ける。
「はい、どなたでしょうか」
「カイワタリのナナって名乗る女性の方。女の子はお部屋に連れ込んじゃダメよ」
わりと凄い事をあっけらかんと言い、寮母がドスドスと廊下を去ってゆく。
しばし、呆然と立ち尽くし、アレンは慌てて鏡を覗き込んだ。うっすらと無精ひげが生え、髪は伸び放題だし、顔もはねた泥で汚れたまま……だが整えるには時間が足りな過ぎる。
もしかしたら、会話をする最後の機会かもしれない。そう考えながらアレンは廊下を走り、一階の面会室を兼ねた広間に駆け下りた。
「あ、アレンさん!」
いつもと同じように、お団子にまとめた髪の毛。それから見た事のないような不思議な服を着たナナが、笑顔でアレンに向けて手を振っていた。
「ナナ……さん……」
「こんにちは」
愛らしい丸い顔に笑顔を浮かべたまま、ナナがいつも通りの明るい声で言う。
「ああ、アレンさん痩せましたねえ、いいなぁ」
「えっ」
予想外の事を言われ、アレンは反射的に胸のあたりを撫でまわした。
痩せたかもしれないが、あまり気にしていなかった、というのが正直なところだった。
「あ、ああ、うん、痩せたかも……」
「なんかいい匂いがする」
「えっ」
再び予想外の事を言われ、アレンはあたりを見回した。建物の外から、屋台の串焼き肉の香りが漂ってきている。
「あっ、ああ、そうだね、外に割と有名な串焼きの屋台が」
「食べたいです」
ナナがそういって、くるりとアレンに背を向ける。彼も慌てて、飛び出して行くナナの後を追った。
◇◇◇◇
「あっ美味しい、これ美味しいです」
「そう」
アレンが美しい顔に非の打ち所のない笑みを浮かべ、一番小さいサイズの肉を口にする。
今日は食欲がないんだろうか……。
自分は「きりりネギ挟みの特盛串」なんぞを頼んで、牛が草をはむような勢いで貪り食っているのに……。
「ナナさん」
アレンが肉を食べる手を止め、静かな声で言った。
「今日は何しに来たの」
「あ、はい」
肉を食うのに夢中で忘れていた。
この焦げっぽい、ケバブ独特の香ばしさ、たまらなく好きだ。完全な菜食主義になれないのは、自分はやっぱり肉が大好きだからなのだなぁ、としみじみ思う。
だが、肉のおいしさの余韻から頭を切り離した。
騎士様に復帰したアレンは多忙なのだろう。
さっさとエルドラでお世話になったお礼を言って、家に帰ろう。明日もバイトだし。
「アレンさんにお礼を言おうと思って。えっと、今までお世話になりました。これから日本で暮らそうと思いますので、あっそうだ、今日はろくなもん持って来てないんですけど、これ……」
未開封ののど飴を差し出す。来る途中にスーパーで買ったものだ。
天然果汁入りで、柑橘系のいろんな味がアソートされていて美味しい。
こっちには、こんな風にきれいにパッキングされているお菓子は売っていないし、珍しがられて喜ばれるかも知れないと思ったのだが、あんまり受けてない……ように見える。アレンの表情はさえなかった。
「飴なんですけど」
「うん」
アレンが残りの肉を串から引き抜き、口に放り込んだ。
自分もつられて残りの肉に食いつく。
肉をむしゃむしゃしながら、アレンの端正な顔をそっと見上げた。
飴、要らないんだろうか。持って帰ってもいいんだろうか。
350円もする奴なんだけど……。
「僕」
「はい」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
やっぱり飴だろうか。
差し出してみたら、首を振られた。
「僕は君を愛してるんだ。いつも励ましてくれて明るくて、君は懐炉の火みたいな人だと思う」
「…………」
唐突過ぎる告白にとてつもない衝撃を受け、ぽとりとネギが一つ残っていた焼き肉の串を落としてしまう。
何の話……だ……。
「あ、ご、ごめん、ちがう、好きなんだ、君の事が。側からいなくなって辛かった」
「…………」
「いやいや、違う、違うんだ、ごめん! えっと、その、寂しいんだ、もう来ないとか言われるのが。寂しい、そう、寂しい」
茹でたタコのようになったアレンさんが顔を覆った。
「さ、寂しいだけだよ、ごめんね、驚かせて」
「あ、は、はい……」
ひゅるひゅると、冬の風が自分の頬を撫でた。
もう夕方だ、日が陰ってきたから寒い。
ああ、エルドラの春の味覚も堪能してみたいなぁ、そう思いながらほつれてきた髪の毛をピンに押し戻した。
「…………」
それにしても、何の話だ……唐突過ぎて心がついていかない。
アレンは真っ赤な顔で、口元を覆ったまま何も言ってくれない。
いや、ものすごい事を言い放ったまま、黙りこくっている。
「アレンさん、あの」
「…………」
「こ、告白の時に言う言葉としては、じ、時系列が逆ですよね」
「そ、そうだね」
「しかも唐突過ぎて、あの、言葉が出ません」
「う、うん、でも本音なんだよ」
お互いの顔を見られないまま、肩を並べてぼーっとたたずむ。
屋台の肉がやたらと売れている……。
「あの」
ありがとう、そう言おうとした瞬間に、ボロッと涙が出てしまった。
泣き出した自分を見て、アレンが慌てたように言う。
「な、ナナさんごめん忘れてくれ、今のは忘れてくれ、でもエルドラには遊びに来てほしい、あの、あ、ああ、ごめん、僕がおかしなことを言ったから、仕事で疲れてて口が滑ったんだ、ごめん」
「び、ビックリした」
ダッフルコートの袖口で涙をぬぐい、心昂ぶるままに言葉を並べ立てた。
「び、ビックリしたんです、あの、わたし……の事、好きだとか言ってくれる人、居るんだなと思って」
「ナナさん……」
「ありがとう」
そういって、感極まって顔を覆った。
父、母、元カレ、みんなが背を向けて去って行ったこと、実はすごくつらかったんだなと改めて思う。
でも、その事で傷ついて、全部を投げ出さなくってよかったな、と思った。
生きていれば、好きになってくれる人はいる……。
そして自分が好きになれる人もまた、新しく現れるんだな、と思った。
「でも、明日バイトだから帰ります……」
「ナナさん……バイトって何?」
「え、えっと、短期のお仕事の事。また、遊びに来ます、あの、日本の美味しいもの持って」
涙をぬぐい、アレンに微笑みかけた。こわばっていた彼の表情も、また、緩む。
「今月は王都での当番なんだ、しばらくこっちに居るから、あの……」
「…………」
「…………」
「…………」
「ま、また来てくれたら、僕は嬉しい」
「は、はい」
なんとなく片手を握り合い、しばらく見つめ合って、手を離した。
「アレンさん、ありがとう、嬉しかった!」
「良かった」
「本当にうれしかったです……ありがとう」
――これからどうなるのかとかは分からないし、こっちで『女神様』みたいな力を振るって生きる気はサラサラない。
けれど、もうちょっとの間エルドラに来て、この嬉しい気持ちを確かめるのも……悪くないかもしれない。
◇◇◇◇
「鈴木サーン」
「お・か・え・り・な・さ・い」
ときめく胸を抱きしめてアパートに帰ったら、別に呼んでもいない二匹の客がちんまりと座布団の上に鎮座ましましておられた。
なぜかカナリアみたいに愛らしい姿になった、ビタミンとミネラルだ。
何をしに来たのか。通路を作った後に尻尾を巻いて逃げ出して以降、姿を見せなかったのに。
さらに言うなら別に探してもいなかったのに。
「鍋の具になりにきたの?」
そう尋ねると、ちっちゃな鳥になった二匹が全く同じ動作でプルプルと首を振った。
「ちがいまーす」
「ちがいまーす」
「ふん」
内心舌打ちする。
愛らしい小鳥の姿になったのは、多分心理的罪悪感を呼び起こさせ、苛められにくくするためだろう。
案の定わしづかみにして投げてやろう、という気が萎えてしまった。
「あのー、ウフフ」
「鈴木サーン、ウフフ」
「ビタミンと話し合ったんですけどぉー」
「鈴木さんに、いつでもどこでも、自由自在にエルドラに行ける力を差し上げます」
「はぁ」
今、その申し出を受けるのは正直ありがたい。だけど、唐突に何なんだ……。
「そのかわり、居候に置いていただきに参りましたぁ~」
「鈴木さんの魔力と料理おいしいです!」
「エルドラの、日本の、そのほかの世界で、鈴木さんの料理が一番おいしいです!」
「ですので、今日からお世話になりますぅ!」
つぶらな瞳で、くりくりと首をかしげる鳥たちの前にゆっくりと屈みこんだ。
「お前ら、本気で図々しいな、いやぁ、今ちょっと私、感動したわ」
「ありがとうございますぅぅ」
「麻婆豆腐食べたいです!」
あまりの我儘さに吹き出した。
なんという、てめえ勝手な態度。敵ながら天晴だ。
だが、図に乗ったら鳥鍋にしてやる。
「ちゃんと家賃払いなさいよ! なんかこう、金目のものを異世界から拾って来なさい」
「ハーイ」
「出来る範囲で」
「はいはい、期待しないで待ってる」
頭に乗っかって、あれが食いたい、これが食いたいとわめき散らす、見た目だけ可愛い鳥に適当に相槌を打ちながら立ち上がった。
やっぱり、自分とエルドラの縁は、切っても切れないのかもしれない。
しみじみと、そう思った。
◇◇◇◇
若い二人が、草の上に布を敷いて座り、白い塊を頬張っていた。
エルドラの春は明るい緑にきらめき、空はどこまでも柔らかな天鵞絨のようだ。
真っ白な雲がふわふわと流れ、時折彼らの上に淡い影を落とす。
「おにぎりかぁ」
「うん、そう、おにぎりって言うの」
「美味しいな」
「でしょう」
「……君が作ったから美味しいんだろうな」
若い男の言葉に、この国では珍しい漆黒の髪をした女が微笑んだ。
男が身体を傾け、女に寄りかかる。
そしてそのまま長いこと離れなかった。
その様子を物陰から見守っていたダンテは、同じく身を潜めている妻のリコに言う。
「いい感じだな、ようやく一歩前進か」
「うーん、アレン君奥手よねぇ……あんなイケメンなのに」
「イケメンって何?」
「貴方みたいな人の事。あ、まずい、見つかる」
リコが慌てて口を押えて、物陰に隠れ直した。
「おい、リコ、あの二人の結婚式の料理は俺たちの店で作ろうな」
「んー、ちょっと気が早いけどねぇ、そうなるといいわね」
食堂の夫婦は微笑みを交わし合い、忍び足でその場を後にした。
ご愛読ありがとうございました。