第71話:金の鳥、銀の鳥
「うう、来るよ、来るよ……」
透明になった拳をぎゅっと握って、もう片腕で蒸し器を抱き、すさまじい速さでこちらに近づいてくる竜を睨み付けた。
空を泳いでいるような、優雅にすら見える竜の動き。あんなの、魔法が使えるようになったばかりの自分にどうにかできるとは思えない。
タイゾー君がひたすらに手にした剣で切り付けているが、竜が身をくねらせ、腕を振るうたびに弾き飛ばされ、どんどん彼の速度は落ちてゆく。
早く助けなければ……。自分はアレンも、タイゾー君も助ける。そしてあの竜も助ける。全部助けて、店長たちをこのエルドラに連れてくるのだ。
本当は怖くて速攻逃げたいのだが。
――怖い……昨日まで平凡なフリーターだったのに、何でこんな化け物と戦う羽目になっているのだろう。
「菜菜ちゃん!」
竜を追い越したタイゾー君が、すさまじい速さで自分に覆いかぶさる。
「何でここに居るの、逃げて。あいつはカイワタリの魔力を食いたいんだ。前に戦った竜と全然違う、歯が立たないんだよ、逃げてくれ」
自分を抱きしめたタイゾー君は、ゼエゼエとすごい息をしていた。疲れ切っているのだろう、彼の心臓は心配になるくらいドクドクと波打っている。
「ビタミンっ、ご飯だよっ、さあお食べ、食べたらしばらくは、苦しくなくなるよ、さあ」
やさしい声で頭の上の鳥が言った。
巨大な竜が、ゆるゆると空を滑って、とうとう自分の鼻先までたどり着いた。
ああ、なんていう大きさなんだろう、まるで山手線の目の前に飛び出してしまったようだ……。
「なんだ、こいつ……」
タイゾー君が、手負いの獣のように顔を上げた。端正な顔をゆがめ、自分の頭の上を睨み付けている。
「……もしかして、お前も竜か」
タイゾー君が形の良い目に、剣呑な光を浮かべて呟く。
「話しかけないでくださーい。私はカイワタリの神鳥。出がらし勇者になんか興味はありません」
頭を鷲掴みにしている鳥がそう答えるのが聞こえた。
気位ばっかり高くて大食いで恩知らずで、ああもう、本当にこいつ、ムカつく……!
タイゾー君がくるりと振り返り、竜から自分をかばうように腕を広げる。
「まて、竜、菜菜ちゃんには何もするなよ、菜菜ちゃんには触るな……」
竜が巨大な顔をぬっと近づけてきた。
タイゾー君の広い肩越しにそっと、光る銀の霧で出来ているような竜の姿を覗き見る。
「!」
あった……!やっぱり、あった。
おでこにブッスリと、大きな見事な羽が刺さって、ひらひらと揺れているではないか。あれが砕けてしまった銀の鳥の最後の一部なのだろう。
あれさえ手に入れば……。
「さ、ビタミン、お腹が空いて苦しかっただろう?」
妙に優しい声で、鳥が龍に向かって話しかける。
「イテテテテ! イテッ! 引っ張るなっ!」
鳥が自分の頭をわしづかみにしたまま、ふわふわと浮かび上がった。これはやばい、冗談抜きで竜のお食事にされてしまう流れだ。
「……ッ! てめぇ……やめろッ!」
タイゾー君が目にも止まらぬ勢いで鳥に切りかかるのと、黄金の雷が雲から落ちてきて、タイゾー君の身体を叩き落としたのは同時だった。
「きゃあああああ! タイゾー君!」
とっさに手を差し出したが、届かなかった。
いつの間にか漂いだした牛乳のような霧に飲まれ、タイゾー君の姿があっという間に見えなくなる。
「タイゾー君!」
「だ、大丈夫……俺、生きてる……菜菜ちゃん逃げて!」
弱弱しい声が頭の中に届いた。さすがは『最強の竜殺し』だ。あんな一撃を受けても、なんとか躱したらしい。でも、逃げてって言われても、多分無理だ……。
「ふん、本当に絞りかすだなぁ。魔力を使い果たしてる。あれを食べてもおいしくないよ、ビタミン」
自分の頭をわしづかみした恩知らずの鳥鍋の材料が、ふわふわと自分を竜の口元へと運んでいく。
「クワ……セロ……」
初めて、竜が喋った。
なんという声だろう。怖い声、と言いたいところだが、泣きつかれて枯れ果てた声のように聞こる。
違和感を感じ、思わず鳥の脚を掴む指を緩めた。
竜が1メートルくらい離れたところで、ぴたりと止まる。輝く体が眩しく、目が痛い。ああ、このまま食われるのだろうかと拳を握りしめた瞬間、竜が再びあたりの空気を震わせて、悲しげにつぶやいた。
「オナカスイタ、オナカスイター。クルシイ、クルシイ……」
「ビタミン! さ、カイワタリの魔力をお腹いっぱい……」
――こらあっ!勝手なこと言うなよ!
そう言おうとした瞬間、竜が苦し気に喉を鳴らし、呻き続ける声がふと止んだ。
大きな目でぎょろりと自分と頭の鳥を見つめ、温もりを感じさせる不思議な声で呟く。
「アア、ニイサン、ニイサンハ、無事……」
巨大な銀色の目から、涙のような光のしずくがポタポタと落ちる。
「……ア、アア、ニイサンハ……無事……綺麗ナ兄サン、スグ分かっタ……」
「ビ、ビタミン……思い出したの? 兄さんの事、思い出したの?!」
竜の言葉と同時に、頭に突き刺さった鳥の脚がちょっとゆるんだ。
――いまだ、今しかない!
「食べな! お腹空いてるなら食べな!」
頭に乗っかった鳥を、全力で振り払う。
手にした蒸し器の中から芋団子を取り出し、目の前に見えている竜の口の端に突っ込む。
竜が、大きな目をカッと見開いた。
正直、ガブッとやられそうで、とても怖かった。
だが勇気を奮い起こし、また次の団子を取り出して口の端から突っ込む。うまく食べてくれるといいのだが、どうも唇のような部分に張り付いてしまって、体の中に落ちてゆかない気がする。
「……さぁ、食べなさい」
竜に言い聞かせ、団子を差し出した。
そうだ、無理やり口に押し込んだって、誰も食べやしない。
こんな食べさせ方をしたら、さすがに竜でも可哀想だよな、と気づいた。
「お腹空いてるんでしょう」
鳥を頭に乗せたまま、そーっと手を伸ばして竜の鼻づらを撫でる。透明になってしまった掌が虹色の光を振りまき、撫でた形の軌跡を描く。虹色の光がふわふわと広がって、竜の巨大な顔をゆっくりと彩った。
「ほら、食べなさい」
虹色の光が強まるにつれ、だんだん竜を怖いと思う気持ちが薄れてゆく。
野良犬に話しかけるような気持ちになり、やさしい声が出た。
「あーんしてご覧、口に入れてあげるから」
竜が、銀と虹色の炎に包まれた巨大な顔を背け、あんぐりと巨大な口を開けた。
透明な手で、お団子を掴んで口にぽいと入れてやる。ただの芋団子だったはずのそれが、まるで夜空に輝く一等星のように強い光を放ち、放物線を描いて喉の奥にのみ込まれてゆく。
竜が、グルグルとのどを鳴らした。
美味しいのかもしれない。残りの団子も、竜の口の中に放り込んであげた。
「美味しい?」
尋ねる言葉は、自然に出てきた。ご飯を作って、友達や彼氏に食べさせた時のような、落ち着いた気分で聞くことが出来た。
「オイしい……デス……」
竜が、澄み切った声でそう答えた。今までのドロドロした迫力ある声とは違う。
「お団子オイシイデス……アマイでス」
「そう、良い子ね」
もう一度鼻づらを撫で、そのままさっと手を伸ばして、突き刺さった羽を抜いた。羽を握りしめた透明な手がびりびりと痛み、手の中で無数の稲妻のような光が飛び散った。
……さっきまで、自分を弟に食わせようとしていた鳥は、何も言ってこない。もう、邪魔をしようともしなかった。
「よいしょ」
びりびりと痛む手で、優美にしんなりと垂れる銀の尾羽を撫でる。竜は身じろぎもせず、じっと自分がすることを見つめていた。
「うーん……伸びる」
絹のような手触りの尾羽を撫でるごとに、ふさふさと長さが増してゆく。気が付けば輝く銀の毛が伸び切って、はるかな地面まで届かんばかりの滝のようになだれ落ちていた。
「鈴木サーン……」
すぐ隣にぷかぷかと浮いていた金の鳥が、震える声で呟いた。
「鈴木サーン……それ……ビタミンの羽……」
「ちょっと待ってな。弟は治してあげる。そのあとはあんたを鳥鍋にして食うから」
「ごめんなさいいいいい!」
「うるせーよ鳥鍋」
「ゆるしてくださいいいいい!」
「ラー油鍋にしようかな」
言いながら、たっぷりと垂れ下がった銀色の羽を、透明の手でこね合わせた。パン生地やうどん生地を練っているときのように、コネコネと丸まって、一つのフクフクした銀の塊に変わる。
「入りなさい」
そういって、もっちりした銀の塊を捧げ持ち、目をつぶった。
ここに、体をなくして『竜』の姿になったこの子を吸い込む。そして体をこね直してあげればいいのだ。
「さ、貴方の体だよ、ビタミン、おいで」
自分が言うのと同時に、巨大な竜が静かな奔流となって、銀のもっちりした生地の中に吸い込まれ始めた。
すさまじい量の光の渦が、銀の生地にドンドン吸い込まれ、重みを増してゆく。
しゅる、と最後のしっぽが吸い込まれ、銀の生地がぴかーっと輝きを放った。
「よっし……!」
満足し、深々と頷いて生地を引っ張る。羽を、長い首を、優雅な尻尾を、そして界と界を渡る神の鳥の巨大な羽を思い描きながら、『本当の鳥の姿』をひねり出す。
「ほうら、できた!」
両手で捧げ持ったボッテリした鳥型の塊が、ふわっと重さを失った。
星のような小さな光の粒が舞い踊り、自分の指がひねりだした不格好な翼が、ひと羽ばたきで神鳥の壮麗な翼へと変化する。
手の上から飛び立った純銀の光の鳥が、嬉しげな鳴き声を上げて空をくるくると旋回した。
「兄さん、兄さん!」
澄み切った高い声で歌うように叫び、銀の鳥が雲晴れはじめた空を舞う。
「ミネラル兄さん、ビタミンです、兄さん!」
「ビタミン!」
鳥鍋もまた、嬉しげな甲高い声で一声鳴いて、銀色の同じ姿をした弟に寄り添って、くるくると風を切って飛び回った。
その夢のように美しい姿を見ていたら、がっくりと力が抜けた。ほっとしすぎたのか、力を使い果たしたのか……。
空になった鍋が空にプカプカ浮いているのを回収し、水底に沈んでいくようにヨロヨロ地面へ向かって落ちてゆく。
いつの間にか牛乳のようにねっとりした霧は晴れ、ずっと足の下のほうに、自分を見上げて手を振っている人々の姿が見えた。




