第62話:傷
「エドワード様、ペレの避難民の受け入れ先は確保できそうです」
男の声で我に返り、エドワードは顔を上げた。
「ディアン……」
「竜、上がってくるのが早いですね、前の竜よりも強い気がします」
「ああ」
彼の言葉に、エドワードはうなずいた。
ディアンは全く信用のおけぬ男だ。エドワードにもディアンの性格の全てはつかみ切れていない。
一つ言えることは、ディアンはカイワタリを嫌悪している、けれど、頼らずにはいられない立場だということだ。
エドワードに時折向ける重たく冷たいまなざし、それから、かつての聖女だった『リコ』の強制送還を行った事、同じように菜菜を強引に日本に戻したことからも、ディアンのカイワタリに対する底知れぬ悪意は垣間見ることが出来る。だが、国が危機に瀕している今、彼が見せる真剣な態度もまた偽物ではないのだ。
「皆の避難が終わったら」
乱れる息を必死で誤魔化し、エドワードはしびれる腕を地面に押し付け直す。
「竜を放すぞ、あと一日持てばいい、急いでくれ」
「……わかりました」
ディアンが一瞬言葉を失い、うなずいて踵を返した。
「ペレのみなさん、家畜の避難は後回しにして下さい! 村民の避難を先にお願いします! 家畜は村のはずれに識別用の札を付けて寄せてください、竜を最大限近づけないよう騎士団が見張りをします!」
ディアンの指示は、的確だった。エドワードは呼吸を整え、再度竜を抑えることに集中する。彼の耳の中で、食わせろ、食わせろという不気味な竜の声がこだまし続けていた。
◇◇◇◇
「こんにちはー」
「菜菜ちゃんだ!」
店長の家の玄関から飛び出してきた小さい男の子――ケンタ君が腰に飛びつく。すっかりお菓子をくれるお姉ちゃんだと思われたらしい。
「あら、鈴木さんいらっしゃい」
店長が笑いながら、玄関に出てきた。
「こんにちは店長、お邪魔します。ケンちゃん、今日もお菓子持って来たよ」
そういうと、我慢できないというようにケンタ君が袋を覗き込む。
「こら! ケンタ! がっつかないで、もう……」
お菓子の袋を覗き込むチビっ子のケンタ君を引きはがし、店長が明るい声で言った。
「どーぞ、入って入って、もうすぐご飯できるから」
緩みかけたサラサラの髪を結び直し、店長が弾む足取りで台所へ消える。ケンタ君が自分の手を引いて「お菓子食べよ!」と言った。
万年お腹が空いているのかもしれない。自分もそうだったので親近感を感じる。
ちっちゃいケンタ君に手をひかれるままにちゃぶ台の前に腰かけ、作って来たお菓子や、買って来たお菓子を机に並べた。
あちらから持ってきた食材はかなり食べつくしてしまったので、今回はこっち風のお菓子がほとんどだ。
リンゴのパウンドケーキに、あっちのお茶で風味づけをしたマフィン。それから保冷剤で包んで生キャラメルまで持ってきてしまった。
ケンタ君は目をキラキラさせて、小さい頭を紙袋に突っ込んでいる。
「ねえ、菜菜ちゃんが作ったの」
「そうだよー」
「僕も作れる?」
「作れるよ。台所の台に手が届けば」
そう答えた瞬間、店長の茶々が入った。
「そうだよケンタ! ママのお手つだいしたら作れるようになるから!」
その返事を聞き、ケンタ君が困ったように腕を組んだ。
「ぼく、野菜嫌いなんだ……」
「嫌いなの?」
「うん、お菓子が好き」
ケンタ君が頷く。自分もチビのころはそんな感じだった。
男の子だし、お菓子とか肉が好きなんだろうな、と思う。
「ケンタ君、ママが作ったご飯も食べなきゃダメだよ」
「食べてるよ!」
ケンタ君が必死に言うので、思わず吹き出してしまった。
可愛いなぁと思う。美少年で将来が楽しみだ。店長似だし、まだチビなので女の子みたいだけど。
ジュージュー言う炒め物の音や、麺をゆでる良い香りがする。
ペレの村の、ダンテさんのお店を思い出した。
あのお店にもいつもいい匂いがみちていて、そう、この部屋の壁に飾られている刺繍と同じ柄のテーブルクロスが揃えてあった。
あそこにはまだ店長が帰れる場所がある。彼女を愛している旦那さんとお義母さんがいる。
……ダンテさんは、店長とこの子を取り戻したら、もう絶対放さないだろうな、と思えた。リコさんの事を話していた、あの優しく明るい目……。奥さんの存在を忘れるでも、永遠の別離を嘆くでもなく、ただ『リコさんが居たこと』をひたすらに忘れないという、ダンテさんの変わらぬ誠実な愛情……。
「ん? なあに、菜菜ちゃん」
「何でもないよ」
首を傾げたケンタ君に微笑み返す。来年小学生だと言っていたから、本当にまだ幼い子供なのだ。
店長にはこちらの暮らしがあるし、ご両親もいる。だから全部を捨てろとは到底言えない。
鳥の言う通り、あちらとこちらを行き来できるなら、ためらいなく店長を連れていけるのに。
ふと、自分の爪でつけた手の傷を見た。
『魔力の殻』とやらを破るのに、命がけの、まさに死ぬ思いをしろだなんて理不尽だ。これまで地べたを這って生きてきて、更に踏まれるなんて絶対にイヤ。そんな理不尽な要求は飲みたくない。そう思いながらつけた傷。
「えっ?!」
思わず、声を上げる。
傷が一瞬虹色にきらりと輝いたからだ。
目を疑って角度を変えたら、もう一度きらりと輝いた。
傷に何か入ったのだろうか?
そう思った瞬間、店長がお盆を持って台所から出てきた。
「お待たせ―、マクロビパスタ定食でーす」
慌てて笑顔を浮かべ、傷の事を頭から押しやって立ち上がる。
「手伝います、お茶入れますね、エルドラの」
その言葉に、店長が一瞬目を見開いて、すぐににっこりと笑ってくれた。
「……うん、何だろう、楽しみ!」