第61話:籠絡
「ねえ、王太子様、お約束はしていたけれど、今日は帰ってよろしい?」
婀娜っぽく机の上に腰かけ、体をひねる極上の女を前に、王太子は思わず頬を緩めた。
美しい。
品がないふるまいなのにそれが不快ではなく、むしろそそられる。
完璧な曲線を描く腰、すらりと伸びた長い脚、そして足に絡みつく真珠色のドレス。
体にまとわりつく髪は蜂蜜のような得も言われぬ色合いで、春の海のような瞳と相まって、彼女を花の精のように見せていた。
陶然となり、王太子は輝くドレスを引きはがしにかかる。
だが、伸ばしかけた手をやんわりと掴まれて、目を見張った。
「なんだい、リュシエンヌ、あまり私を焦らさないでくれ」
「やっぱりダメ」
「どうして」
「心が痛いから」
「心が痛い……?」
刺激を求め退屈を恐れる王太子の心に、強い好奇心がわいた。
――心が痛いとは、どういう意味だ。
「何の話だ、リュシエンヌ」
「何でもありません」
「言え」
「…………」
自分を見ようとしない春の海のような瞳を覗き込み、王太子は繰り返した。
「言え、リュシエンヌ」
机の上に座りなおしたリュシエンヌが、ゆっくりと足をそろえて、上目づかいで王太子の瞳を覗き込む。
「では、申し上げますわ。ペレの避難民の受け入れ先が決まらないと聞いて、最近ずっと眠れないのです。ペレの村は私の故郷なのに。困ってる人たちを助けてくれないなんて、皆、心が貧しすぎる」
リュシエンヌの美しい目に、悲しみと軽蔑の光を見出し、王太子は脊髄反射の様に答えた。
「私は違うぞ」
「嘘。どうせ貴方様も、何もしてくださらないわ……。もう結構です、家に戻って休みます」
「私は違う」
王太子は鸚鵡の様に繰り返し、リュシエンヌの絹のような胸の谷間に喉をひそかに鳴らす。
ようやく誘いに応じたと思ったら『気が乗らない』などと言われ、頭が焦げそうだった。
「皆、口ではそういうのだけど、ごめんなさい、やっぱり信用できなくて」
「皆? 他の男か」
「……何のお話? 気分が悪いことを仰らないで」
リュシエンヌが、そう呟いて嫌そうに顔をそむけた。
露骨な嫌悪をにじませたその態度に、王太子の心に強い焦りが生まれた。
今のは、失言だったのだろうか。もし機嫌を損ねてしまったら、この女は自分を見捨てるかもしれない。彼女に、もう尊敬されなくなるかもしれない……。
焦りを振り払い、彼は慌てて口を開いた。
「聞いてくれ、リュシエンヌ。私の領地であるエルドラ王太子領は、王都から歩いて数時間の湖畔地帯にある。あそこは貴族の別荘が並んでいて、今の時期はどこも空き家同然だ」
「…………」
リュシエンヌは何も言わない。だが、試されている、王太子はそう思った。
必死に答えをかき集め、彼女が席を蹴って出ていく前に言葉を続ける。
「貴族の別荘群を、臨時で供出させる。非常事態宣言を出せば可能だ。別荘の持ち主たちには、一両日中に貴重品の持ち出しを命じよう。それから宿も臨時で全て開放させる。費用はすべて、王太子である私が負担する」
リュシエンヌが、何も言わず立ち上がった。
王太子は、仰天する。――これではまだ不満だと彼女は言うのか。
「もちろん、我が国の穀倉地帯であるペレの村への補償は確実に行う。硝子鉱山に竜が出てきたときと同様の手当てと生活の保障、それから農業の確実な復興を王家が支援しよう」
扉の前で立ち止まったリュシエンヌが、振り返ってかすかに微笑んだ。
「さすがはエルドラの王太子殿下……他の有象無象とは格が違っていらっしゃるわ。今仰ったこと、本当にしてくださるのね?」
「えっ」
「違うの?」
「あ、いや」
慌てて王太子は首を振った。
『自分と寝たければ、今言ったことを全部実行しろ』と彼女は言っているのだ。
王太子はしばし悩んだが、うなずいた。
『他の男より、貴方のほうが素晴らしい』
リュシエンヌはそう言ったのだ。少なくとも王太子にはそう思えたし、女の言葉に力づけられたようにも感じられた。
「そうだな、私はその辺の貴族達とも、何も決められぬ愚かな父上とも違う。国の守護者として、当然行うべき決断は行う男だ。そして幸いなことに、下した決断を実行する力も持ち合わせている」
「まあ」
「この問題に対処すべき最適な人材は、私を置いて他に居ないだろう」
王太子はそう言い切り、己のその強い言葉に酔いしれる。
竜など勇者が適当に始末するだろう、農民は多少畑が荒れたところで、勝手にまた農作業を始めるだろう。そう思い込んでいたが、それは多少認識が甘かったようだ。
今こそまさに、為政者としての見事なふるまい、未来の王としての才覚を示す絶好の機会ではないか。
「ふふ……素敵」
リュシエンヌの微笑みの意味までは、彼には良く分からなかった。
ただ、彼女の機嫌は直ったのだろうと考え、その体を引き寄せて額に口づけをした。
「今からさっそく動く。見ているがいい、リュシエンヌ」
◇◇◇◇
「ディアン」
着替えを取りに帰った家で、母に呼び止められ、ディアンは振り返った。
「王太子様が熱病に浮かされ、余命いくばくもないかもしれないよ」
……王太子は先ほど、リュシエンヌを連れ込んでご機嫌だったと王宮の様子を伺わせていた部下に聞いた。
あの女の事など本当に心からどうでも良い上に、皇太子は絶対に元気だと断言できるのだが。
「何のお話でしょう」
問い返した息子に、母が珍しく優しげに見える笑顔を見せた。
「ご覧、わがシェーレン侯爵家の別荘を避難所に使うので一時的に供出しろ、だだそうだよ。信じられないことに、あの『王家』からの直々のお達しだ。王太子様の印が入っている」
その言葉にディアンは絶句し、母の笑顔をあんぐりと口を開けて見つめ返した。
――あの行動も判断も芋虫並に遅い王家が、疾風迅雷の速さで災害対応を行うなんて。
いったい何が起きたのか、ディアンにもまるで分らなかった。
「そ、そうですか。熱病……で、頭をやられたんでしょうか」
「だろうねぇ。ああ、これは面白い。本当に王太子様はどうしちまったんだろう。まあ阿呆のおつむの心配なんてどうでもいいか。知恵熱かもしれないしね。そうであってほしいよ。……ディアン、保安庁を動員して、避難民を湖畔地帯に誘導しなさい。ああ、おかしい。ケチなどこぞのお貴族様達は、今頃白目剥いて怒り狂ってるだろうね。ま、非常事態宣言が出た時の対応は、我ら貴族の負うべき当然の義務だ。うちは気分よくやらせてもらう。炊き出しもおまけしてあげよう」
母が少女のような軽やかな足取りで去ってゆく。
「か、かしこまりました、母上」
ディアンは顔を撫で、茫然とした己に喝を入れ直す。何が起きたのか良く分からなかったが、確かに風は彼の望むほうに吹き始めていた。