第60話:決意
――竜にお前の魔力を叩きつけろ、竜にお前の持つその無限に等しき強大な魔力を。
エドワードの脳裏に、何者かの声が響き渡る。その声が聞こえるたびにエドワードの身体の奥底から力が掻きだされる、強引に。
彼は目をつぶった。この世界に来てからずっと、いつもこの声が纏い付いていたような気がする。
土で汚れた己の両の手を睨み付ける。どんなに『力』で抑えても、竜は地の底からエドワードをひたと見つめ、ゆっくり、ゆっくりと地上に向けて這いあがって来る。
「……っ」
寒さで竜を押さえつける腕が緩みそうになり、エドワードは歯を食いしばって『魔力』を込め直した。
このエルドラに来て初めて彼が倒した竜よりも、この竜のほうがずっと力が強いように感じられる。
「お前みたいな、化け物、俺以外の誰に相手出来るんだよ」
彼は独りごちた。
エドワードはこの2年、日本に帰れぬことに倦み、友人アレンを失ったことに苦しみ、エルドラでの孤独に悩み続けた。
精神を削り続けた日々が、強かった彼の魔力を弱めている可能性は大いにある。竜が強くなったのではなく、エドワードが弱体化したのかもしれない。だが……。
「出てくるな」
雪混じりの風がエドワードの背中にたたきつける。エドワードの額から汗が一筋流れて、土の上にぽたりと落ちた。彼の形の良い唇が、声なき言葉を繰り返し刻む。
「お前の事、ぶっ潰して、日本に帰るからな……絶対、俺はもう何もない、日本に帰るという希望以外、何もないんだ」
◇◇◇◇
次から次へと丘陵地帯から降りてくる村人の中に、荷物を背負った身重の姉と、姪のデイジーの姿を見つけ、アレンは足を止めた。
「アレン!」
姉が、腹を撫でながら近づいてきた。彼の姪のデイジーも、足蛇のモココの綱を引いてやって来る。
「姉さん、大丈夫か」
「ええ、アレン、あなた本当に復帰したのね……何もこんなに危ないときに騎士団に戻らなくたって」
姉が言いかけた言葉に、アレンは首を振った。
「今だからだよ、姉さん」
そしてすぐに背後を振り返った。
「もう戻らなければ。姉さん、体は大丈夫?」
「ええ……」
「分かった。どんどん道が混むからなるべく急いで。体がきつかったら、ダンテさんの店で休憩させてもらうといい」
アレンはそういって姉と姪の頬に口づけをし、片手を上げて二人に背を向けた。
気を付けてね、そう告げる姉と姪の声が、彼の耳に届く。
これから辿ろうとしている長い緩やかな坂道をアレンは見上げた。今までと変わらない、懐かしいふるさとの光景だ。
騎士団の一大隊と進もうとしているこの道を、つい最近までナナと歩いていたことを思い出した。
――アレンさん、今日の賄い美味しかったですね。
そんな他愛ない言葉を、淡々とやり取りする毎日があったことを。
大事なものはなくなってから、その大きさが分かる。この故郷も同じだ。
竜に踏みにじられようとしている今、生まれ育ったこの場所が、どれほど大事だったのかがしみじみと分かる。
肩にかけた縄を背負い直し、アレンは砂利混じりの道を急いだ。
この先に居るのは、竜を抑えている勇者エドワード。
自分の、かつての『親友』。
怯み、止まりそうになる足を叱咤し、アレンは隊に遅れまいと歯を食いしばった。
「逃げるな」
懐に手を入れ、ナナが置いて行ったカードを取り出す。読み方のわからない文字の隣に、ダンテの流麗な文字が添えられている。
――アレンさん、格好悪いです。
その文字を見ると、何故かいつも彼の胸に暖かい何かが満ちる。
たとえこの世界から居なくなっても、ナナがその辺で腕組みをして佇み、自分を叱ってくれるように、彼には感じられた。
◇◇◇◇
「鈴木サーン、メール来てますピョロリロリィィィ」
太りすぎて自分で動く気ゼロの鳥が、座布団に鎮座したままそう叫んで教えてくれた。
「誰からよ」
「エー、店長って書いてあります」
「字、読めるの?」
ダメもとで聞いたのに、このデブはどれだけの隠し玉を持っているのだろう。
「あー、たまたま読めました、はいー」
鳥がそう答え、胸や羽の毛を繕い始める。
洗い物の手を止め、ちゃぶ台の前に腰かけてメールを開いた。
対面に座る鳥がでっかくなりすぎて、圧迫感が半端ないのだが。
「えっと」
四方田店長からのメールには、こう書いてあった。
『この前はパニくっちゃってごめんね。息子が鈴木さんにもらったお菓子を食べつくしました。来週ならいつでも暇だから遊びに来てよ。ご馳走しまーす!』
しばらく考え「いきなりですけど、あさって、月曜でもいいですかね。お菓子また作っていきます~」と返信した。
それから、異世界から持ち込む羽目になった色々な食材を引っ掻き回す。
あちらの酵母は冷蔵庫の中でふつふつと順調に培養されている。小麦粉で培養しているが、量も増えてぷくぷくしている。
これでパンを焼くのが楽しみなので、どうか全滅しないでほしい。
それから、同じくエルドラの竜果実を干したものでも、酵母づくりを試みている途中だ。酵母に食べさせているお砂糖はこっちのものだが、煮沸した瓶の中でふつふつと泡立ってとってもかわいい。
これで何かを作る日の事を考えるとワクワクが止まらない。
それから、お気に入りの瓶に移したお茶を確認した。
あかね茶、おねがい茶、さっぱり茶……。
優しいアレンさんは、彼と同じように優しい飲み口の、このあかね茶が好きだった。
料理にこだわりのあるダンテさんは、さっぱり茶をメイン料理を切り替える前に出していた。お茶を見ていると、エルドラのダンテさんのお店で働いた時間を思い出して、切ないけれど、やっぱり楽しい。
最後の瓶を開け、秘蔵の高級茶を覗き込む。これは心に利くお茶の中でも特に良いと言われる、『素直の葉』だ。エルドラの砂漠の近辺でしか取れない銀色の葉のお茶で、若い女の子がデートの時に飲んで、恋の告白をする勇気をもらうお茶なのだという。
「よし、お茶も入れてあげようっと」
店長の心に利くお茶、何か頑なで、何かに傷ついている店長の心に利くお茶を入れてあげたい。たとえ何も話してくれなくても、店長にとって良い事が起きてくれればいい、そういうお願いをしながら、お茶を入れよう、と思う。
「鈴木サーン、私にもお茶を下さいー」
ほとんど動くところを見かけなくなった黄金の鏡餅が言った。
「はいよ」
返事をして、どんぶりにティーパックを突っ込み、お湯を注いだ後に氷をドン、と入れてさましたものを置いてやる。顔がでかすぎてとうとうコップでは飲めなくなったのだ。
「美味しいです、鈴木さんの手料理はいつもアレがたっぷり」
「え? 何の話?」
そもそも手料理じゃないぞ、それ。そう思って鳥を睨み付けたが、またしらばっくれた様子で、どんぶりに顔を突っ込んでしまった。
それにしても、本当に何から何まで怪しい鳥だ。
こいつの呟く言葉、全部覚えておこう。絶対に重大な何かを隠している。
まだ残っている掌の傷に爪を当て、ぎゅっと手を握りしめた。
この痛みは、自分の心と同期している痛み。もうこれ以上、いろんな抗い難いものに踏みつぶされてたまるか、という決意の痛みだ。
これからは『したいように』する。
この鳥だって、自分の中に眠っている偉大な魔力とやらだって、何だって利用してみせる。




