第59話:腹をくくる。
「ああ、いい場所ですねえ」
花の時期になれば、ここから海を見下ろすなだらかな斜面には、桜の花が咲き乱れるのだろう。
うちの親父にはもったいない場所だ、そう思いながら正午の眩しい海に目を細める。
「うちの父、こんないい場所で生まれ育ったんですね」
「もう65年も前だけどねぇ、俺たちの通った小学校も中学校も、もうないよ。廃校になってね」
山崎のおじさんがそういって、父のお墓に、ペットボトルの水をかけ、ワンカップの日本酒を備えてくれた。
自分も持って来たお酒の封を切り、同じように備える。
生花は止めた。自分は車の運転ができないので、頻繁にここに来ることは出来ないから、掃除も出来ないし。
「このお墓って……」
「鈴木だけしか入ってないよ、親と同じ墓に入りたくないって、死ぬ前に自分で買ったんだ」
「そうなんですか……」
うなずいて手を合わせ、どうしようもなかった父に、心の中で話しかける。
……おばあちゃんは死ぬほど苦労したよ。私はおばあちゃんに死ぬほど苦労させて、グレて、高校を出て、専門に行って、調理師免許を取って、今何とかやってるよ。
でももういいよ。おばあちゃんにだけ謝ってね。
あの世でメタメタに怒られてると思うけど……。
「ねえ、ナナちゃん」
山崎のおじさんの奥さんが、やさしい笑顔で言った。父と違い、おじさんは自分で起こした飲み屋を成功させ、奥さんや子供にも不自由させていない。
奥さんも身綺麗で、いつも穏やかで親切な人だ。それが逆に申し訳ないのだが。
「これ、お父さんの残した日記ですって。入院してた時に書いてたらしいの」
おばさんから、紙袋を渡された。
「鈴木さんのお墓の前で渡そうと思って、ねえあなた。鈴木さん、ちゃんとナナちゃんに渡したからね」
おばさんがそう言って、まだ新しい手で墓石を撫でた。
渡された紙袋の中を覗き込む。
よれよれになったノートだった。
めくると、飲んだ薬の事、看護婦さんの顔の可愛さ、尻のでかさに関する考察などが延々書き連ねてある。
本当に死ぬ直前までクソだったのだと絶望した。
そのままぺらぺらとページを繰り、日記ともいえないような、書き殴った内容を追う。
そして、最後のページで手を止めた。
――自分の疑念に関することが、はっきりと記されていたからだ。
「私たちもね、探したけれどわからなかったの」
おばさんが申し訳なさそうに言う。
この人も、父のノートの最終行を読んだのだろう。
「いいえ、何となく心当たりあります、ありがとうございます」
「そう……?」
「大丈夫です、本当にいろいろすみません」
海からの風が、斜面を駆け上がり、頬を撫でた。ああ、もう冬が来るんだな、と思った。
リュックサックにあずかったノートを詰め込み、おじさんとおばさんに頭を下げる。
「今日はいろいろとありがとうございました。ここに来られてよかったです」
生きている間、一度も会いに来なかった。ノートの最後の方にちょろっと書かれた遺言にも好き勝手なことばかり。
自分は、父の中では空気だった。
嫁が勝手に産んだガキ、その程度の扱いだったんだろう。
今もここに居たって、父の気配も温もりも、みじんも感じない。他人のお墓に居るような気がする。
ああ、今、ようやくあきらめがついた。どこかに残っていた期待も消え去った。
自分は本当に捨てられ、関心を持たれなかったのだ。
やっと、あの適当で勝手な男と、本当の意味でさようならできる。あの男の愛に心のどこかで期待せずに済むんだ。
風に吹かれながら、鳥の言葉を思い出す。
命が危険なくらいの必死さがないと、魔力の殻が破れないから、異界には渡れない。という言葉を。
――冗談じゃない。
六歳で親に捨てられ、生きている親に全く愛されず、料理をして必死で生きてきて、これからさらに死にかけろ、とか、本当に冗談じゃない。
拳を握りしめて遠い海を睨み付けた自分に、山崎のおじさんが穏やかな声で言った。
「近所に友達がやってるお店があるから。魚食べて帰ろうよ、ナナちゃん」
爪が食い込むほどに握りしめた手をほどき、表情を緩めて振り返った。
「はーい! 今行きまーす」
掌から血が滲み、痣のようになっている。
手をポケットに入れて隠し、こちらをじっと見ているおじさんたちの方に足を早めた。
◇◇◇◇
「おかーさん、地震だよぉ」
デイジーはそういって、母の手にしがみついた。大きなおなかを抱え、母も不安そうな顔をしている。
ペレの村に、もうすぐ『竜』が地面を突き破って現れる。
そう聞かされて以降、デイジーは不安でたまらなかった。
彼女はしっかり者だけれどもまだ6つ。王都になど数えるほどしか訪れた事がない。
「デイジー、モココを連れてきて。これから、王都のおじいちゃんの家に行くのよ」
「よそのお家の家畜を移動する手伝い、デイジーもするわヨ!」
そういったデイジーを、やさしい母が鬼のような形相で叱りつけた。
「ダメ! 貴方が行っても、何のお手伝いにもならないの!」
「どうして! 大丈夫だよ、すごい上手にできるもん。お父さんを手伝ってくる!」
「ダメなのよ、さ、いらっしゃい」
母が取り付く島もない表情で言い、更に怖い声で付け加えた。
デイジーの真っ青な目を見つめ、一言一言をかみしめるように言う。
「早く行かなければ日が暮れてしまうわ。お母さんは今、赤ちゃんがいて速く歩けないの。だからどうか勝手なことはしないで頂戴」
「だって、お父さんが……お父さんがまだ残るって……」
小さな手で、デイジーが丸い顔をこすった。
「竜が出るのに、お父さんが残るって……」
泣き出したデイジーの気持ちの本当のところを悟り、母が表情を緩めた。
「大丈夫。お父さんはいくらでも走って逃げられるから。私たちが先に逃げないと迷惑になるのよ」
そういってデイジーをしばらく抱きしめた後、母ははっきりとした声で言った。
「さ、行くわよ。モココを連れて来て頂戴」
◇◇◇◇
これから、東方第一騎士団の出動だ。
騎士たちの前に立った上官が、聞きなれた行動の注意、作戦の注意などを述べている。
アレンも姿勢を正し、最後尾で訓示に耳を傾けた。
何度も何度も繰り返し叩き込まれた今回の作戦の要点を、上官はよどみなく繰り返す。
曰く、避難民の誘導および、勇者エドワードからの指示を最優先事項とせよ。次に、上官および、保安庁のディアン管理官からの指示を第二優先事項とせよ。
竜との交戦は、一般の騎士は絶対に行ってはならない、竜と万が一にも遭遇した場合は、直ちに近隣の一般人を保護して防衛線まで下がること。偵察隊には最高級の足蛇の使用を許可する、と。
「騎士団は擦過傷、裂傷、打撲傷の治療用の一式を確認!」
「はい!」
周囲の同僚と声を合わせ、アレンも敬礼した。
彼の脳裏に、二年前の竜殺しの出陣がよぎる。竜は無業の力を操り、周囲の石や倒木、瓦礫のようなものを吹き飛ばす。あれに当たって多くの怪我人が出たのだ。枝が刺さったり、石をぶつけられたり……。
――開腹が必要な内臓損傷も考えられる、現地で緊急手術が行われるかもしれない。
そう考えた瞬間、アレンの手が震えた。
手術は一日休めば、それだけ実施することが恐ろしくなる。
今ではもう、自分が人の腹を開くと考えただけで、震えが止まらないほどに怖かった。
騎士団に戻って何度か一般人の手術には立ち会ったけれど、それは助手としてだ。
かつて『主席医技武官アレン・ウォルズ』と呼ばれた時よりも、彼の能力ははるかに劣化している筈だ……。
アレンは唇をかみしめる。
今やっと、本当に己の愚かさが分かった。
ただ嘆くだけで閉じこもっていた時間は、積み上げてきたすべてを風化させたのだ、と。
――再び、失ってはいけなかったものを取り返せるだろうか。アレンは人知れず唇をかみしめ、腹の底に力を入れた。
竜が現れれば、怖い、どうしよう、などと言っていられなくなる。
目の前は酸鼻を極めた光景となるだろう。
「逃げるな……もう」
アレンは、唇だけでそう呟いた。




