第57話:迫りくる竜
「……」
古巣の騎士団は、アレンにとって思った以上に居心地が悪かった。
妻に暴力をふるったとされる『アレン・ウォルズ』を白眼視する人々の視線は冷たい。
たとえ『暴力』が事実ではないとしても、アレンに言い訳などは許されない雰囲気だった。
「これまでと同じ待遇は与えられない。皆の雑用と補助に徹してくれ。医師の資格を持っている故、治療行為は許可する。……竜の出現に対して危険な任務に名乗りを上げてくれたことに感謝しよう」
かつての上官が冷たく言い、アレンの目を見据えた。
また逃げるのではないか。そんな猜疑が、真面目一方と評された上官の表情を曇らせているのが、アレンにははっきりと分かった。
「ありがとうございます」
上流階級の人間の間では、妻を殴ったと噂され、言い訳もせずに逃げ出した彼は屑扱いなのだ。
そして一方で、リュシエンヌを『救済』したエドワードは、勇者としての名を高めた……。
「アレン、ひさしぶり……」
かつての同僚が、気まずげに声をかけてきた。だがアレンは、目礼だけして背を向けた。
職場で認められない男は、何を明るく振舞っても、言い訳してもみじめな存在だ。
どんな雑用でもこなし、自らの手で壊した信頼を少しずつ取り戻すしかないのだ、そうアレンは思った。
懐に手を入れ、ナナが残していったカードを手に取る。
『アレンさん格好悪いです』
そう書かれたカードを。ほろ苦く微笑み、もう一度大切にそれを懐に戻した。
どんな大事なものとも、そばに居る時は向き合おうとしない。そして失って初めて後悔する。
それが自分の最大の欠点だとアレンは思った。
「薬を煎じる下準備、手伝いますよ」
アレンの声に、下働きの少女がおどおどとうなずいた。
「は、はい、よろしくお願いします」
少女が怯えたように、アレンから目をそらす。
――やはり、自分の悪名は皆に知れ渡っているのだろう。アレンはため息をつき、薬になる枝の山の前に屈みこんだ。
◇◇◇◇
「ペレの村の人々の避難先が確保できない。うちの領地はペレから遠すぎるし、都にある屋敷だけでは彼らを収容しきれない。貴族どもは全く協力的ではないし、何なんだ、あの屑共は」
イライラしたように吐き捨てたディアンの前で、リュシエンヌは足を組み替えた。
とろりとした美しい青の瞳には、どこか小ばかにしたような光が浮かんでいる。
「そりゃ、そうなんじゃない? だって誰が皆さんにご飯を食べさせるの。この都の貴族は私腹を肥やすことには熱心だけれど、人助けには興味なんかないのよ」
「君は黙っていてくれないか」
「またシェーレン様に『使えないバカ息子、父親そっくりのダメ人間』って言われちゃうわね。私としまくってる時点でダメだけどね、あなた」
リュシエンヌの可愛らしい声には、常にないほどの毒が滴っていた。
ディアンがきつい目で、姿かたちだけは妖精のように愛らしい愛人を振り返る。
「もう一度いいけれど、黙っていてくれないか」
「はぁ、つまらないわねぇ。エドワードは地面から竜が出てくるのを上から押さえつけているし、貴方は仕事ができないってギャーギャー喚いているし、飽きちゃった。お出かけしてくる」
リュシエンヌが優美にスカートをつまんで立ち上がった。ディアンの怒りなど意にも介していない。また、夫の不在を気に掛けている様子も微塵もなかった。
真珠のように白い脚を絹巻の踵の靴にそっと差し入れ、彼女が軽やかに部屋を横切る。
「じゃあね、頑張って省吾。私も応援してあげるから」
「君の応援なんて……」
不快そうにつぶやいたディアンに、リュシエンヌは笑い声で答えた。
「うふふ」
得体のしれない態度だった。彼女の態度はいつも本心を表わしてはいないのだが……。
「何がおかしい」
「行ってきます」
強い不安を感じて黙りこくったディアンを残し、リュシエンヌは楽しげな足取りでディアンの私室を出て行ってしまった。
◇◇◇◇
「あの、竜殺しの勇者様……」
体格の良い農民の男性に声を掛けられ、エドワードは振り返った。大きな手は、霜の張った地面に押し当てられたままだ。
「竜はいつごろ出てくるのでしょうか。村民の避難には一週間はかかりそうなのですが」
エドワードは、地面に押し付けた己の手の甲に目を落とした。
手を通し、地中のずっと奥深くから彼を見つめ返す、不気味な赤い二対の目。
それが、竜だ。『カイワタリを食いに上がって来る』竜。今も微動だにしないまま、エドワードに絡みつくような視線を送って来る。腹が減った、腹が減った、腹が減った……と。
「そうだな、一週間では遅すぎるだろう」
竜の声なき声が、エドワードには明瞭に聞き取れた。以前竜と戦った時も、こんな風に伝わる声が日々強まり、ある日硝子の鉱山の地盤をつきあがって、竜が地上に姿を現したのだ。
「避難先が見つからない村人も多くて。ペレの村は農村ですから、先祖代々この村、親戚も皆近くに住んでいるものが多くて」
困惑したような農民の言葉に、エドワードは内心舌打ちした。
――この国の施政者たちは何をしているのか。今回は人里に竜が出現しそうだと前もって伝えたのに。
まともに動こうとしているのは、騎士団だけだ。だが騎士団には人民収容の場所を提供するほどの財力はない。年々予算を削られ、縮小を余儀なくされているのだから。
「僕の屋敷を使っていい。思念を送って、執事には受け入れるよう言っておく。それでも足りなければ……」
足りなければ、どうすればいいのだろうか。
エドワードは言いよどみ、言葉を付け加えた。
「宿は旅人ではなく、避難民を優先するように伝える。竜との戦いは長引かせない、とにかく最小限の荷を持って、退去を急がせてくれ」
「わかりました」
大柄な農夫が頷き、ふと顔をゆがめた。
「ここのあたりの樹は全部……爺さんの代から育ててるんです。この木は成長が遅くて、40年は経たないと良い実がならない。もしかして畑や果樹園は、全部だめになっちまうんでしょうかね……」
農民の震える声に、エドワードは今度こそ返す言葉を失った。
わからない。被害をどこまで食い止められるのか、彼にも予想は出来ないのだ。
竜の大きさは勇者の身体をはるかに超える。彼に言わせれば「山手線並みの太さと長さ」の、長大な肉体を誇っているのだ……。
「すまないが、何も約束できない」
上がってこようとする竜を渾身の魔力で押し戻し、エドワードは歯を食いしばった。
「約束は、できないが、最善を尽くす……まずは全員無事で避難してくれ!」




