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第54話:思い出が見えない男は

「アレン君」

 食堂の掃除をしていたアレンを、ダンテが明るい声で呼んだ。

「賄いは思い出スープでいいかい」

「え、ええ」

 変わった選択だな、とアレンは思った。

 あれは皆が集まるような席で、話題のために食べるものだ。王都へ向かう自分のために『餞別の席』を設けてくれるつもりなのかと考え、彼は笑顔でうなずいた。

「ありがとうございます」

「もうすぐ出来るよ、母さんが腕によりをかけてる」

 その時、アレンをかなり気に入っていたらしいダンテの母が、厨房で大声で叫んだ。

「あーあ、良い男がいなくなっちまう、うちの息子のしけた面じゃ、看板になりゃしない」

 思わず吹き出しつつ、食卓を食用の洗剤で徹底的に拭いた。

 古くからある卓や椅子は毎日手入れされ、味わいのある照りを放っている。

 手を止めて周囲を見回す。

 いい店だ。昔リコさんがいたころから、いや、ダンテの母が店主だったころからちっとも変っていない。

 父母に連れられてきた幼いころ、そして元妻を連れて来た新婚のころを思い出し、ただ、懐かしくて変わらないな、と思った。

 ここの清潔なたたずまいは、客として訪れた人々の記憶の中に、良い思い出として残るだろう。

 改めて彼は思った。

 暴れまわる竜に、人々の小さな幸福と日常を破壊させてはならない。

 勇者エドワードほどの力がないにしても、それを食い止めるためのわずかな力があるのなら、力を尽くさねば……。

 

「アレン君、できたよ」

 沼のような色合いのスープが、壺に入って出てきた。

 匂いが鼻につくな、とわずかに感じたのは一瞬で、すぐに香ばしい、何とも言えないいい香りが辺りに満ちた。

 さすがはダンテの母だ。王国でも指折りの料理人だというのは、伊達ではない。

 

「さあ、思い出をのぞこうじゃないか」

 機嫌のいい顔で、ダンテの母がダンテそっくりの口元をほころばせる。

「ダンテもおいで、みんなで食うもんだ」

「わかったよ」

 三人でスープをとりわけ、皿の中を覗き込んだ。


「ああ、うちのバカ息子が赤ん坊だったころが見えるよ。本当に可愛かったんだから、今じゃこんなオヤジだけどさ」

 幸せそうに言って、ダンテの母がスープをすくう。

 ダンテも苦笑し、スープを覗き込んだ。

 どこか遠くを見るような眼で、ぼんやりとつぶやく。

「僕はこれを覗き込むときはいつも、まだ騎士だったころの僕の姿と、砂の聖女と呼ばれていた妻の姿が見える……ああ、別の姿も見えたよ。懐かしいな、ここで働いていた頃のリコだ」

 ダンテが気を取り直したように顔をこすった。

 わずかににじんだ涙を隠そうとしたのかもしれないが、見ないふりをする。

 ダンテは本当に妻のリコを大事にしていた。

 カイワタリの重責で体を壊した妻の為、騎士団での高い位を捨て、躊躇なくここへ越してきた位なのだから。

 本人は引退の事を、竜殺しの時に体の中にある魔力の核が暴走して壊れ、もう魔法が使えなくなったからだと言っていた。

 だが、魔法の使えない騎士などごまんといる。

 ダンテの才覚と指揮能力があれば、騎士団を辞する必要などなかったはずだ。

 あれもまた、体の具合の良くない妻に罪悪感を抱かせないための方便だったのかもしれない……。

 

「僕は……」

 スープの表面を覗き込み、アレンは動きを止めた。

「…………」

 思い出はたくさんあるはずなのに、何も見えない。

 リュシィの事も、エドワードの事も、ナナの事も何も見えなかった。

 アレンはこれまで、自分の気持ちをすべて飲み込み、何も感じないように努力を重ねてきた。

 それは人を傷つけないため、自分が取り乱さないための最善の策だったはずだ。

 なのに、その結果は『思い出の喪失、過去の否定』なのだろうか。

 スプーンを握りしめ、思い出の味のしないスープを流し込む。

 かすかに苦く、のどに刺さる味に感じた。

 

「何が見えたの」

 ダンテの母に尋ねられ、とっさに「小さい頃、家族で川に行った時の事」と答えた。

「若いのに地味な思い出だね」

「え、ええ、地味な男なので……はは」

 ダンテのほうを振り返らず、アレンはそう言ってスープ飲み終えて立ち上がった。


「ダンテさん、おかみさん、他のお惣菜を持ってきますね」

 慌てて厨房に駆け込み、無意味に水を汲んで流す。

 手が震えていることに動揺し、アレンは必死で氷のような水で手を洗った。

「アレン君」

「…………」

 冷汗に濡れた顔で、アレンはダンテを振り返った。

「気分でも悪いの」

「あ、いいえ、すみません、すぐに準備します」

「僕はリコが居なくなった時、死のうかと思ったんだよ」


 つながりのない答えに、アレンが驚いて手を止めた。

 

「えっ」

「見えないんだろう、思い出が。僕にもそんな時期があった。……僕の親友だった男もまた、リコを愛していたんだ。僕とリコの幸福に耐えられない。彼はそう言って、僕の留守中に身重のリコを連れ出し、勝手に日本に送還した。そして僕は二度と、リコに会えなくなった。あの時の僕は、待ち望んでいた我が子と妻を亡くしたも同然だった」

「あの……」

「全てをなくしたと思ったね、本当に。だけどやっぱり立ち直ったほうがいいと思ったんだよ。分かるかい。辛いさなかには考えられないことだ。けれど、時間はだれにでも平等に流れ、未来は必ずやってくる。リコだってきっと、異世界で生きているだろう。僕は彼女に恥じたくないんだ、もし奇跡が起きて再会できたときに、肝心の僕が酒びたりのおっさんになっていたり、首括って死んでいたりしたら情けないだろう」

 ダンテがそういって、鍋に入った煮物を温めはじめた。背を向けていて、アレンにはその表情が見えない。

 

「それから、もう一つ分かったことがある。たとえ二度と会えなくても、僕たちの間に生まれた夫婦の情愛は消えない。永遠の別離を経てもそのことは変わらないんだ。一番傷ついて壊れたのは、僕でもリコでもない。僕たちを裏切ってしまったあいつなんだ。あいつは壊れたまま、嘘を本当にすることだけを目的に生きる機械にになってしまった」

「あいつ?」


 アレンの問いに答えぬまま、かちりと火を止め、ダンテが振り返った。微笑みを浮かべたその目には、強い光が宿っている。

 

「アレン君、君はたとえ、もっと傷つきぼろぼろになっても、立ち上がれる男だと僕は思う。王都に行ったら、勇気をもってすべてに立ち向かい、一つずつ『治して』来なさい。君の一番の武器は、その賢さでも、生まれついての美貌でもない。自分さえ捻じ曲げるほどの徹底した優しさだ。今度はその武器の使い道を間違えるんじゃない。逃げることでは、優しさは真の力を発揮しないんだ」

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