第38話:声が出ないのです、が。
「ナナさん、大丈夫なのか」
アレンがそう言って、お医者さんを押しのけるように自分の顔を覗きこんだ。
澄み切った春の草のような緑の目が近くに迫り、ドキンとなって思わず体を離す。
「どうしたの」
「…………」
顔が近いんだよ!イケメンの顔はある種の武器ですよ!
押しのけられたお医者さんが、落ち着かせるような明るい口調でゆっくりと言った。
「彼女はもう大丈夫そうだよ、だんだん体温が上がってきている」
我に返ったように、自分を押しのけたお医者さんを振り返り、アレンが慌てて体を引いた。
「あ、せ、先輩、すみません……」
「いいよ、心配していたもんね、アレンくん」
お医者さんがにっこり笑って立ち上がった。
「ナナさん、取り敢えず今日は横になっていてくださいね。大丈夫そうだけれど、後でまた回診に来ます」
「あ、は、はい」
アレンが額を拭い、立ち上がってお医者さんに頭を下げる。
どうしたんだろう。
慌てていたように見えたのだが。
「ナナさん」
「…………」
「大丈夫か、気分は」
深々と頷いた。動いたり絵を描いたりしているうちに良くなってきた。
体を動かしたから、血の巡りが良くなったのだろう。
お医者さんがおいて行ってくれたメモ帳を取り上げ、精一杯の人間の姿を、そして喉のあたりにバツじるしを描いてアレンに見せた。
「…………」
「え?」
アレンが目を潜め、自分のベッドの側に膝をついてメモ帳を覗きこんだ。
だから顔が近いのですよ!
ちょっと離れてくれないとゆでダコになります!
「ナナさん?」
「…………」
だめだ、もう真っ赤になり始めた。顔が熱いからわかる。
情けないので見ないでください。
あとお風呂に入ってなくて、臭いと思うし。
「これは……処刑の図……? 僕を恨んでる?!」
アレンさん何震えてるの!
ちがうよ!コレは私の声が出ませんって意味だよ!
そう思って毛布をバシバシ叩き、首を振った。
「あれ」
アレンが気づいたように自分の頬に指を当て、口をこじ開けて覗きこんだ。
「声が出ないの?」
「…………」
そうです。そうです。必死で首を縦に振り、さっき書いたお風呂の絵を見せた。
……寒いのでお風呂に入って温まりたいのです!
「喉は腫れていないけど。さっきの先生は何をおっしゃってた?……って、説明できないか」
深々と頷いた。
とりあえず寝てるように言われたのだが、自分で大丈夫だとわかるので、お風呂にどうか入れてくれ、と思う。
伸びきった髪がばさばさとうっとおしいし、髪の毛を団子にする道具も借りたい。
そう思ってメモ帳を取り上げ、お風呂に入った自分、髪をお団子にした自分を描く。
「……?」
アレンが首をひねり、ぐしゃぐしゃになった前髪をそっと指でかき上げてくれた。
「料理はもう少し良くなったらにしよう、今は休んで」
いえ、料理の絵ではないです。
もはや何の絵なのか自分でも疑問なのですが、風呂に入りたい、そして髪を縛りたいという絵なのです。
そう思って精一杯悲しい顔をしてアレンを見上げた。
「ナナさん」
アレンも釣られたように悲しげな表情になる。
「ごめんね」
そう言って、多分臭いであろうボサボサの頭をアレンが胸に抱え寄せた。
「!」
「簡単に風邪だなんて言って放っておいて、朝まで様子も見に行かずに済ませてごめん。本当に反省した。僕はなにもかも失格だ。カイワタリの君をもっとちゃんと保護して様子を見るべきだった。やはり騎士団をやめて正解だった。僕には医技武官の資格もないし、君の大家の資格もないと痛感したよ、本当に済まない……」
――チョッ……何!この状況何!
頭をホールドされたまま、全身にダラダラ変な汗をかきつつ必死に頭を働かせた。
あとアレンが、また変な方向に深堀りの反省をしている。
仕方ないじゃないか。寝るまでは普通に声が出たし、ちょっと熱があっただけなんだから。アレで大げさに心配したらそのほうがおかしい。
異世界の風邪が怖いことはよっくわかったので、自分で気をつける。手洗いうがいを励行する。あと早く日本に帰れるように、あのディアンさんに頼む。
だから、そんな的外れで自分ばっかり悪い、みたいな重すぎる反省はやめて欲しいのだが。
手帳に絵を描こうとしたが……無理だ。
簡単な話すら伝わらないのに、そんな高度な概念、表せるわけがない。
とりあえずアレンの胸を押してをぐいっと突き放し、アレンを睨みつけた。
そして手を伸ばし、げんこつでこめかみを挟んでグリグリと押した。
コレはぬるい真似をしたガキ共をお仕置きする時よくやった技だが、もちろんあの時ほど力を入れない。
「怒ってるんだね」
アレンの言葉に首を振った。
「ごめん、本当にごめん、ナナさん……」
また首を振った。
そして端正な頬を思い切りぐにょーんと引っ張る。
への字口をやめて、笑ってほしい。
その意思表示なのだが、アレンに伝わるのだろうか。
「痛っ」
顔をしかめたアレンの目をじっと睨みつけ、手を放す。
「…………」
自分が怒った顔をしていたら、アレンも笑わないだろう。
そのことに気づき、若干悲しげなアレンにニッコリと微笑みかけた。
「ナナさん、許してくれるのか、ごめん……」
いや、許すも何も、怒ってないし。
そう思って、怒った顔の自分を描き、バツを描いた。
「?」
笑顔の自分を描いて、丸を書いた。
アレンがしばらく絵を眺め、顔を上げてじっと自分を見つめた。
「ナナさん、これ、もし僕に都合のいい解釈だったら申し訳ないけれど、あの」
慌てて笑顔を浮かべて、両腕で大きな丸を作る。
怒ってないよ!
怒ってないってば!
何でも気にし過ぎだよ、アレンさんは。
笑顔を継続したまま首を傾げた瞬間、アレンの顔が歪んだ。
「あの……ナナさん、ごめん、いつも君に気を使わせて……僕は……」
その時、ばん、と音がしてドアが開いた。
自分の方に身を乗り出していたアレンが慌てたように身を引く。
「あれ、ごめん、邪魔して。チビさん連れでお見舞いに来たんだけど」
そこには、大きなかごを持って現れたダンテさんが、デイジーの手を引いて立っていた。
「デイジーさんよ、おじさんたち邪魔みたいだな」
「そーね、おじゃましちゃ悪いわヨ」
訳知り顔でデイジーが頷く。
相変わらず大人の真似が大好きで、意味もよくわかってないのにませた口を利く。
「いえ、すみません店長、お休みいただいちゃって……」
「ほんとだよ、田舎のおふくろにまた店を手伝わせてるんだから。腰が痛いって愚痴られて大変だよ。さっさと元気になってもらわなきゃ」
明るい声でダンテさんが言い、自分を見てニヤリと笑った。
「お、髪下ろしてると雰囲気変わるね、ナナさん」
「…………」
雰囲気はおそらく、柳の下の幽霊みたくなっているはず。
なので早く洗いたいのだが……。
「ナナちゃん大丈夫なの、心配したわヨ!」
デイジーがチョコチョコとやって来て、アレンの膝に這い上がって自分の顔を覗きこんだ。
デイジーの真っ青な澄み切った目に、ニッコリと微笑み返す。
「ねえ、もう元気になった? ペレの村に帰ってくる?」
「…………」
声が出ないので、にっこり笑って頷いた。
「ダントンさんに頼まれてさ、見舞いに行くなら連れて行って欲しいって。いつも良い野菜分けてもらってるから無碍にも出来なくてさぁ」
ダンテさんが可笑しそうにいい、気づいたように首を傾げた。
「なんだ、今日はずいぶんおとなしいな、ナナさん、ほら、土産。パンとか焼き菓子、日持ちしそうなやつを作ってきたよ」
「!」
思わず身を乗り出し、受け取った。
イイ香りがする。
ダンテさんの作るパンや焼き物はきっちりしててスッキリしてて、ほんとうに美味しいのだ。
かごの中身はどれも日持ちがするよう、表面を固くカリカリに焼き上げてあった。
「…………」
頭の上で手を合わせてダンテさんを拝んだあと、しばし考え、喉の前で指をクロスさせる。
「ん? 声が出ないのか?」
「えー、どしたのナナちゃん、喉が痛いの?」
首を振る。なんともないのだが、喉がヒクリとも動かないのだ。
「よくわからないんです。明日検査をするらしくて」
「そうか」
しばし考えた後、ダンテさんがおもむろにメモ帳を取り上げ、何かをサラサラと書き付けた。
渡されたメモ帳を見て、その内容をありがたく思い深々と頷く。
だが、頷いたあとに絶句して目をむいた。
「!」
なぜならそのメモ帳には、日本語でこう書いてあったからだ。
『ぼくに、ひらがな、で、かく ダンテ』
思わずダンテさんを見上げる。
「僕の奥さんの故郷が君と一緒なんだ。ヒラガナ……だっけ。簡単な言葉だけ、奥さんに書き方を習ったんだよ。まあ交わし合う言葉は同じに聞こえるけど、カイワタリの力で通訳しあっているんだろうと奥さんは言ってた。エルドラの文字を勉強していて、うちの奥さんはそのことに気づいたんだそうだ」
「ダンテさん……」
「ごめんね、アレンくんに口止めしてて」
ダンテさんがそう言って、小さくため息を付き、自分の手から取り上げたメモ帳を持って飛びついたデイジーの頭をなでた。
「ナーに、これ、店長のおじさん、これなーに?」
「ナナさんの世界の文字だ」
「へー。みて、兄ちゃん、すごいおもしろいよ!」
はしゃぐデイジーをよそに、ダンテさんの緑の目を見つめた。
奥さんが、奥さんが日本人?
どういうことなの?
「黙ってようと思ってたんだ。一方で、君がうちの店で働きたいと言ってきた時、運命かなとも思った。僕は『日本』のことを思い出したくなかった。だが、向き合うべきかもしれないと思って、君と働いている間、ずっと葛藤していた」
ダンテさんがつぶやくように言う。
「僕の奥さんは、ディアン管理官の手で、日本に強制送還されたんだ。ディアンは僕の『元親友』だったけれど、その件でずっと不和が続いている。君に余分な不安を与えたくなくて黙っていたけど……済まなかったね」
奥さんが、日本人?
でもりこピンって……そんな変な名前の日本人知らないんだけど?
「!」
夢の中で垣間見た光景を、その時急に思い出した。
茶色い髪の、あの逞しい男の人。
泣いている女の人に「さようなら」と言っていた茶色の髪の男性は、ディアンさんだ。
間違いない。
今より若かったけれど、あの人はディアンさんだ。
華奢な女の人に『砂の聖女様』と呼びかけたあと、ディアンさんは言っていた。
『じゃあね、リコ、さよなら』って。
あの夢は、まさか現実にあったことなのか。




