第36話:妖精の見る夢、カイワタリの見る夢
「ふぁー」
緊張感のないあくびをし、リュシエンヌはディアンの寝台から這い出した。
寝台の主はもういないので、体を洗ってドレスに着替え、そのまま彼の屋敷を出ようと考える。
彼女にとってのディアンは、いわゆる『保護者』だった。
リュシエンヌがアレンと結婚する前、女学生だった頃からの。
『美しい若い娘を手駒として探している。男を愛さない女ならなおいいね』
『自分ならピッタリだ』。そう思った彼女がディアンに微笑み返してから、一体どれほどの時間が流れたのだろうか。
温かい浴槽に飛び込み、リュシエンヌは白い体を香草を浮かべた湯でゆっくりと撫でた。
黄金の鳥の意匠が施された天井を眺め、ディアンがいつもうわ言のように繰り返す言葉を反芻する。
――この国で思う存分できる権力がほしい。おぞましいカイワタリになど頼らずとも『危機をやり過ごす力』がほしい。
リュシエンヌは溜息を付いて動きを止めた。
あのバカは何を考えているのだろう、と思うからだ。
「あんなにカイワタリに拘っていると、『本音』が透けて見えてみっともないのに。私は早く王様をたぶらかして、後宮の権力者になりたいのよ。親のない惨めな娘が頂点に這い上がれるって証明させてよ!ショーゴのばか」
愛らしい声は極めて小さく、そのまま湯気に溶けて消えてしまった。
『ずっと辛かった。考え方がゆがんでるって言われても、誰からも愛されてるなんて思えなかった。だって家族がいないんだもの。どんなに優しくされても惨めなだけで、どんなに男に求められても気持ち悪いだけだった。皆いなくなればいい。アレンだって、私のお兄ちゃんになってくれなかった。夫になりたいなんて言って、私の事見捨てた……』
一人歯を食いしばり、リュシエンヌは浴槽の中で涙をひとしずく流す。
何をしていても、彼女の思考は『自分が惨めで哀れだ』というところに帰っていく。何を与えられ、誰に尽くされても変わらない。ほしい物を与えられたという満足感を、持続できたことがない。
「おい!ディアン!いないのか!」
ふと聞こえた男の声に、リュシエンヌはパッと顔を上げる。
聞き覚えのあり過ぎる声だったからだ。
「あら? どうして『うちの旦那様』がショーゴの家にいるのかしら」
あくびをし、彼女は浴槽で足を伸ばした。それから流れた涙を湯で洗い流した。
「……ま、いっか、無視無視」
彼女にとって、夫の勇者エドワードは『名誉をくれる他人』にすぎない。
それは、エドワードにとっての彼女が『疫病神』であるのと、ほぼ等価の感情だった……。
◇◇◇◇
「ナナさん」
王都の病院に運び込んでなお、全く意識も戻らず、体温も上がらず、粘土をこねた人形のようになってしまったナナを、アレンは覗き込んだ。
「ナナさん、聞こえる?」
ピクリとも動かないし、汗もかかない。
呼吸すら殆ど見られず、医師たちも『こんな症状は見たこともない、いくら神経障害が憎悪したからといって……』と首を傾げていた。
カイワタリは、病気にかからないし、傷もたちどころに癒える。そんな超人的な存在のはずだった。
当代の竜殺しの勇者エドワードも、アレンが拾った時は瀕死の重傷を負っていた。
しかし、とれかけていた腕や、全身の挫滅でさえ完全に回復し、今では何の後遺症もなく動き回っている。
アレンは小さく息をつき、ひと回り小さくなったナナの襟元に毛布をかけ直した。
一度目を開けたきり、もうピクリとも動かない。
「ナナさん、聞こえる?」
アレンは答えないナナに話しかけた。
「僕が気軽に風邪だろう、なんて言ったからこんな大事になったんだ、すまない。カイワタリの君が病気になった時点で、おかしいと思うべきだったのに」
やはりナナは反応しない。
安らかに見える表情で目を閉ざしたままだ。
何か掛ける言葉を探すようにアレンはしばし考えこみ、もう一度ナナの顔を覗きこんだ。
「僕は君に何度も励まされて来た。なんというか、君は僕の脇の甘さを叱咤してくれて……それに、いつもまじめに働いていて、泣き言も言わない君を僕は尊敬している。僕の不甲斐なさに涙まで流させて……でも今言っても仕方ないね、僕はどこまで気が利かないのだろう」
苛立つように己の前髪を掴み、アレンはしばらく考え込む。
それからナナの張り付いた前髪をかきあげて呟いた。
「目を開けてくれ、ナナさん。早く目覚めなければ君の体が持たない、死んでしまうかもしれないだ、聞こえるか」
◇◇◇◇
「ぎゃー!」
また、監視カメラモードだ。
だが今回の視点はずいぶん低く、ばっちりと目の前のものが見える。
血まみれで腕のちぎれかけた、タイゾーくんの姿、だ……。
あまりのことに一瞬頭が真っ白になったが、必死で叫んだ。
「タイゾー君!タイゾー君どうしたの!タイ……」
そこで、彼が着ているのがセレクトショップで売っていそうな『日本の服』であることに気づいた。
大変な怪我をして倒れているのだが、血に濡れた服はデニム。
どういうことだろう。
それにやはり、自分の声が届いている気配はない。それにここは……砂漠?
「大丈夫か!」
聞き慣れた声がした。駆け寄ってきたのは、ずいぶんと髪の長いアレンだった。
見たこともないような立派な軍服のようなものを着ており、大怪我をしたタイゾーくんの側に屈み込み、手際よく手当てを始める。
「カイワタリの男性を確保しました!」
叫んだアレンの周囲に、沢山の人が集まる。
「止血したら騎士団病院へ。挫滅がひどいから患部を血止めバサミで……今ここで処置します。先輩、気道の確保をお願い致します。内蔵由来と思われる吐血があります」
おお、アレンがお医者さんしてる、かっこいい!
そうおもって声をかけた。
「アレンさーん!タイゾーくん、どうしたの?!大丈夫なの!」
だがやはり、声は届いていない。
それになんだか変だ。
アレンが、タイゾーくんを知らない、初めて会う人だ、みたいな振る舞いをしている。
「大丈夫ですか、聞こえますか、眠ってはダメです、返事をしてください!」
やっぱりだ。
コレは今の光景ではない。
昔に起こった出来事なのかもしれない。だって、カイワタリの男性を確保したって言ってたし。
あんなに有名なタイゾーくんの名前を、誰も知らないように見えるし。
でもアレンの顔が大きく変わったように見えないので、それほど昔のことではないのだろう。
……だが、どう見てもタイゾーくんの手が取れかかっている……。
こわい。でも、彼には暖かい両腕がちゃんとついていた。
あの両腕で自分を抱えて飛んでくれたし、ふざけて手をつないだりもした。右手でも左手でも。
目の前のぐちゃぐちゃの腕が、ちゃんとくっついて元に戻ったのだろうか。
そんなに綺麗に治るのか。
良くわからない。
――そもそも自分はなぜ、こんな夢ばかり見ているのだろう。
「ピョロリロプウゥ」
「あ!また出た!どこ?どこにいるのっ!」
間抜けなさえずり声がしたので、必死に眼球だけを左右に動かし、声の主を探した。
だが、出てこない。緊張感のない甲高いさえずり声だけがピロピロとこだましている。
あの小鳥は一体何なんだろう。金色の鳥なんて珍しい。
カナリアみたいな黄色じゃなくって、折り紙の金色みたいにピッカピカの金なのだ。
「ぐぎぎ、出てこい、トリー!」
動けない。全く動けない。だめだ。
なんで自分は動けないのだろう……。




