第35話:異世界の風邪は強烈過ぎました。
異世界でも風邪って引くんだなぁ……。
そう思いながら目をつぶった。
だるい。だるくてひたすら眠い。熱も結構あるようだ。アレンが熱冷ましをくれたが、あんまり効かない。体が違うのだろうか。
ま、でもただの風邪だろう。2、3日で治る。
むしろ忙しいダンテさんのお店に穴を開けてしまったらどうしよう。頑張って起きて、出勤しなければ。掃除くらいなら出来るはずだし。
いつの間にかうとうとしていて、夢を見ていた。
真っ直ぐな長い黒髪が目の前で揺れている。自分の髪はあんなふうにサラサラと柔らかそうではなく、黒く、太く、頑丈!という感じだから、アレは自分ではない。
それにあんなに痩せてないし。
上から見た姿なのだが、華奢で小柄で、色白なのだとわかった。
服は長いシルクのような素材のドレス、というか、なんというか、繊細なカーテンを巻いたような綺麗な服だ。羽衣みたいな。
「もしもーし」
呼びかけたが、女の人は反応しない。
自分の声は聞こえていないようだ。
しかも、自分はこの場所から動けない。
女の人を斜め後ろ上方から見る、という視点から動けないのだ。
夢の中で監視カメラ役でもやってるのだろうか。
だとしたら、いかにも自分らしい地味さだが。
「砂の聖女様」
男の人の声が聞こえ、かつかつと石畳を硬い靴で踏むような音が聞こえた。
長い雨合羽みたいな、自分はこういう服をなんというのか知らないので説明できないが、マントのような服を着た、若い男の人が現れた。
茶色の髪は少し長めで、鼻から下のラインしか見えない。
なんという、いらいらする角度だろうか。
「御役目ご苦労様でした」
「帰りたくないの!」
女の人が必死でな声で叫ぶ。どうしたのだろう。
「界航りの神鳥も、聖女様の御業績をことのほか喜ばれることでしょう。我がエルドラに貴方様がもたらして下さった栄光を、我らは決して忘れることはありません」
男の人の声は優しく、女の人の切羽詰まった感じとは、まるで調和が取れていなかった。
「私は帰りたくないの、脚の鎖を外して、お願い、ねえお願いだから!」
「さようなら、お疲れ様でした、リコ」
男の人が、何かを女の人に押し付ける。
黒っぽい大きな袋だ。
ん? 日本で自分が持っていたような、ナイロンのリュックサックに見えたが。
調理服が入るし、炊事場用の靴も入って重宝するのだけど。
うーん、よくわからない。
何しろカメラなので動けない、喋れないし。
「帰りたくないの、私、帰れないのよ!ねえ聞いて、省吾!」
「じゃあね、リコ、さよなら」
省吾、と呼ばれた男の人が、なんだか意地悪な、それなのにどこかかなしげに曇った声でつぶやく。
「いやあっ!」
女の人が叫んだ瞬間、目を開けていられないほどの光があたりを包んだ。
ピロピロという鳥の鳴き声がする。
なんか、のんきな声だ。
あの男女はものすごく深刻な感じで話していたのだが。
それと、もう一つ。
あの二人の声、どこかで聞いたことがあるのだが、気のせいだろうか?
「ピョルルル、ピョロルルル」
「ん? うぐいす?」
声しか聞こえない。
なにしろ今の菜菜さんは監視カメラモードなのだ。鳥がどこにいるのかわからない。
何だろう、何が起きたんだろう。
そう考えていたら、不意に光が消えた。男の人が屈みこんで視界から消える。
イライラする、なんだか大事なところが見えなくて。
「……これ、置いて行くんだね、リコ」
男の人が呟いて立ち上がり、何かを懐にしまって視界から消えた。
なんだろう、何を拾ったのだろう。
ああ、あの声は絶対に聞いたことがある、
顔を見れば一発でわかるのに、イライラする……。
「ピョロプゥゥゥ、ピポポポポ」
「あんたはさっきから何なのよ、のんきな声出して!」
そう叫んだ瞬間、強い強い睡魔が襲ってきた。
視界がオフにされた。なんだか、カメラの電源が切られたみたいだった。
「ナナさん!」
「……」
「わかるか?」
わかりますよー。どうしたの?
そう言いかけて、声が全く出ないことに気づいた。
「話せるか、僕の名前が言える?」
アレンさんなのですが、声が出ません。
そう言おうとして違和感を感じる。口も動かないんだけど。
自分を覗きこむアレンが、困ったように顔をしかめる。
「声が出ないの?」
頷こうとしたが、ほとんど動けない。
なんだろう。金縛りか。
もしかして夢の中で動けなかったのは、現実世界で動けなかったからなのだろうか。
必死で何とか動こうとしたが、枕の上で頭がごろ、と横に転がっただけだった。
——あれ、コレってやばくない? かなり重病じゃない?
そう思ったが、がっくりと頭をたれたまま何も出来なかった。
なんだか、アレン以外の男の人が話しているのが聞こえる。
こっちの病原菌に抗体がないとか、感染症で神経麻痺とか。
怖い、何なんだ、マジで。
「ナナさん、聞こえるか、動ける?」
アレンが顔に手を添え、自分を覗きこんで言った。
いやぁ、頷こうとしてるけど、ダメなんです。
そう言いたいが言えない。しかも眠い。
「ピッピッピョロリィィ……!」
またあの鳥の、ちょっとマヌケな鳴き声が聞こえる。
眠くて目を開けていられない。
目を閉じようとした刹那、金のスズメみたいな鳥がヒョイッと顔に止まり、自分を覗きこんだのがわかった。
小鳥特有のちっちゃく尖った爪のせいで、頬骨のあたりがチクチクと痛い。
なに、この鳥。
顔に乗らないでほしい、目に爪が刺さりそうで怖いから。
アレンはなぜ鳥を無視しているのだろう、この鳥をどけてくれてもいいのに。
…………。
「ナナさんっ!寝ちゃダメだ、わかるか、聞こえたら目を開けて」
ダメだ。
深刻な雰囲気のところ申し訳ないが、不肖鈴木は睡魔に負けます……。
◇◇◇◇
エドワードは、寝そべっていた長椅子からわずかに体を起こした。
かすかに眉をしかめ、あるかどうかも分からないほどのかすかな匂いを嗅ぎ取る。
「…………」
無言で跳ね起き、ベランダから華の咲き乱れる庭園へ飛び降りた。
かなりの高さだったが、彼にはまるで堪えた様子はない。
「嘘だろ?」
エドワードはそう呟いて足早に庭園を横切り、下働きの老人が草木の手入れに使っている井戸の前で屈みこんだ。
石造りの縁に指をかけ、暗く深い水面を覗きこむ。
釣瓶の縄が彼の頭に押されて、キイキイと音を立てて揺れた。
静かだった。
だが、彼の耳には届いていた。まるで胎児の心音のような、くぐもった激しい鼓動のような音が。
エドワードは唇を噛み締めた。
彼のくすんだ緑と茶色の交じり合う不思議な色の目に、剣呑な光が宿る。
「くそ!」
——つぶやいた次の瞬間には、彼の姿は邸宅の敷地内から掻き消えていた。