第34話:熱いです……。
「まさかナナさんのお菓子が僕の味方をしてくれるなんてね」
アレンが笑いを滲ませて言う。
辺りはもう真っ暗だし、かなり寒くなってきて虫の声もまばらだ。
「顔が汚れてしまった子はかわいそうだったけど、妹がみなと仲直り出来たようでホッとした」
「そうですね。帰る時はもう仲直りしてましたからね」
「ナナさんの暴れるお菓子に感謝だな」
「うう」
恥ずかしくて耳をふさいだ。
まさか自分が作ったお菓子が暴れだすなんて。
「妹の友達も、僕がとんでもない暴力男だという誤解を解いてくれたようだし」
「そりゃあそうですよ!」
顔を上げ憤然として言い返した。
「アレンさんは優しい人です!どこの誰とも知らないデッカイ女を拾って下さり、家賃も取らずにおいて下さり!あ、家賃は帰ったら払います、おいくらですか?」
「家賃はいらないよ、どうせ誰も住まないはずの家だし」
アレンがそう言ってくれたが、断固として首を振った。
「あの、ちゃんと払います。それからもう少したまったらちゃんと出ていきますので」
「そっか、いいのに……」
アレンが何かを考えこむように口をつぐむ。
石を踏むジャリジャリという音だけが。田舎の広い畑道に響いた。
「ニホンに帰ってしまったら、もう君の元気な声は聞けなくなるね。そう思うと寂しい。エドワードもいずれ元の世界に帰るのだろうし。僕にとって大きな別れが、そう遠くない未来に待ち構えているんだなと、最近つくづく思う」
意外な言葉に、思わずアレンの顔を見上げた。
彼がタイゾー君の名前を口にするなんて。
「エドワードとは、結局何も話せていないから。リュシィと幸せになってくれなんていう薄っぺらい言葉だけで、僕は彼の目も見ずに逃げ出した」
「アレンさん……」
「今思えば、あの結婚は僕一人が必死で繕ったところで、破綻を迎えていただろう。僕はリュシィの『お兄さん』に過ぎず、僕にとってもあの子は『情緒不安定で手のかかるもう一人の妹』だったからね」
アレンが顔を上げ、砂を振りまいたような星空を見上げた。
「エドワードはずっとリュシィを嫌っていた。人妻だった彼女への恋慕を押し殺すため、わざとそう振舞っていたと本人は言い張っていたが、そんな嘘をつける男じゃないんだ。やはり彼が何を思って、あんな選択をしたのか話したい。彼の思いが何もわからないまま、永遠に会えなくなるのは辛い」
「あ、あの」
——タイゾー君はアレンさんを助けようと思ってるんです。
そう言おうとして口を開きかけたが、慌てて閉じる。
自分が勝手に言ってしまって良いのだろうか。
アレンは、彼と自分が知り合いだということすら知らないのだし。
「何?」
「い、いえ」
「ナナさんは、帰っても食べ物屋をするのかな」
アレンの優しい声に顔を上げ、美しい緑の目を見て頷いた。
「は、はい!お金貯めて、やります、いつか!」
調理師の夢はどこにいても諦めない。
美味しくて体にいい料理のお店を出す、という夢がブレることはないだろう。
「その店に僕たちは行けないんだな。君のことが大好きなデイジーも、ダンテさんも、君の開く新しいお店にはいけない」
アレンが目をそらし、首に巻いた大判の布を寄せ直した。
「異世界へ行ける道があればいいのにね。やはり君が帰ってしまうのは寂しいよ」
「…………」
アレンの言葉に、無言で足元の石を蹴る。
そんなことを言われたら、切ないではないか。
自分だってアレンやダンテさん、それにデイジーやハーマンご夫妻と永遠に会えなくなるのは悲しい。
何か、彼らがずっと持っていてくれるような、思い出になるものを残したいな、と思った。
『ナナ』を忘れて欲しくない、という未練かも知れないが、何かをここに残して帰りたい。
自分に残せるものは、何が有るだろう……。
「そうだ!日本に帰る前に、美味しいお弁当のレシピを完成させます!シュークリームとも。」
「レシピ……? オベントウ? シュークリーム? うーん、知らないな、なんだい、それは」
「あっちの世界の料理の作り方です。出来るだけ再現して、美味しい作り方を置いて行きますね。楽しみにしててください。それに、あの……」
笑っていない、静かな表情のアレンを見つめて言葉を付け足した。
「あの、私、日本に帰っても、ずっとみんなのこと思い出しながら料理します。ダンテさんに習ったこととか、デイジーと遊んで楽しかったこととか、アレンさんに親切にしてもらって嬉しかったこととか。そしたら料理が美味しくなる気がしますから!」
アレンがかすかに微笑み、頷いた。
「そうか、ありがとう」
「は、ハイ」
やばい、なんか泣けてきた。
グシュグシュと不自然に鼻をすすり、涙をごまかす。
「ちゃんと言ってなかったけれど、ナナさん、僕をいつも擁護してくれてありがとう。久しぶりに『暴力を振るう悪人』呼ばわりされて、やはり自分は傷ついていたんだと気づかされた。あの、ナナさんのお陰で僕は……」
「ハーックショーン!」
…………。
ああ、せっかくいい感じで話をしてたのに!
自分の盛大なくしゃみで全てが台無しになる予感……。
「大丈夫?」
アレンの手が伸び、自分の手を取った。
「あ、アレンさんの手、冷たいですね」
「きみの手も随分冷えてる。ん?」
「あの、えーと、ダイジョブです、わたし万年アツい女なんで」
「ほんとうに熱いな」
アレンがそう言って、顔をしかめて自分の額に手を当てた。
あまりのことに動転し、無意味に両手をブンブン上下に振ったが離してくれない。
「熱がある」
「え?」
容赦なく口をこじ開け、アレンが口の中を覗きこんだ。
「ナナさん、かなり喉が腫れてるよ。具合悪くないの?」
そういえば、昼過ぎからずっとのどが痛い……。
◇◇◇◇
「ショーゴ」
呼ばれて、ディアンは振り返った。
「なんだ、来てたの」
「だって暇なんだもん」
蜂蜜色をした絹のような髪を払い、リュシエンヌが微笑んだ。
美しい『愛人』のほほ笑みに、ディアンは溜息をつく。
「頻繁に来るなよ……今の君は単身赴任の平騎士の嫁さんじゃない。勇者エドワードの奥方だろう」
「いいじゃないの。エドワードは部屋から出てこないわよ。あの人根暗でつまんないわぁ。何が勇者なのかしら」
「まったく」
文官の制服である長衣の袖から、普段の柔弱な表情からは想像もつかないほどに逞しい腕が伸び、リュシエンヌの顔をなでた。
「リュシィ、ここに来る時、誰かに見られなかった?」
「さぁ?」
「さあじゃないだろ、さあじゃ……」
リュシエンヌがにっこり笑って、ディアンの大きな手のひらを顔から引き剥がす。
「ね、そんなことよりも、ショーゴ。早く私を王様の後宮に連れて行って。女の戦争を勝ち抜いて、愛人の最高位まで上り詰めてみたいの。夢なのよ」
かすかに顔を曇らせたディアンの様子など気づきもしないように、リュシエンヌがとろりとした青い瞳を輝かせた。
「早く王様に会いたいなぁ。絶対溺愛されてみせるから、見てて」
「……そんもの、僕は別に見たくない」
吐き捨てるようなディアンの声に、リュシエンヌがむっとしたように愛らしい顔をしかめた。
「王様に紹介してくれるって約束したじゃないの!何でそんなこと言うの?!」
「……何でもだよ、悪魔め」
ディアンはそう答え、リュシエンヌの華奢な体を抱き寄せた。