第30話:クリーム欲しい。
こちらに来て、もうひと月くらいたつ。
お給料を明日頂けるという。
アレンに家代を収め、ハーマン家にもお礼を持って行って、もう少し足にあった靴を買い直したら、いくらか残るだろうか。
楽しみだ。こっちの世界での初めてのお金……。
「ナナさん、ココの実の香り付きの焼き菓子、出すよ!」
「はいっ!」
お皿に盛られ、ジャムを添えられた美しいパウンドケーキを、お客様の前に並べた。
香ばしい甘い香りが漂い、若くて可愛らしいお客様二人が歓声を上げた。
「正方形だわ、綺麗な形ね。それにココの実の香りがする!」
ダンテさんの作るお菓子はキッチリしていて、どこまでも端正だ。
作った人をしっかり反映していると言っていいだろう。
彼は、計量もものすごく厳格だし、タネ焼き型に入れるときも跳ねたりしないよう、丁寧に丁寧に作業をしている。
とにかく一つ一つの作業に気配りがあって、仕上がりも素晴らしいのだ。
まさに職人ダンテ・アドルセンの裂帛の気合いが込められた、至高の逸品と言えよう。
だが。
ダンテさんのスイーツもさることながら、最近チョコレートが恋しくてたまらない。
微妙に味が似ているココの実のケーキを食べたせいか、甘くてとろっとろのチョコレートが猛烈に食べたくて止まらないのだ。
日本製の極上スイーツを食べたい。
別腹の更に別腹で。
思い出したら、本当に食べたくなって来た。
フワフワしていてコッテリしている、あまーいお菓子が。
チョコレートとナッツの入ったしっとりクッキーとか。
生クリームたっぷりのショートケーキとか。
色とりどりの甘酸っぱいマカロンとか。
バターでたっぷりカリカリの焼き目を付けたタルト・タタンとか。
ココアクッキーを敷き詰めた台に乗る、どっしりしたニューヨーク・チーズケーキとか。
「うう……」
恋しい、濃ゆいスイーツが恋しい。
お給料をいただいたら、自分で材料を買ってトライしてみようか。まずは生クリーム。
脂分の多い動物の乳を買って来て、ひたすら瓶に入れて振るのだ。
でもアレは昔体験学習でやったが、取れる量が少なく、面倒くさい。
売っていないだろうか、生クリームに似たもの。
「ナナさん、どうしたの」
「あっ、考え事してました。店長、動物のお乳の脂分の多い所を泡立てた食べ物ってありますか?」
「うーん、何の事? 泡立てる?」
不思議そうな顔をされてしまった。
「無いですかね?」
「聞いた事無いね、脂肪の多い乳を泡立てる……うーん」
ダンテさんが腕を組んで考え込んでしまった。
彼が知らないというなら、こっちの世界ではお目にかかれない代物なのかもしれない。
クリームがあわ立つには脂の濃度、油分の乳化の具合、温度など、色んな条件が必要だと学校で習ったし、難しいのだろう。
「そうですか。無いですか、やっぱり」
だいたい納得できた。
あるなら、とっくに誰かが作っているだろう。
「あっ、そうだ」
クリームと言えば他にあるじゃないか。黄色くてとろりとして美味しいのが。
まずはカスタードクリームを作る事から始めようかな、と思う。あれなら、材料的にいけそうだ。
お給料を頂けたら、卵とお砂糖、動物の乳を買って、カスタードクリーム作りにチャレンジしよう。
小麦っぽい粉ならあるし、それっぽい美味しいものが作れそうだ。
それをクレープにはさんで、ミルクレープ風のケーキを作ってみよう。
冷蔵庫が無いのが難点だが、寒くなって来たし、夜窓際においておけば思い切り冷えそうだ。
「よし」
「お、気合い入ったね。癒し芋むいてくれる?」
ダンテさんに返事をし、籠にいっぱい入ったお芋さんを手に取った。
「あ、そうだナナさん」
「はい」
「君、早く日本に帰りたい?」
「えっ?」
唐突に尋ねられ、ビックリして癒し芋を落としそうになった。
「えと、えと、はい、帰らないと冷蔵庫の中身が」
いや、そんな事どうでもいいだろう。
しかも『冷蔵庫』なんて言っても通じないのに。
「ん?」
「あ、いや、ちがいます、ビックリして変な事を言いました。あのー、冷蔵庫というのは……」
焦って冷蔵庫の説明を始めた時、アレンが外の掃除を終えて戻って来た。
「終わりました。そろそろ花の鉢を下げた方が良いかもしれませんね、冬が来ますから」
そう言いながら、お客様の食べ終えたお皿を下げ、優雅な足取りでカウンターに持って来てくれた。
女性のお客様は皆、アレンにうっとりした眼差しを送っている。
無理も無い、本当にステキだからなぁ、としみじみと思う。
穏やかで透明感があって、絵の中から抜け出して来た貴公子のようだ。
「どうしたの?」
自分とダンテさんを見比べ、アレンがかすかに微笑んだ。
「今ね、ナナさんに早く日本に帰りたいか聞いてたんだよ」
ダンテさんが言った。
なんで、いきなりそんな事を聞くのだろう。
しかも貼り付いたような笑顔で。
「そうなんですか。ニホンというのは、ナナさんが住んでいた異世界ですね」
「ああ。アレン君はどう思う?」
「え、どうって……」
ちょっと視線をそらして考えたのち、優しい声でアレンが言った。
「もちろん早く帰れると良いよね。だってご家族が心配して待っているだろう」
うわーそりゃ無いわ。わたしゃ天涯孤独だよ!
と思ったが、彼は自分の身の上など何も知らないのだった。
アレンには、自分の身の上は何も話していない。
それに、何故だろう。
彼の笑顔に今、自分は深く傷ついた。
何故だ、何故こんなにぐっさり彼の笑顔が突き刺さったのか……。
「あ、あ、あの」
顔を伏せて引きつる顔をごまかし、精一杯明るい声で返事をした。
「ありがとうございます!早く帰れると良いなと思います。あの、冷蔵庫に、卵入れっぱなしなので心配だし」
――日本に、帰る……。
いやいや、自分は帰りたいはず。タイゾー君をよんで、二人で帰る約束、のはず。
ふと、誰もいない自分のアパートを思い出した。
背中を丸めてネットでゲームしている自分、ずっと料理をして一人で食べている自分の姿がぼんやりと浮かんだ。
「か、帰りたいですね、早く帰れれば良いなぁ」
なんだか今、心から日本に帰りたいと思えなかった自分が嫌だ。
ここは間違えて来てしまった場所。楽しいけれど、いつか去らねばならない場所なんだから。
◇◇◇◇
「ミーナ」
明るい茶色の髪をした女の子が、メソメソ泣いている金髪の美しい少女の肩を抱いた。
「あんなの悪口よ。あんたが裁縫の成績が良いから、妬いて意地悪言ってるんだわ」
「そうよ、ミーナってば。お兄さんはきっと何も悪くないわよ。アレンさんは優しいお兄さんなんでしょう」
栗色の髪の少女も、金髪の少女を励ますように言う。
「泣かないで。私たち、一緒にお兄さんに会いにいって、ちゃんとお兄さんがステキな人だったって証言してあげるから!」
泣いていた金髪の少女が顔を上げ、手巾で目元を拭った。
「あ、あり、がとう、ふたり、とも」
二人の少女がホッとしたように目配せし合い、泣いている少女の手を取って芝生に腰を下ろした。
「さ、レース編みの課題をやっちゃいましょ。意地悪いう子たちなんか相手にしないで」
茶色の髪の女の子が、サバサバした口調で言った。
「ミーナ、木の実の柄を編み込む方法教えてよ」
栗色の髪の女の子が、穏やかな口調で言う。
ミーナと呼ばれた金髪の女の子が、目元を押さえたまま頷いた。
「うん、わかった。木の実の柄はね……」
その様子を木陰で見ていた、キツい目元の、そこそこきれいな少女が吐き捨てるように言う。
「なによ、あいつ、『ボウリョク男』の妹のくせに生意気よ!レース編みが上手で、ドレスの大店のご主人に褒められたからって図に乗って。だいっきらい!」




