第10話:分からない事がたくさん
「少し埃っぽくて申し訳ないが」
アレンが古びた木の扉を開け、鍵を手渡してくれた。
「寝室の鍵だ。昔、姉が使っていた部屋だから、そこそこまともな部屋だと思う。僕の古着も置いておいたからどうぞ。使ってくれ。家賃などは気にしなくて良い。だが、今度掃除を手伝って欲しいと、あらかじめ君に希望を出しておくよ」
「は、はい、あの」
どうしよう。広い家だけど、あまり良く知らない、すっごいカッコいい人と二人だなんて怖いような緊張するような。こんな地味女で申し訳ないような気すらして来た。
「僕は二階には上がらないから気にしないで欲しい。その部屋には内鍵もあるから安心してくれ。風呂は二日に一回準備するから、そのとき声をかける、じゃあお休み」
「お、おやすみなさい」
お風呂は毎日ではないのか。
だが、アレンは家賃は要らないと言ってくれた。
もはやアレン様と御呼びすべきだろうか。もしくはご主人様とか。
…………。
……申し訳ないなと思う。気を使わせて。
それから、やっぱり若い男前って人生に余裕があるせいか、女にがっついてないよね、とも思った。
ドアの鍵を閉め、貰って来たお湯で体を拭いて、布を綺麗に濯いだ。
それから、置いてあった古着のパジャマを手に取る。
「アレンさん、痩せてるなー。でも足だけ余るなぁ」
小さな木の箒のような歯ブラシで、歯茎を傷つけないよう細心の注意を払って歯を磨き、ごろりとベッドに横になった。
埃っぽくはない。
掃除してくれたのだろう。
それにしても、本当に申し訳ない。
何かお礼しなきゃなぁと思う。
お給料を貰えたら、ちゃんと家賃を入れよう。
雨の音がパタパタと響き続けている。だが雨漏りの無い部屋で、フカフカのベッドで眠れて、とても安心した。
正直に言えば、日本に帰りたい、自分のアパートに帰りたい。
買ったばかりのゲームをプレイしたい。
そう思いながら目をつぶる。
ここはどうやら街に近く、朝の大きな鐘の音が良く聞こえそうだ。
多分あの音で起きられる筈。
ハーマンさんの家の小屋まで聞こえるくらい、大きな音だから。
みんな目覚まし無しで起きているのが立派だ。
自分も、気合いを入れて起きなければ。
そう思いながら、ぐっすりと眠りに落ちた。
…………。
…………。
……あ、やだ、この夢は見たくなかった。ちょっと待て。
そう思うが、ゆるゆると『そのシーン』は始まってしまった。
「綾子は俺が居ないとダメな子だから。あいつの為なら俺、何でも出来る。でもナナは自分で自分の事何でも出来るだろ、俺が居なくても平気だよな」
ああ、二十二歳。結婚予定の約束を反古にされた自分のお団子頭が、寒々としたアパートの部屋で揺れている。
『言い返せー!』
過去の自分にエールを送るが、届かないようだ。
『お前を振った時は正直、ナナは親が居ない女だから、婚約破棄の罪悪感が少なくてすんだなぁと思ったんだ。でも今度は、お嬢様育ちのアイツの親が色々煩くて、結婚するのがウザくなって来た。……だから、ヨリ戻そうぜ』
そんな事を酔っぱらって電話して来たダメ男なんだ、あいつは。
『こらー!もう泣くなー!』
必死に叫ぶが、自分のお団子はずっと向こうを向いて、ゆらゆら揺れている。
あのときの辛さが、まざまざと蘇る。
『でも大丈夫だよ、私今あいつの事、ダメ男だな、結婚しなくて良かったって心から思ってるから。新しい彼氏だっていつか見つかるよ!』
自分のお団子に向かって、そう叫んだ。
実際は、未だに新しい彼氏など見つかってないし、見つかる気配も無いままバイト三昧の日々だったけれど。
『とにかく!頑張れよ!ワタシ!』
三年前の自分にエールを送った瞬間、目が覚めた。
嗚呼。
案の定、泣きながら夢を見ていたらしい。
パンパンの目、重い頭を押さえて起き上がる。
頭痛薬などは無いと思うので、気合いで一日働かねば。
****
「あーあ、もう畑が遠くてイヤになっちゃうよぉ!」
大柄なダントンさんが、お腹をさすりながら言った。
「でも畑に行く為だけに足蛇借りるのも勿体ないし。うちのモココはまだまだ子どもだから俺は乗れないしなぁ」
「そうですね、虹麦は高所の畑で育てた方が良く色が出ますからね」
お客さんもほぼ掃けたので、ダンテさんがカウンターに立って、ダントンさんの話し相手をしている。
自分は何とか頭痛も緩和され、今は無言でひたすら夜の仕込みをしている最中だった。
「二人目が生まれるからさぁ、母さんに無理させられないから、俺が全部刈り取りしないと」
へえ、エレナさん、おめでただったのか。
そう思い、小柄で美しい姿を思い返した。
言われてみれば少しお腹が出ていたような気もする。
すとんとした服を着てるから気がつかなかっただけかもしれない。
デイジーにお手伝いをたくさんさせていたのも、その為なのだろう。
「携行食を持って行ったらどうです。木の実とか、パンとか」
「持って行ったけど足りなくって。奮発して今日はここに食べにきたんだ。暗くなる前にもう一仕事だ」
そう言って、ダントンさんがお代を置いて立ち上がる。
「美味かったよ。畑でも美味い飯が食えたらいいのに。携行食は味気ないよね」
へえ。お弁当を持って行けばいいのに、と思う。
だが、フランスから来た調理師学校の留学生が、『地元では、お昼を食べに家に帰れない時、レストランに行くお金や時間がない時は、サンドイッチを食べるだけだったわよ』と話してくれた事を思い出した。
アメリカ人の子も『ピーナツバターをパンに塗り、紙袋に突っ込む。あとはバナナ。それがマムの愛情弁当だよ』と言っていたし。
日本ではお弁当箱に詰まった美味しいお弁当はポピュラーなものだが、世界的にはあまり無い考え方なのかもしれない。
もちろん、このペレの村でも。
お弁当。
自分に余裕があって、こっちの食材の事がもっと分かったら作って差し入れしたな、と思う。
お世話になったし、赤ちゃんが生まれたら、ますますエレナさんはお料理どころではなくなるだろうし。
胸に抱いた帽子を頭に乗せ、ダントンさんが手を振ってお店を出て行った。
「農家は激務だからねぇ。ダントンさんの畑は広いから。僕は農作業の経験が無くて、彼の本当の苦労は分からないけど」
ダンテさんがそう言って、器用にお皿を重ねて流し台に運ぶ。
「店長って、ずっと料理人をされていたんですか」
そう尋ねると、店長は首を振った。
「いや、昔は都でお城に仕えていた。結婚して店を始めたんだよ」
「そうなんですか」
これ以上聞くのはやめよう。慌てて話を打ち切り、何となくテーブルの中央に掛けられた、細長いテーブルクロスに目をやった。
可愛らしく質素なテーブルクロス。奥様の手作りだという。
ダンテさんの奥様は、どうなさったんだろう。
「そうだ、ナナさんは日本から来たんだよね」
「え?」
「界渡り。世界と世界を渡って来た人間の事だ。アレンから聞いたよ」
「あれ? いつ聞いたんですか」
そう尋ねると、店長がこの前だよ、と笑った。
「明日、都の役人が村に来る。自分が界渡りだと言う事を報告し、支援を仰いだ方がいいと思うよ。ダントンさんやエレナさんに聞いていないかい?」
「あっ」
そうだ。お役人に相談した方が良いといわれていたのだ。
慌てて頷くと、ダンテさんが腕組みをして、箱からお金を出して渡してくれた。
「昨日と一昨日、二日分の給与。これを持って明日村の中央に行っておいで」
「あ、あの、このお金の使い方分かりません。何がどれくらいで買えるのかとか、交通費、えっと、移動にかかるお金とか」
そう言うと、ダンテさんがにこっと微笑んだ。
「そうだね。これだけあれば三食外で食べて、足蛇を借り切っても大丈夫な額だよ。物価の相場はしばらく暮らさないと分からないと思うけど、簡単に説明してあげるよ」
紙にパンの絵を書き、何か記号を書く。
それから可愛い足蛇の絵を書き、お昼の空と、夜の空、それから同じく記号を描いてくれた。
「君に払うお金は、10000ローレだ。あまり出せなくてすまないが。物価だけど、パンは一つだいたい100ローレ。うちで出している長いパンがあるだろう。あのパンの値段だ。ローレはお金の単位だよ。エルドラには貨幣の単位は一つしかないから簡単だと思う」
それから、足蛇の絵を指差す。
「足蛇を昼から夜まで借りると、4000ローレだ。結構かかるけど、餌代や小屋の地代がかかるから高くなるんだよね。君はたぶんまだ足蛇に乗れないから、乗り合い車に乗って目的地を移動するといい。乗り合い車はだいたい300ローレでどこにでも行ける。行く場所の名前と、帰って来る場所の名前も書いておくよ」
そう言って、今度は大きな建物の絵と、ダンテさん自身の似顔絵を描く。
そっくりで、本当に絵が上手だと感心した。
「この建物が村営の公会堂。これは僕の顔。僕の店の側に停留所があるからね」
更に何かを書き加えて、紙を手渡してくれた。
「これが0から9までの数字。組み合わせればどんな金額も読めるだろう。あと、行きと帰りの停留所の名前。僕の顔が、うちの店の傍で、建物の絵が行き先の傍の停留所の名前だよ」
「あ、ありがとうございます!」
なんという過不足ない情報だろう。ダンテさんはかなりの切れ者と見た。
『可愛い絵。絵描きさんだったのかな』
紙を大事に畳んで、エプロンのポケットに仕舞った。
物腰も何となく優しい感じがするし、ダンテさんは本当に絵描きさんだったのかもしれない。
「さあ、スープ用のファルレを捌こうか。コツを教える」
「はい!」
ファルレというのは、ポピュラーなお魚の事だ。
この辺の清流の、幅が広い所で良く釣れる。ダンテさんが朝釣って来たものだ。
薬効のある色々な野菜のソースをかけ、蒸したお芋やお豆を添えて食べてもいいし、切り身のスープを作っても出汁が出て美味しい。
虹魚と違って、ファルレは身に味があるのだ。海の近くまで行って、塩水を飲んでいるせいだろう、とダンテさんは言う。
「鱗をとる時の刃の角度はこう。ファルレの鱗をとる時は刃を寝かせ気味にしたほうがいい」
「ハイ!えと、刃を寝かせる」
メモが欲しいな、と思った瞬間、ダンテさんが胸ポケットから、小さいメモ帳と鉛筆みたいなペンを出してくれた。
「君にあげよう。勉強熱心な生徒だから」
「わあ……ありがとうございます!」
再び身をかがめ、真剣な顔でダンテさんが魚の前に屈み込んだ。
急いで『ファルレ:刃を寝かせて鱗取り』とメモをして、手元を覗き込む。
こちらの魚は、大体骨の形とか、ワタの入っている場所が同じようだ。
川魚ってことは綺麗に内臓取らないと。そう思ってじっと手元を見つめていたら、やっぱり念入りに細かいものまで取り除いていた。
「この筋もちゃんと取ってくれ。色が違うだろう。内臓の色をしているから分かると思う」
「はい」
鮮やかな手つきに見入りながら、またメモを取る。
早く、この人の知っている色々なお料理を覚えたい。材料から何から、知らない事ばっかりだ。
それに、明日お役人さんにあったら、どんな話を聞けるのだろう。
こっちの世界でも、フリーターは大忙しだ。
******
「じゃあ、明日はお休みいただきます。スミマセン」
「いいよ、ちゃんと色々界渡りの話を聞いておいで」
真剣な口調でダンテさんが言う。
もう一度深々と頭を下げ、貰った紙とお金がある事を確認し、緩やかな上り坂を登った。
「あれ?」
「迎えにきた」
アレンが、月のような天体の光を背に立っていた。
「あ、あの、わざわざ、スミマセン」
「いや、夜だから。君には見慣れない獣が出るかもしれないし。居ないと思うけど、妙な男が出ても困るしね。姉に言われているんだ。毎晩迎えに行ってあげてくれって」
そう言って、隣に並んだアレンが静かに歩き始める。
それ以上何も喋らなかった。
「…………」
じっと端正な横顔を見上げて、首をひねった。
この人、ご飯食べてるのだろうか。
何か日に日にやつれ、痩せこけて行っているように見えるのだが。
そもそも仕事はどうしているの? とか、目の下の隈は何なの? とか、色々気になるのだが、何を聞いていいのか分からない。
ダンテさんの奥様の事もそうだけれど、踏み込んではいけない事が、色々とあるようだ。