生方 - 菊
宗太の告白は一時の迷いだと思いたかった菊だが、翌日いつものように現れた宗太が「昨日のことだけど」と話を蒸し返してきた時は、そのままくるりと回れ右をして逃げ出したくなった。
「ちょ、待てって……悪かったよ、急にあんな事言って。でも俺……本気なんだ。だから待つことにする」
期限は宗太が十九になる二年半先の春。村の婚姻適齢からして、それ以上は宗太が行き遅れの烙印を押されることになる。
冬生まれの菊は十五になって、お互いに良い歳であるということになる。
「それまでに菊の気持ちが傾くように頑張るから。菊が俺を好きになるまでは何もしない。だから逃げないで欲しいんだ」
酷く真剣な目で請う幼馴染を嫌だと振り解けるはずもなく、戸惑いつつも首を縦に振るしかなかった。
その一件以来、宗太は自分の仕事や村の手伝いの合間を縫って時間をつくり、ますます菊の傍にいるようになった。
日が落ちるまで傍らにいて、菊の作業を手伝い、語らい、時には共に出掛けたり。
あれこれと気を回してくれるし、生活を助けてくれる。
話題に欠くこともなく色々な事を教えてくれる。頭も良く尊敬出来る男だということも分かった。
養父母とはうまくやっていたつもりでいた菊だが、どうしても親とは思えずに「家においてくれる老夫婦」という認識しか持てずにいたというのに、その二人の世話もしてくれる宗太のおかげで、家族としての絆も深まったように思えた。
これまで森の男以外と親しく過ごした事のなかった菊にとって、刺激的で楽しい日々になった。
そんな仲睦まじい二人の様子に、村の者達はいつ夫婦になるのはいつだろうかと噂しあった。
そんな状況であるから、自然、菊が森に潜む男の元へ通う機会が減ってゆく。
毎日のように訪れていたのが、二日に一度、三日に一度……となり、次第に週に一度会うか会わないかになっていた。
そして春を迎え、菊は十三になった。
菊はもう、幼ない少女ではない。ただ綺麗で食べ物をくれる優しい人―――とだけ思っていた森の男が、尋常ならざる存在であると理解している。
―――人は、血を吸ったりはしないのだ。
あれは六つになった頃だろうか、聞いてみたことがある。
「なんであなたは血を吸うの? 美味しいの? 私が舐めても美味しくなかったよ」
男はふむと頷くと、顎で木陰の茂みを指し示した。
「菊はそこで鳴いておる蛙や、その辺を這い回るネズミなどを進んで食べようと思うか?」
唐突な問いに戸惑いつつも首を横に振ると「だろうな」と男は笑う。
「だがそれらを好物とする生き物は確かに存在する。たとえばヘビ等がそうだ」
その時は答えの意味がよく分からなかったが、今なら理解出来る。
その意味は、男の容姿からも推測される。
出会ったときと寸分違わぬ容姿を保っているからだ。
この九年で大きく成長した自分と違い、男は全く歳を取らぬようだった。
当時は二十代半ばのように見え「おじさん」と呼び、いつしか男を父親のように慕うようになっていたが、今では兄のような存在とでも言えば良いのだろうか……。
その日、森の男と会うのは十日ぶりだった。これほど間が空いたのは初めてのことだ。
いつも通り黙ってナギの木―――王珠―――の枝に腰を下ろしていた男は、菊に微笑む。
(こんな顔で笑う人だったっけ?)
普段軽口ばかり叩いては菊をからかうその顔が、いつになく優しげで戸惑った。
遠くで烏が鳴いている。直に陽が暮れる。
「―――菊」
低く耳に心地の良い声で、ただ名を呼ばれる時―――それは、九年前から続く彼の〈食事〉の合図だ。
久しぶりに名を呼ばれ、ぴくりと反応する身体。
それを誤魔化すように、菊は乱暴に着物の袖をたくしあげ、腕を差し出す。
「……はいはい、どうぞ」
そんな菊の動揺を知ってか知らずか、男は苦笑しながら肘の内側の皮膚を薄く傷つけ、ぷくりと浮かぶ紅の玉に口付ける。
(っ、――――――!)
吸血行為は、いつしか快感でしかなくなっていた。思わずこぼれそうになる声を必死に堪える。
(こんな綺麗な人に唇を寄せられるってだけで、心臓に悪いっていうのに……)
ゆっくりと十を数えるくらいの時間のはずが、異様に長く感じてしまう。
身体全体の血が逆流しているかのような緊張。
押し当てられた暖かな唇。
滑らかに這う舌。
とろけるような瞳。
行為が終わるまで、男は決して菊から視線を逸らさない。
(ああ、その瞳が……!!)
熱を帯びた黒い目に下から覗き込まれると、自分の淫らな気持ちを見透かされているよう。菊は顔を逸らし瞳をぎゅっと瞑って耐える他ない。
だがそれも数瞬のこと。
後はもう何も考えられずに、ぼうっとしてしまうだけ―――。
サブタイトル:「うぶかた」