共生関係 - 男
男は懐から取り出した愛用の徳利を片手に、遠く沈む夕日を肴に酒を呑んでいた。
このナギの大樹―――名は王珠という―――は、男の親友である。友と呑む酒は格別だ。
(些か騒がしいがな……)
眼下では幼子らが群れて駆け回っているが、日暮れ前には帰るだろう。それまでの辛抱だ。
ちびりちびりと酒を嘗めながら、直に夕陽を背に村へと駆けてゆく子供達を見るとはなしに見送る。
(やれ、やっと静かになったな。王珠)
幹に手を当てると、中から声が響く。
((ふふ、まだおちびさんが一人残っているみたいだけどね?))
男の座る位置からは死角になっていて子供の姿は見えないが、一人位であれば五月蠅い事もなかろうと再び杯を口に運ぶ。
だが―――次の瞬間。
くらり。
男は急激な酩酊感に襲われる。
辺りを濃厚な香りが漂い、鼻腔を甘くくすぐる。
「うっ……」
チカチカと目の裏が点滅し、心の臓が激しく波打つようだ。
酷い眩暈からその端正な顔を両手で覆い、倒れ込むように背を幹に預けた。
「っ―――なんだ、この感覚は!」
((あらあら、どうしたの? 大丈夫?))
王珠が気遣わしげに伝えてくるが、男はそれどころではない。
大きく頭を振って意識を保つ。
決して酒に酔ったわけではない。まだまだ序の口であったし、このような酷い酔い方はしたことがない。
((ああ、あの子のせいね―――あなた、免疫ないものねぇ。ま、少しすれば収まるはずよ))
「子供……? 免疫?? なんの事だ」
男は身を乗り出し、王珠の根本にいるであろう子供の姿を探す。
揺れる脳のおかげで危うく枝から落ちかけたが、青く茂る葉の間に童女の姿を捉えた。
どうやら膝から流血しているようだ。己の血で手を紅く染め、震えている。
「……だめ! いっぱいでたら、しんじゃう!!」
切羽詰まった悲痛な声。
男は無意識のうちに身体を宙に投げ出し、声を掛けていた。
「それくらいで死ぬわけがないだろう、愚か者」
「…………え?」
薄闇の中、菊は呆気にとられ男を見上げている。驚きで震えは収まったようだ。
(なんだ、まだ赤ん坊に毛の生えたような童だ……)
男は、一般的な成人男性に比べだいぶ上背がある。腰より下にある菊の呆けた泥まみれの顔を見下ろすが、より一層濃く香る甘い香りが菊から漂っているのだと理解すると、ぐらりと視界が揺らぐ程の例えがたい眩暈が襲ってくる。
「おじさん、だれ? すごくきれいね!」
「…………」
男は答えず、切れ長の瞳を細め大きな体を窮屈そうに屈めると、幼女の骨と皮ばかりの足首をひょいとつまみ上げた。
(原因はこれか……)
男が酔わされていたのは―――甘い血の香り。
何をするのだろうかと首を傾げる菊の足に男は突如、舌を這わせた。
「? ―――ひゃあああ!!!」
小さく細い足が泥にまみれているのも厭わず、脛の辺りから膝にかけて滴る血を下方から丁寧に舐め上げてゆく。
驚きとむずがゆさとで身を捩る菊。
止まらなくなった男は、足首を握る手は緩めずもう一方の空いた手でその薄い肩を押さえ込み自由を奪った。
「いたいよぉ、いやあぁ―――やめて!!」
甲高い悲鳴をあげる少女。
無意識に傷口に歯を立てていたが、構う余裕はない。夢中だった。
蜜のように甘く、極上の酒のようにまろやか―――紅の液体に脳が支配され、とうに思考は停止している。
脇目もふらず、ずずずと音を立てて吸い付く。
((……囚われたわね))
王珠がぽつり、静かにこぼす。
囚われたのは果たして、拘束された少女か―――血に呑まれた男か―――。
落ち着いてゆっくりと味わう余裕が出来てきた頃、菊の抵抗が弛み出した。
「―――ふぁ……なんか、きもちいい……」
その声に目線のみを上げると、焦点が合わずぼんやりとした表情を浮かべる幼女の顔がある。
(ほう、童であっても女であることに変わりはないということか)
己の唾液には催淫効果がある。相手が女であれば、その徴候は殊更顕著に現れる。
更にそれには治癒の能力も含まれていることから、破けていた皮膚が修復しているはずだ。
(もう十分だな)
口の端についた血液を舌で舐めとりながら、ゆっくりと手を離し、ふんわりと夢見るような表情の菊に確かめるように声を掛けてみる。
「どうだ、もう痛まないだろう?」
「…………え? あ、ほんとだ」
ぼうっとした表情のまま緩慢に頭を動かし、傷口を確認する菊。
傷口は綺麗に塞がっている。
「生娘の血はこの上ない甘露だと言うが……なるほど、おまえのような童も生娘には違いないか」
頬を緩め顎に手を当て、考えながら菊を見下ろす。
「ふむ。おまえ腹が減っているのだろう? どうだ、我と取引をしないか」
膝を屈伸させ、傷口のあった場所に見入っていた菊は首を傾げて男を見た。
「ああ、意味が通じないか? 我に血を少しばかりよこせば、おまえに食い物をくれてやろうと言っているのだ」
「えっと……菊の血がほしいの? でも、いたいのはイヤだよ」
「……す、すまぬ。先程はつい行き過ぎた。次からは痛みを感じないよう、配慮する」
男は気まずそうに目を逸らす。
(知らず夢中になったとは言え、このような子供を傷つけるとはな。失態だ)
「そっか。いたくないならいいよ。まんま、たべたいもん!」
ようやく笑顔を見せた子供の頭に、男は満足げに手を乗せ、わさわさと撫で回した。
―――これが、名も知らぬ男と菊の不思議な共生関係の始まりだ。