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第五話「その人の香り」

美月と別れたあと、僕は一人で歩いていた。


『忘れなきゃいけない人なんだ、って』


その言葉が、頭から離れなかった。


十年前の僕は、その人を知っていた。


そして――


忘れようとしていた。


ふと、美月のもう一つの言葉を思い出した。


『その人のことを聞いても、名前は教えてくれないし、どんな人なのかも、あんまり話してくれなかった』


どうしてだろう。


美月とは、昔から何でも話してきた。


くだらないことも。


仕事の愚痴も。


誰にも言えないような悩みだって。


それなのに、なぜ。


その人のことだけは、話さなかったのだろう。


名前を言いたくなかったのか。


それとも――


言えない理由があったのか。


僕は、歩きながら小さく息を吐いた。


考えても、答えは出なかった。


今の僕には、


顔も。


名前も。


どこで出会ったのかも残っていない。


残っているのは、あの香りだけだった。


しばらく歩いたところで、ふと足が止まった。


一軒の香水店だった。


ガラス越しに、いくつもの香水瓶が並んでいる。


少し古びた木の棚。


柔らかな橙色の照明。


長い間、そこに店を構えているような佇まいだった。


普段なら、そのまま通り過ぎていたと思う。


でも、その日はなぜか気になった。


僕は少し迷ってから、扉を開けた。


店内には、いくつもの香りが漂っていた。


花の香り。


柑橘の香り。


甘い香り。


木のような香り。


僕は棚に並んだ香水を、いくつか試してみた。


一本目。


違う。


二本目。


これも違う。


三本目。


……違う。


名前も知らない。


ブランドも知らない。


ボトルの形さえ知らない。


それなのに――


違うということだけは、分かった。


『何かお探しですか?』


声をかけられ、振り向いた。


店員が穏やかな表情で立っていた。


「あ……昔、どこかで嗅いだ香りを探していて」


『どんな香りですか?』


僕は少し考えた。


「花みたいで、少し甘くて……でも、甘すぎなくて」


目を閉じる。


あの一瞬を思い出す。


「その奥に、乾いた木みたいな温かさがあるんです」


店員はいくつかの香水を選んでくれた。


一つずつ試してみる。


でも――


やっぱり違った。


「……どれも違う気がします」


そう言うと、店員は少し考えた。


『香りというのは、不思議なものなんですよ』


「不思議?」


『同じ香水でも、つける人の肌や体温で印象が変わります。それに、つけてからどれくらい時間が経っているかでも、香りは少しずつ変化していきます』


僕は手に持っていた試香紙を見つめた。


「……ということは、試香紙で嗅いだ香りと、実際に誰かがつけている香りとでは、違って感じることもあるんですか?」


『はい。肌の上で時間とともに変化した香りは、試香紙で確かめたときとは、違った印象になることがあります』


店員はそう言って、柔らかく微笑んだ。


『もしかしたらあなたが覚えているのは、香水そのものではなく――』


一度、言葉を止めた。


『その人の香りなのかもしれませんね』


その人の香り。


なぜか、その言葉だけが胸に残った。


結局、


あの香りは見つからなかった。


僕は店を出て、そのまま家に帰った。


夜。


ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。


目を閉じると、


今日のことばかりが浮かんでくる。


美月の言葉。


『忘れなきゃいけない人なんだ、って』


そして、


香水店の店員の言葉。


『その人の香りなのかもしれませんね』


香水の名前は分からない。


そして、


その香りを纏っていた人も分からない。


分からないことが、


一つから二つに増えただけだった。


……いや。


僕は目を開けた。


今日のカフェが頭に浮かんだ。


白いカップ。


立ち上る湯気。


コーヒーの香り。


そして――


その中に、一瞬だけ混じったあの香り。


あのとき、


店員がコーヒーを置いた直後に香った。


だから僕は、


なんとなく店員の香りだと思っていた。


でも。


本当にそうだったのだろうか。


あのカフェには、


他にも何人もの客がいた。


僕の近くを通った人もいた。


途中で店を出ていった人もいた。


もし――


あの香りが、


店員のものではなかったとしたら。


僕はベッドから起き上がった。


スマートフォンを手に取る。


今日、カフェに入った時間を確認した。


その瞬間、


一つの可能性が頭に浮かんだ。


あの香りを纏っていた誰かが、


今日、あの時間、あのカフェにいた?


胸の奥が、微かにざわついた。


同じ曜日。


同じ時間。


もう一度、あの場所へ行ったら――


その人に、


会えるだろうか。


僕はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。


そして、


一週間後の同じ曜日を確認した。

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