紅玉の砦
白貂歴九十八年。大陸の北を統べるグラン・セザール帝国の蹄は、ついに南方の碧き宝石、リヴァ・デル・ソーレ連邦の喉元にまで達していた。
重厚な白銀の甲冑を纏い、組織化された騎士団を擁する帝国軍。彼らの進軍は冷徹な秩序の拡大であり、対する連邦は、運河沿いに芸術を愛する小国家が集まる連合体であった。
優雅なマントを翻し、傭兵隊長が指揮を執る連邦の軍勢は、その自由の美学ゆえに帝国の規律正しい鉄の足並みに屈しつつあった。
戦略上の要衝である“賢者の運河”を制圧した帝国軍は、そこに一つの記念碑的な建造物を打ち立てた。『白き天蓋』――往来する商船から税を徴収するための城塞である。
運河を望む正面から見れば、それは溜息が出るほどに美しい白亜の城であった。繊細なゴシック様式の尖塔が空を突き刺し、壁面には帝国の威厳を示す壮麗な浮彫が施されている。だが、その実態は虚飾の巨塔に過ぎなかった。
戦線の維持を急ぐ帝国司令部は石工たちの工期を極限まで削った。その結果として城の裏側、すなわち帝国支配圏から見える側は、剥き出しの足場と薄い木板に漆喰を塗っただけの文字通りの張りぼてである。
防衛のための銃眼も堅牢な石落としも、そのほとんどが絵に描かれた偽物だった。それでもそこに集う帝国軍を恐れて貴族領主は逃亡し、近隣の町村は戦わずして帝国の軍門に降った。
その中に、小さな港町ポルト・アズーロがある。
ポルト・アズーロの潮風は、かつての自由を忘れさせるほどに重く沈滞していた。
広場に屯する帝国兵たちは優雅にワインを呷りながら完成したばかりの白き天蓋の美しさを眺めていた。町の住人たちは目を伏せ、支配者の影を避けて歩く。
その静謐を破ったのは一人の男の乱暴な足音だった。
ロレンツォ・イル・ロッソ。親しい仲間にはただ「赤毛」と呼ばれる漁師は、その名の通り燃えるような赤髪を潮風になびかせて広場を横切った。彼の肩には釣り竿が掛けられ、ベルトに手入れの行き届いた一振りのブロードソードが無造作に提げられている。
「おい、漁師。どこへ行く?」
帝国兵の一人が嘲笑を浮かべて声をかける。ロレンツォは足を止めることなくル・シエル・ブランを示した。
「あそこの美しい書き割りのところだ」
彼は懐から白い布を取り出し、それを釣り竿の先に結わえた。休戦の意を示す白旗だ。
人々が窓から、あるいは路地の影から息を呑んで見守る中、ロレンツォは一人で賢者の運河沿いの街道を歩き、白亜の城へと向かった。
城門の前には帝国の誇るシュヴァリエたちが彫像のように整列している。
「止まれ、身の程知らずの民草よ」
先頭に立つ騎士、ジャン・ルロワが声をあげた。彼の甲冑は午後の陽光を反射し、眩いばかりに輝いている。ロレンツォは休戦旗を地面に突き立てた。
「俺はポルト・アズーロのロレンツォだ。城の主に伝えてくれ。この白いシミの完成を祝い、決闘を申し込みにきたってな」
騎士たちは顔を見合わせ、やがて腹を抱えて笑った。
「貴様が決闘だと? 魚の鱗を剥ぐ包丁で、我ら帝国の鋼を叩こうというのか」
「まあ、笑ってやるな。面白そうではないか」
城壁の上でその様子を眺めていた守備隊の士官が、退屈しのぎに顎をしゃくった。
「相手をしてやれ、ジャン。ただし殺すのは三合以内にな。あまり血で汚すと漆喰が剥げてしまう」
ジャン・ルロワは優雅な所作で剣を抜いた。
「身分を弁えぬ愚か者よ、我が剣の錆となる栄光を授けよう」
対するロレンツォは構えすら取らなかった。ただ荒れた手のひらで剣の柄を握り、深く呼吸する。
ジャンが鋭い踏み込みと共に突きを放った。帝国の剣技は直線的で、優雅だが力強い。ロレンツォの身体が波を避ける小舟のように滑らかに沈んだ。
「――何っ!?」
次の瞬間、銀色の旋回が空を斬り、鈍い音が響いた。ロレンツォの剣がジャンの甲冑の継ぎ目、喉元の隙間を正確に捉えていた。
一撃。ジャンの巨体が崩れ落ち、白亜の石畳を鮮血が汚した。運河のせせらぎすら消し去るような静寂が城門の前に満ちてゆく。
「……次だ」
ロレンツォは短く言うと、士官の顔から余裕が消えた。
「貴様ら、何をしている! 奴を捕らえろ!」
「これは決闘だと言ったはずだ。一対一。それが騎士の誇りなんだろう? 帝国さんよ」
彼の言葉は帝国兵たちの名誉という鎧の急所を鋭く突いた。この男を集団で襲えば、帝国の騎士道が漁師一人に屈したと認めることになってしまうのだ。
五人の守備兵が、一人ずつ前へ出た。
二人目は重い戦斧を振るう巨漢の兵士。ロレンツォは網を打つような変幻自在の歩法で懐に潜り込み、その脇腹を裂いた。
三人目は転じて痩身ながら繊細な細剣の使い手。ロレンツォはわざと左腕を差し出して貫かせた。相手が勝利を確信し、剣を引き抜こうとした刹那、自身の肉で剣を固定したまま右手のブロードソードで首を撥ねた。
四人目、五人目と凄絶な血飛沫をあげ、白亜の城門前はもはや美しい景観ではなくなっていた。ロレンツォの身体もまた傷つき、破れた投網のようにあちこちが裂けていた。左腕はだらりと垂れて感覚を失い、脇腹から止め処なく血が溢れて足元を滑らせる。
視界が赤く染まるごとにロレンツォの顔面は蒼白となった。
「……次」
ロレンツォは折れかけた剣を杖代わりにして、辛うじて立っていた。
六人目の挑戦者は歴戦の曹長だ。彼はロレンツォの消耗を見て取り、勝利を急がず慎重に間合いを詰めた。ロレンツォの動きは明らかに鈍っていた。曹長の刺突がロレンツォの胸を深く抉る。
「終わりだ、漁師」
曹長が静かに呟いた。だが、ロレンツォの瞳に宿る炎は消えなかった。彼は刺されたままなお城門に向かって前進し、まるで旧友に会ったかのような仕草で曹長の肩に腕を回した。至近距離。ロレンツォは残った力のすべてを剣の柄に込め、相手の喉笛を突き上げた。
相打ち。曹長が絶命すると共に、ロレンツォの剣が折れた。
そしてル・シエル・ブランの城門が重々しく開き、一人の男が現れた。この城を預かる指揮官、帝国軍の名将アルテュール・ド・モンモラシー将軍である。
アルテュールは自身の部下を死体の山に変え、もはや死に体でなおも城を睨みつけている漁師を、複雑な眼差しで見つめていた。
「貴公、一体何を求めてここへきたのだ。たった一人でこの城を奪い返せるとでも思ったのか?」
そのアルテュールの問いに、ロレンツォは血を吐きながら笑った。
「奪い返す? ……城なんざ、どうでもいい。これは、あんたらが建てたもんだ。俺は……俺たちの海に、こんな……嘘っぱちの書き割りを立てられたのが……我慢ならなかっただけだ」
震える手で剣を握り直し、ロレンツォは瀕死であることが嘘だったかのように背筋を伸ばした。
「俺らの愛する、自由ってのはな……その場凌ぎの漆喰なんかじゃ……潰れねえんだよ」
将軍は目を伏せて沈黙した。彼はプロの軍人だ。この白き天蓋がいかに虚飾に満ちた、兵站の都合だけで作られた張りぼてであるかを誰よりも知っていた。そして目の前の男が体現している執念こそが、帝国が最も恐れるべき真の城塞となることも。
「諸君、下がれ」
アルテュールは自らマントを脱ぎ捨て、長く戦場を共にしてきた名剣オルフェを抜いた。
「将軍! そのような瀕死の男を将軍が相手にするなど!」
「黙れ。彼は一人の兵ではない。連邦の魂そのものだ。我らが偉大なるグラン・セザール帝国がこの地を真に支配せんとするならば、私はこの男の挑戦を、一個の武人として受けねばならぬ」
夕刻の光が、血に染まった白亜の城をさらに紅く染めあげた。
アルテュールの剣は雷光の如き速さであった。対するロレンツォはすでに立っていることさえ不思議な状態。にもかかわらず、彼が剣を振るうたび、そこにはポルト・アズーロの波濤が、リヴァ・デル・ソーレの風が宿るかのような重圧があった。
数合の激突、アルテュールの剣がロレンツォの肩を切り裂いた時、ロレンツォの折れた剣の切っ先もまたアルテュールの右腕の装甲を砕き、骨に達した。オルフェが指先から落ち、墓標のごとく地に突き刺さる。
「……お見事」
アルテュールが呟いた瞬間、ロレンツォは最後の力を振り絞って跳躍した。漁師が荒波を飛び越える、生命の最後の躍動だった。
将軍が即座に差し出したマイン・ゴーシュがロレンツォの心臓に達するのと同時、ロレンツォの折れた刃が将軍の兜を割り、アルテュールの金髪が露わになる。
アルテュールはよろめきながら後退し、地面に手をついた。ロレンツォは立ち尽くしたまま動かない。
「……勝者、ロレンツォ・イル・ロッソ」
帝国の見届け人が声を震わせながら宣言した瞬間、ロレンツォの瞳から光が消えた。
ル・シエル・ブランの城門前には深い静寂と敬意が広がっていた。アルテュール将軍は傷ついた身体を引きずりながら立ち上がり、息のない漁師の前に跪く。
「紺碧の運河に眠れる獅子、真なる騎士よ。この城は貴公のものだ」
数日後、グラン・セザール帝国は驚くべき通達を出した。賢者の運河に築かれた白き天蓋を放棄し、その領地ごと連邦へと返却したのだ。亡きロレンツォ卿には帝国の伯爵位が追贈されることとなった。
再び連邦首都に向けて大規模な進軍を開始した際にも、帝国軍はポルト・アズーロおよびその周辺の町村には一切手を出さず、軍を大きく迂回したという。
そして聳え立つ白亜の城塞をロレンツォ卿の墓標として仰ぎ見るのだった。
城塞は港町の民の手によって長い時間をかけて改修されていった。張りぼての書き割りの裏側は波を耐え忍ぶ堅牢な石材で補強され、リヴァ・デル・ソーレの自由を誇る砦へと生まれ変わったのだ。
かつてロレンツォ卿の血によって購われた白亜の城塞は今、その外見にはそぐわぬ『紅玉の砦』の名で呼ばれている。
陽が沈むたびに真っ白な城壁が深紅に輝いた。その紅色が示すのは、かつて一振りの剣が流した血と、一途な誇りを持った人間の意志であるという。




