全知全忘の賢者 ~叡智の果てにあるもの~
古い石塔の最上層、風と塵だけが出入りする円形の書庫で、老人は一冊の本を閉じた。
乾いた紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
老人――グロトネリア・アノムネシスは、しばらく目を閉じていた。瞼の裏で、今しがた読んだ文字列が薄れていくのを感じていた。術式の骨格、理論の接合、魔力循環の臨界点、数百年前に途絶えた流派の奥義。つい先ほどまで確かに理解していたはずのものが、水に溶かした墨のように輪郭を失い、静かに、しかし確実に消えていく。
彼は紙片を取り、慣れた手つきで短く記した。
『読了。第七式連環術の欠陥を把握。応用可能。だが内容の保持は期待するな』
書き終える頃には、もう欠陥の内容は霧散していた。
グロトネリアは薄く笑った。
「やれやれ。今日も私は、うまく食えたらしい」
机の周囲には紙片が散乱していた。自分宛ての覚え書き。索引。注意書き。戒め。警告。中には、走り書きのような一文もある。
『これは重要だ。必ず先に読め』
『お前は自分が思う以上に忘れている』
『空腹時の判断を信用するな』
『だが、空腹でない時など一度もない』
どれも彼自身の筆跡だった。
彼は自分が失われ続けていることを知っていた。知識を得ねば生きられない。だが得た知識はそのまま燃料となり、彼の命を繋ぐために消費される。食事と同じだ。咀嚼し、呑み込み、吸収し、残らない。満腹もない。ただ飢えだけが、絶えず彼の内に口を開けている。
だからこそ人は彼をこう呼んだ。
底無しのグロトネリア。
かつてその異名は、彼の持つ叡智に向けられたものだった。どれだけ学んでも尽きぬ知識。どれほど深く覗いても底の見えぬ理解。人々は畏れと敬意を込めて言った。あれは底無しだ、と。あの賢者の頭脳は、知の深淵そのものだ、と。
だが今、その名は別の意味を得ていた。
底がないのは知識ではない。飢えだ。
留まらないのは叡智ではない。命だ。
満たされぬのは器ではない。彼という存在そのものだ。
石段を上る足音がした。
書庫に現れたのは、若い学徒だった。旅の塵にまみれ、両腕に分厚い書物を抱え、しかしその目には妙な熱があった。何かに憧れ、それが現実になったことをまだ信じ切れていない者の目だ。
「……本当に、いた」
「失礼だな。伝説というのは、案外くたびれているものだよ」
学徒は慌てて頭を下げた。
「大賢者グロトネリア殿。私は旧王都学院の末席に連なる者です。どうしても、あなたに会いたくて」
「なら会った。用は済んだかね」
「い、いえ。教えを請いたく」
グロトネリアは椅子にもたれた。骨ばった指先で机を軽く叩く。
「教え、か。困ったね。私は書けば忘れるし、話せば零す。昔の私は、随分と景気よく知を振る舞えたらしいが」
「らしい、とは……」
「記憶が連続していないんだよ」
学徒は息を呑んだ。
グロトネリアは静かに続けた。
「私の記憶は都度継ぎ足され、継ぎはぎされたものだ。本当の私を構成していた記憶は、とうにない。壊れた船を直し続けて、その木材がすべて入れ替わったとき、それは元の船と言えるのかな」
学徒は答えられなかった。
老人はわずかに首を傾げた。
「では、どこまでが私で、どこからが別の何かなのか――」
短く息を吐く。
「その境目を、私は知らない」
声音は穏やかだった。悲壮でも、激情でもない。ただ長い時間をかけて自分を観察し続けた者だけが持つ、乾いた透明さがあった。
「私は穴の開いた器なんだ。器からは絶えず水が漏れている。だから私は、その都度、水を継ぎ足す」
「……虚しくは、ないのですか」
「虚しいとも」
即答だった。
「忘れるために憶え続ける。滑稽な話だろう。だがそれでも、人は自分であることを捨てられないんだ」
学徒は抱えていた本を胸元へ引き寄せた。何かを言いかけ、やめる。代わりに周囲を見た。床を埋める膨大な紙片、壁一面の棚、書物に挟まれた無数の栞、そして中央に座る、痩せさらばえた老人。
ここは墓所に見えた。知識の墓所。いや、違う。墓では終わりすぎている。ここは消化器官だ。世界から集められた知識が流れ込み、咀嚼され、消えていく場所。生きるためだけに。
「なぜ、こんなことに」
その問いに、グロトネリアは少しだけ沈黙した。
「神に近づきすぎた」
それだけで、空気が変わった。
「昔の私は、愚かなほどに賢かった。ありとあらゆる魔法、技術、言語、信仰、暦法、元素、霊脈の理まで、貪欲に集めたよ。知りたかった。世界の仕組みを。神の構造を。いや、違うな。私はおそらく、知ることで神に並べると思っていた」
老人の目は、書庫ではなく遠い夜空を見ていた。
「ある夜、世界が繋がった。星の配置と魔法陣。祈祷文の語順と元素配列。生命の成り立ちと死の返還。すべてが一つの構造として見えた。理解した、というより、触れたと言うべきかな。神とは全知ではない。矛盾なく存在すること、そのものだった」
学徒は喉を鳴らした。
「では、あなたは……」
「届きかけた。だから裁かれた」
雷に打たれたわけでも、炎に焼かれたわけでもない、と彼は言った。
「神は私から知を奪ったのではない」
静かに、断言する。
「私の在り方を、本来の姿に戻しただけだ」
指で自らの胸を叩く。
「一動物に過ぎない人間を、動物として」
ゆっくりと続ける。
「動物は食う。食わねば死ぬ。それだけだ」
わずかに笑う。
「だから神は、私の叡智を食物に変えた。知識は保存されない。理解は燃料となる。私はただ、生きるために食らう存在になった」
学徒は、はじめてその言葉の重さを理解した。
暴食の賢者。
底無しのグロトネリア。
それは大罪の誇示ではない。飢餓の告白だった。
「ですが……それでもあなたは、まだ賢者です」
「買い被りだよ」
「いいえ」
学徒は一歩、前へ出た。
「もし本当にただの獣なら、自分が墜ちたことを理解できないはずです。自分が失われていると知りながら、それでも学ぶことをやめない。そこに、あなたの人間性があるのではありませんか」
グロトネリアは学徒を見た。若い瞳は震えていたが、逸れなかった。
「人間性、か」
「あなたは今も航行している。船の部材がすべて替わっても、航行を続けている限り、その船はまだ船です」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、くつくつと喉の奥で笑った。
「若いな。実にいい。若さとは、まだ言葉を信じていられることだ」
だが、と彼は付け加えた。
「私はその言葉に救われるべきではないのかもしれない」
視線をわずかに落とす。
「私は多くを食った。世界から、時代から、人から。禁術、秘法、失われた系譜、誰かが命を賭して遺した真理。そのいくつが私の腹で消えたと思う」
「それでも、あなたが食わねば失われていた知もあったはずです」
「慰めだね」
「事実です」
学徒は抱えていた本を差し出した。黒革の装丁、封印の刻印、尋常ではない圧。見ただけで分かる。高位の禁書だった。
「これは?」
「旧王都の地下封書庫にあったものです。封印指定。読むことも、写すことも禁じられていた。けれど、私には理解できなかった。たぶん、今の時代でこれを扱えるのは、あなただけです」
グロトネリアの腹の底で、飢えが身を起こした。
本能的な渇き。
知識の匂い。
高密度の理論が持つ、甘美で冷たい気配。
彼はそれを悟られまいとして、指を組んだ。
「残すべきものかもしれないぞ」
「はい」
「後世のために封じるべき知識かもしれない」
「はい」
「私が読めば、私は生き延びる。だが内容は私の中で食われる」
「……はい」
学徒の顔は青ざめていた。自分が今、何を差し出しているのか理解しているのだろう。
グロトネリアは静かに言った。
「私は選ばない」
そして、続ける。
「私は、食う」
頁を開く。
文字が流れ込む。
理解が立ち上がる。
そして――燃える。
すべてが消える。
彼は本を閉じた。
「……ああ」
「何が書かれていたのですか!」
グロトネリアは目を細めた。
「素晴らしいものだったよ」
間。
「もう、ないが」
学徒は言葉を失った。
グロトネリアは紙片を取り、新たに書き始める。
『黒革の禁書を読了。極めて高度。危険。詳細は失われた。だが読む価値はあった』
書き終え、紙片を重ねる。
その手は迷いなく、あまりに慣れていた。
「君」
「……はい」
「もしまた来るなら、本を持ってきなさい。あるいは、問いでもいい」
「あなたは、また忘れるのに」
「忘れるとも」
彼は笑った。
その笑みには自嘲も諦観もあった。だが、それだけではなかった。
「それでも人は、自分であることを捨てられないんだ」
そして、静かに付け加えた。
「どこまでが私で、どこからが違うのか――」
わずかに目を細める。
「そんなことを考える余裕も、あまりないがね」
学徒は深く一礼し、去っていった。
足音が遠ざかる。
再び、書庫には老人だけが残る。
グロトネリアは棚から次の書を抜いた。
頁を開く。
文字を追う。
世界の断片がまた一つ、彼の中へ流れ込んでくる。
かつて人々は、その知を見て彼を底無しと呼んだ。
今、人々はその飢えを見て彼を底無しと呼ぶ。
どちらも正しいのだろう、と彼は思う。
底がないのではない。
底に辿り着く前に、すべてが食われるだけだ。
それでも彼は読む。
生きるために。
失うために。
そして――
おそらくはまだ、わずかに自分であるために。
叡智の果てにあるものは、全知ではない。
空腹だ。
叡智の果てに、神はいなかった。
いたのは、ただ一人の老人だった。
飢えたまま、学び続ける老人が。




