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第1話:空っぽの少女が、アリスを名乗るまで

「――っ、あああああああ!!」


 喉が裂けるような悲鳴が、重力のない虚空に吸い込まれていく。


 自分が誰なのか、どこにいたのか。そんな思考さえ、吹き荒れる風に剥ぎ取られていく。

 視界に映るのは歪んだ時計の文字盤、宙を舞う巨大なトランプの束、そして色とりどりの液体が詰まったフラスコ。それらが万華鏡のように回転しながら彼女を追い越していく。


 彼女――淡い色のワンピースを纏った少女は、ただひたすらに「下」へと落ち続けていた。


(死ぬ。また死ぬの?)


 なぜ「また」と思ったのか、自分でも分からない。

 ただ、胸の奥に冷たい氷の塊が居座っているような、ひどい喪失感だけがあった。

 涙が風にさらわれ、真上へと流れていく。

 落下速度が加速し、視界の底に地面が迫る。


「嫌だ、助けて……っ!」


 彼女が強く目を閉じた瞬間。


 ボヨン。


 あまりにも場違いな、弾力のある音が響いた。


「……え?」


 恐る恐る目を開けると、彼女は真っ赤な傘の巨大なキノコの上に横たわっていた。

 直径五メートルはあるだろうか。雪のような白い斑点が点在するそのキノコは、まるで高級なソファのように彼女の体を柔らかく受け止めていた。


 起き上がろうとして、自分の手を見る。

 指先がわずかに透けている。まるで、現像に失敗した写真のように。


「私……生きてるの?」


「いいえ。残念ながら、あなたは一分と十六秒前に完全に死んでいますよ」


 冷ややかで、どこか事務的な声が降ってきた。

 顔を上げると、キノコの縁に一匹の「紳士」が立っていた。


 体長は人間ほど。ぴんと直立した白い耳。

 体に寸分の狂いもなくフィットした黒のタキシードを纏い、胸元には銀のチェーンで繋がれた懐中時計が揺れている。手には艶やかに磨き上げられた黒塗りのステッキ。

 そのうさぎは、眼鏡の奥の赤い瞳で無遠慮に彼女を観察していた。


「……うさぎ? 喋った……?」


「私はこの世界の管理人。便宜上、時計うさぎとでも呼んでいただきましょう。もっとも、私はあなたのように時間を浪費する趣味はありませんが」


 うさぎはカチリと懐中時計を閉じた。


「ここは今際の世界。生と死の境界線です。あなたはあちら側の世界で命を落とし、本来なら無に還るはずでした。しかし、あなたの魂にはひどく厄介なノイズが混じっている」


「ノイズ……?」


「未練ですよ、お嬢さん。自分が誰なのか、何に絶望して死んだのか。それさえ思い出せないほど深い未練が、あなたを消滅から繋ぎ止めている。不格好ないかりのようにね」


 時計うさぎはステッキで彼女の胸元を指した。

 そこには、青白い光を放つ電子回路のような模様が痣のように浮かび上がっていた。


「私は……自分が死んだ理由も、名前も、思い出せない。どうして……」


「それが未練の性質です。核心だけが霧に包まれる。ですが、のんびり自分探しをしている時間はありませんよ」


 ゴロゴロという、腹の底が響くような雷鳴が轟いた。

 パステルカラーに彩られていた空の一部が、墨を零したようにどす黒く変色していく。


 時計うさぎの表情から余裕が消えた。


「いけない。”雨”が来ます」


「雨? 傘なら……」


「馬鹿をお言いなさい!」


 うさぎはステッキを地面に叩きつけた。


「この世界の雨は、魂を溶かす酸と同じです。一滴でも浴びればあなたの未練も、わずかに残った記憶の断片も、存在そのものがドロドロに溶けて消滅する。そうなれば、あなたは二度と輪廻には戻れない」


 空から、ポツリと最初の一滴が落ちてきた。

 それが巨大なキノコのカサに触れた瞬間、ジュウという不快な音と共に、真っ赤な表面が焼けただれ黒い煙を上げた。


「ひっ……!」


「来なさい! 雨が本降りになる前に唯一の安全地帯セーフハウスへ向かいます。私の足跡を外れる者はここで永遠に迷子になるだけです!」


 うさぎはタキシードの裾を翻し、驚異的な跳躍力でキノコから飛び降りた。

 私も必死にスカートを抑えながら、その後を追う。


 巨大なトランプの壁が迷路のように入り組む道を駆け抜け、不気味に笑う花の原生林を突き進む。背後からは、降り始めた雨が地面を溶かす、不気味な「シュルシュル」という音が迫っていた。


「どこへ行くの! どこなら安全なの!」


「決まっているでしょう」


 走りながら、うさぎが振り返る。その赤い瞳が雷光に照らされて鋭く光った。


「迷える魂が最後に集う終点の街――ワンダーランドですよ!」


 前方の霧が晴れ、巨大な鉄の城壁に囲まれた都市が見えてきた。

 ネオンサインが毒々しく明滅し、蒸気機関の煙が空を焦がす、美しくも歪な終着駅。


 鉄の門が、重々しい金属音を立てて閉ざされた。

 門の向こう側では、あれほど私を追いつめていた「溶解の雨」がまだ石畳を激しく叩きつけている。しかし、この街に入った途端、雨の音は嘘のように遠ざかりどこか遠い国のラジオ放送のようにくぐもった音に変わった。


「……ふぅ」


 私は冷たい石畳に手をつき、荒い息を整えた。

 心臓がまだ、現世の残り火のように胸を打っている。ふと顔を上げると、先ほどまで彼女を導いていたはずの時計うさぎが、すでに数メートル先で懐中時計を覗き込み、眉間に深い皺を寄せていた。


「どうしたの?」


「……遅れましたね。あと三分、いや五分は予定より早着すべきでした。この街の時は、少しばかり狂いやすいのでね」


 うさぎは苛立たしげに耳をぴくりと動かすと、杖で地面を規則正しく叩いた。コツ、コツ、コツ。そのリズムはまるで心拍のようだ。


「これで私の役目は終わり。雨からは逃げ切った。あとは勝手にしなさい」


「えっ……待って! 私はどこへ行けばいいの? ここで何をすればいいのかも分からないわ」


 彼女が縋るように手を伸ばすとうさぎは銀縁の眼鏡を押し上げ、冷徹な赤い瞳で彼女を一瞥した。その視線には、慈愛のかけらもなかった。


「ここはワンダーランド。迷い子の集まるゴミ捨て場であり、終着駅でもある。あなたが死んだ事実を受け入れ、ここで自分を見つけるか、あるいはこの街の住人となって永遠に彷徨い続けるか。……それはあなた次第です」


「自分を見つける……?」


「思い出してください。あなたが誰であったのか。あなたが何を悔やんで死んだのか。それさえ明確になれば、次の扉は開かれる。ですが、私にはもう別の迷い子を迎えに行く義務がある。あいにく、私を待つ時計は一つではないのでね」


 うさぎは黒いタキシードの裾をひらりと翻した。その動きは機械仕掛けの人形のように滑らかで、一切の迷いがない。


「待って!」


 私の呼びかけを無視して、うさぎは蒸気が立ち込める路地裏へと姿を消した。彼の去った場所には焚き火の煙のような微かな焦げた匂いと、秒針の音だけが取り残された。


 独り、取り残された。

 巨大な鉄の門の内側には、見たこともない光景が広がっていた。


 空はどす黒い紫色の絵の具をぶちまけたような色をしており、太陽の代わりに、巨大な歯車がゆっくりと回転している。街を構成する建物はどれもが奇妙に歪んでいた。ある建物は天井が地面を向いており、ある家は窓からネオン色のツタが這い出している。


 私は震える足で歩き出した。

 どこへ向かえばいいのか分からない。ただ、この街の奥から流れてくる、蒸気機関の不協和音のような音楽に導かれるように足を進めた。


「迷子かな? それとも、ただの忘れ物かな?」


 不意に、頭上から声が降ってきた。

 見上げても誰もいない。ただ、巨大な三日月形のネオンサインが、夜空に浮かんでいるだけだった。


「……誰?」


「誰でもいいよ。誰でもないかもしれないしね」


 声は甘く、ねっとりとしていた。

 すると、視界の端で空間が歪み始めた。まるで熱波に揺れる蜃気楼のように、紫とピンクの縞模様が空中に編み込まれていく。

 やがて、その歪みの中に「笑み」が浮かび上がった。


 三日月のような、深すぎるほど深い笑み。


 そして、ゆっくりと姿を現したのは、巨大な猫だった。しかし、その体は半透明で、ところどころがデジタルノイズのように点滅している。


「猫……?」


「おや、ご挨拶が遅れたね。僕はチェシャ。この街の住人であり、君のような迷い子を観察するのが大好きなただの猫さ」


 チェシャ猫は空中に浮遊したまま、彼女の周囲をゆらりと回った。彼の瞳が、彼女の胸元をじっと見つめる。


「君、ひどく混乱しているね。自分が誰かも分からないなんて、まるでページを破られた物語のようだ」


「あなたは、何かを知っているの?」


「知っているとも。君は死んだ。そしてここにいる。でも、君という存在には名前がない。名前がない者は、この街では存在しないのと同じだよ。いずれ、街の景色の一部――壁の落書きか、街灯の埃にでもなってしまう」


 チェシャ猫の言葉は残酷な現実を突きつけていた。

 私は自分の手を握りしめた。実感が湧かない。自分が誰だったのか、どんな人生を送っていたのか、名前は何だったのか。思い出そうとすればするほど、頭の中には真っ白な霧が広がるだけだ。


「どうすればいいの?」


「簡単なことさ。自分を見つめるんだ。魂の奥底に沈んでいる、一番汚くて、一番輝いている記憶を引っ張り出すんだよ。それが君のコアだ」


 チェシャ猫は、再びニヤリと大きく口を裂いて笑った。その歯は鋭く、獲物を待ち構える獣のようだった。


「さて、教えてごらん。君は誰なんだい?」


 彼女は立ち尽くした。

 空から降る灰のような塵が、彼女の肩に降り積もる。

 私は誰? 私は……。

 脳裏に、鏡に映る自分の姿がよぎる。長い髪、細い指、そして、誰かに「アリス」と呼ばれた記憶のような錯覚。


 それが事実かどうかは分からない。誰かが私をそう呼んでいたのか、それとも、ただの物語の知識なのか。

 しかし、ここで名無しのままでいることは、死よりも恐ろしい消滅を意味しているような気がした。


 彼女は深呼吸をした。


「……私の名前は、分からない。でも」


 彼女はチェシャ猫の、底知れない瞳を真っ直ぐに見返した。


「今は、アリスと呼んで」


「アリス、かい? 奇妙な名前だね。でも、気に入ったよ」


 チェシャ猫は満足げに目を細め、夜の闇に溶けるようにその姿を薄くしていった。


「いいよ、アリス。君の”自分探し”はここから始まる。迷宮の入り口は開いた。あとは君が自分の記憶という名の地雷原をどう歩くかだ」


 チェシャ猫の姿が消え、辺りには再び静寂が戻った。

 私――アリスは、未知の街ワンダーランドを見渡す。

 ここからが本当の旅だ。自分の死の真相、そして、生きていた頃の自分自身を取り戻すための旅が。

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