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男は目じりの下がった優しい目をしていた。
他の人と同様、男の背には羽があり、頭の上には輪がある。
しかし、その羽は片翼しかない。
「とりあえず、私の診療所まで行こうか」
連れていかれたのは、空き地のような場所に建てられた小さな掘っ立て小屋だ。
中は予想通り狭く、ベッドがひとつに、椅子が向かい合うように置かれていた。
家具と呼べるものはほとんどなく、他には机しかない。部屋の隅には紙束が山の様に置かれていた。
「ごめんね、狭くて」
僕は差し出された椅子に座る。
背もたれのない、少し珍しい椅子だ。
「それで、どうして人間の君が一人であんなところに?」
「それが――」
僕は、記憶をなくしたこと、気づいたときにあ、あの庭から逃げてきたことを話した。
「大きな庭って言うと、エデンの事かな。にしても記憶喪失とは、難儀だね」
彼は僕の話を笑うことも、茶化すこともせず真摯に最後まで聞いてくれた。
「ちょっと失礼するよ」
男はタイヨウの服をまくる。無駄な脂肪のない、筋肉質な腹部がさらされる。
「不思議だ。君には所有物である証の刻印がない」
腹部には傷ひとつない。きれいな肌をしていた。
「この街には、天使が連れた刻印のある人しか入れないはずなんだけど」
男は僕の体をまさぐる。触診のようなものなのだろうか。
しばらくまさぐられると、男の手が僕の腰で止まった。
「これか」
男は、ズボンのポケットに手を入れると、錆びた十字架の付いたペンダントを取り出した。
「それは?」
「このペンダントは、帰還の魔術がかけられてるね」
彼はペンダントを眺めて言う。
「魔術?」
聞いたことない。そもそも覚えていることなど、基本知識のみ。その基本知識すら正しいのか怪しくなったわけだが。
「そういう技術だ。この街に指定されているね。転送前の場所を探るのは不可能だね」
「そうですか……」
「それで、君の今後だけど。行く当て、ある?」
部屋を僕は見渡す。お世辞にも豪華絢爛とはいいがたい。あのとき助けていただけただけ十分だ。
「えっと、どうにかします」
「どうにか? この街に人間一人いる恐ろしさは、さっき知ったと思ったんだけどね」
「それは」
考えないようにしていたことだ。金も記憶もない人が見知らぬ土地でまともに生きる方法など、たかが知れている。
「幸い、ここに他に人が来ることは少ないし、ベッドもある」
「えっと、話がよく」
「単純な話だ。ここに住めばいい」
「良いんですか?」
きょとんと思わず、聞き返してしまう。
「行く当てのない人を、放り出すわけないでしょう。いつまででもいたらいい」
彼はただ優しく微笑むと、机に向かった。
僕はただ、ぽかんと口を開いたまま椅子に座り呆けてしまった。




