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どれだけ、頭をひねっても、自身の名前が出てくることはない。
記憶喪失というやつだろうか。
「ごめんなさい。思い出せないです」
「思い出せない? ……はぁたまにいるのよね。貧しいふりをしてそうやってすり寄ってくる人」
メイドの目がすっと冷える。
「ちがうんです! 本当に、思い出せなくて」
「はいはい。それじゃメイド長に突き出しますからね」
掴まれそうになる腕を慌てて避ける。
「……やっぱり、後ろめたいことがあるんだ」
「違うけど」
このまま捕まったら、なにか良くない気がする。
そんな背中の冷えるようなオーラが、そのメイドからは見えていた。
僕はすぐに屋敷の反対側へと走り出した。
「あっ待ちなさい!」
追いかけてくるメイドは意外にも遅く、がむしゃらに走っていると、気づいたときには庭を抜けていて、メイドの姿も見えなくなっていた。
街を歩く人はみな羽と輪があり、それらがない僕を奇異な目で見ていた。
僕はそれがどうにも居心地悪くて、隠れるように路地裏に入った。
路地裏にも小さな店が立ち並んでいた。
そこは少し怪しげな店ばかりで、入るのはどうにもはばかられる。
「そこのお兄ちゃん。少し寄ってかないかい?」
いつの間に居たのか、しわくちゃの老婆が一軒の店の窓から、僕を手招いていた。
「えっと」
「いいから、お菓子もあるよ?」
老婆は優し気な笑顔でパイを持ち上げた。
甘い匂い。果物のとろけるようなお甘い香りに、僕は思わず歩を進めてしまう。
「そうそう、おいで。おいしいアップルパイだよぉ」
ふらり、ふらりと進む僕。今にも窓に触れるというところで、
「わるいけど、私の前でそれは許さないよ」
バッと僕の体が窓枠から引きはがされた。
そこで、僕は気が付いた。老婆の持っているものが、パイなどではなく、ネズミの死骸だと。
先ほどまで香っていたはずの甘い香りはなく、むしろ、鼻の曲がるような腐敗臭しかしない。
「っち。偽善者が」
老婆はその温厚そうな顔をぎゅっと歪ませて地面に唾を吐くと、窓をバシンと閉めた。
「大丈夫だった?」
僕の肩を優しく支えて、顔を覗いて来たのは白衣姿の男だった。




