04
「う〜ん。試してみれば良いのに」
もうこうなっては話にもならない。
「学習性無力感かしらね。今の彼に必要なのは言葉より成功体験よ」
「成功体験……そうだ!」
タイヨウはなにを思いついたのか、走ってその場を後にした。
――砂浜を走る音。
砂に蹲ったまま、彼は一人。
その音を聞きながらタイヨウの言葉を脳内で反芻していた。
自分の足で……。
それは遥か昔、既に思いついていた。
当然試した……はずだ。
試しにやってみる気力も湧かない。
瓶を海に流し続けてもうどのくらい経った? 恒久とも思える時間が過ぎた。
彼にとって人は羨望の対象だった。
自分もいつかあんな風に生きてみたい。
生まれて意識が付いて最初にそう思った。
道をランニングする青年を真似て体を作った。
手押し車を押して砂浜をにこやかに歩く老婆を見て顔を作った。
ランドセルを背負って楽しそうに話す小学生を見て声を作った。
作業着のおじさんを見て口調を作った。
上半身は全て完璧に作れた。
だけど、どれだけ観察しても。
どれだけ試行錯誤しても、下半身はぴくりとも動かない。
彼にとって最も羨ましかったもの。
どれだけ恋焦がれても、対岸へと渡るチケットは、彼の元には現れなかった。
波がせせら笑うようにこの地面とつながった体を撫でた。
「これまでのすべては、無駄だったのか……?」
口に出してしまったが最後。
これまでの生涯が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
身体が地面に徐々に吸い込まれていくような感覚だ。
違う。
吸い込まれているんじゃない。
身体が、ただの砂に戻っているんだ。
その日、彼は始めて死がなにかを知った。
それは想いの強さ。ひどく単純でもうどうしようもないもの。
生きようと思えるかどうか。それだけだった。
もう頭以外なにも残っていない。
白く泡立つ波を眺めて、最後を穏やかな心で待っていた。
それは解放の安堵。
この身をガラスと化すほどに焦がした。
未知への探究心からの解放だ。
諦めたはずの彼の耳に、また砂を踏む音が聞こえる。
もう顔を動かす気力もない。
耳も聞こえなくなり、最後に残った目が砂へと変わるその瞬間。
押し寄せる波を映していた視界が空へと浮かび上がった。
身体が物理的に浮かんでいる。
視界が上がることなど、これまでの生涯で初めてのことだった。
「ふぅ……危なかったぁ」
慌てて戻ってきたタイヨウが見たのは、今にも地面に溶けてしまいそうな砂男だった。
それを見たタイヨウは、慌てて共に来てもらっていたクラトスに、大きな手で砂男を周りの砂ごと掘り起こしてもらった。
「どうですかー!? 上からの景色は!」
「最高だ……こんな、こんなことが本当にあるなんて」
ショベルから身を乗り出して海を眺める彼。
「世界は、こんなにも広かったのか」
たった数メートル上がっただけなのに、そこから見える景色はまったく違う。
海が眼下に広がり、より遠くまで見渡せた。
こんな感動は、生まれて初めてだった。
もっと見たい。気が付けば彼の体は完全に元通りだ。
なんとも単純なもので、その未知との遭遇に脳は一瞬でやる気を取り戻して、景色に釘付けとなっていた。
「……ありがとう。もう堪能したよ」
しばらく海を眺めていた彼は、まだ名残惜しそうに言葉を絞り出した。
砂浜に降ろされた彼だったが、うつむいていて暗い表情は消え、晴れやかだ。
「ね、不可能なんかじゃないでしょ?」
タイヨウは彼の隣に座って笑った。
「そうだな……そういやあんた、名前はなんだ?」
彼は優しい目で海を見つめながら、足元に流れ着いた瓶に砂を集めていた。
「僕? 僕はタイヨウ。こっちはツキだよ」
「そうか。俺はセウストだ」
セウストはタイヨウに砂のぎっしり詰まった瓶を渡した。
「それを持ってってくれないか?」
「それって……どういう意味?」
この期に及んで、人にまた旅を託そうとしているのか?
タイヨウの思いに気付いたセウストは、首を横に振った。
「俺の砂には軽い傷なら癒す力があるんだ。持ってたら役に立つだろ」
「え、そうなの?」
ツキは顔を横に振る。
「そんな話、聞いたことないけど。もらいたいなら、もらいなさい」
「そっか、じゃあありがたくもらうね」
受け取ったのを確認したセウストは、ビシッとタイヨウを指差した。
「そうだ、勘違いするなよ? 渡すのは砂だけだからな。その瓶は必ず俺の足で、お前のところまで行って返してもらうからな」
「――はい! それまで大切に、ここに付けてますからね」
タイヨウは満面の笑みで、受け取った瓶を大切にホルダーに付けた。




