01
「なぁ、この対岸になにがあるか、知ってるか?」
町もまだ起きていない朝方。
対岸に見える塔にかかる日差しに照らされながら砂浜を歩いていたタイヨウは、突然聞こえた声に立ち止まった。
その声は足元から聞こえてきた。
筋肉質な人を模した、精巧な砂の像から聞こえた。
その声は幼い。
声帯の出来上がっていない子供のような声だ。
「えっと、知らないです」
「そうかそうか……」
彼はしみじみと頷くと、自身の隣を軽く叩いた。
「えっと……ツキ、座ってもいい?」
タイヨウはこの旅の同行者に聞くも、返事はない。
今は早朝、彼女にはまだ早い時間だ。起きていないのも無理はない。
「……そしたら、失礼します」
タイヨウの背中には、それは大きなリュックが背負われていた。
上半身がすっぽりと埋まるくらいの大きさ。茶色い布地が、ピンと張るほどに膨れ上がっていた。
見るからに重いリュック。ところどころに出来た落ちない汚れは、これまでの旅の勲章だ。
一方、タイヨウの服装は短パンにTシャツで、そのリュックの経年具合に比べてとてもアンバランスだ。
「俺はあの対岸に何が、この世界にはどんな不思議があるのか見るのが夢なんだ」
対岸に在るのは、機械仕掛けの巨大な蜘蛛と、雲を貫き天高くそびえ立つ幾重にも重なった塔
それらはこの世界では、棚に上げて注目するほどのものではない。
彼にとってはそんなものでも、全て好奇心の対象だった。
「ここから見えるだけでも、あんなに面白そうなものが沢山あるってのに、俺はここを動けない」
彼は地面の砂をかき集めるがさらさらと流れ落ちてしまう。
砂で出来た体では、確かにここから歩いてどこかへ行くのは困難だろう。
「だから俺は思い付いたんだ」
彼は意気揚々に話し始めた。
それはあの大きな塔が建つよりもずっと昔。
この何もない砂浜で、俺の楽しみはこの和やかな波の音を聞くことだけだった。
そんな静寂を打ち破る様に、あの機械仕掛けの蜘蛛は何処からか歩いて対岸に現れた。
蜘蛛の上では毎日のように巨大な光の玉が飛ばされていて、俺はそれが花火という名前なのだと、道ゆく人の会話から知った。
一瞬で過ぎ去っていた波色の世界が、一気にきらびやかになった。
どうやらあの蜘蛛の上では気の良い爺さんによって、毎日祭りが開かれているらしい。
砂の粒子を一粒残らず震わせる轟音。これまで潮の匂いしか知らなかった鼻に突き刺さった硝煙の匂い。
俺はあっと言う間に花火の虜になった。
祭りに行ってみたい。あの花火を近くで見たい。
この身体は、まだ動けないが、いつか動けると思っていた。
ただ、いつまで経っても俺の身体は上半身より下を造る気配がない。
もう長い月日が経った。
気付けば祭りも開かれなくなって、あの塔ももう一番上が見えないほどに高くなった。
俺だけ変わらない。ここでただそれらを眺めて、偶に流れてくるガラス瓶を拾うのみ。
だが、そこで俺はふと、思い付いたんだ。
「これを見てくれ」
それは砂の入った瓶。
ただの砂ではない。瓶の中で生きてるみたいに絶え間なく動いていた。
「俺の身体の一部だ。これをひたすら海に流すんだ。もう何度投げたか分からない」
対岸を見つめる追想と哀愁の混ざった目。
数えきれないほどに繰り返した過去を思い起こしていて、タイヨウはそれが酷く羨ましく感じた。
タイヨウに、彼のような懐かしむ過去の記憶は存在しない。
厳密に言うならば覚えていないのだ。
ツキに付けてもらった名前と、幼少期の記憶が断片的にしか残っていない。
どうしてここにいるのかも、懐かしむ過去も、叶えたかった夢も、この鞄の中身さえ、タイヨウの頭の中には残っていなかった。
「俺は身体から離れた砂も多少は動かせるんだ。これが対岸に着いたら、そこに俺の新しい身体が出来て、そっちに意識を移すって算段よ。だがなぁ」
彼は地面から突き出た上半身を動かしタイヨウの目を見る。
皺の深く刻まれた笑顔はその声には似ても似つかない年齢のものに感じた。
それはもはや不気味とすら言えるちぐはぐさだ。
「まったくあっちに行ける気配がない。俺はこれをいつまで続けりゃいいのか分からねぇ。もしかしたら波のせいで届いてないのかもしれん。これを直接、あっちの砂浜に置いてきてはくれないか?」
渡されたのは先ほどから砂を詰めていた瓶。それは彼の想いの集合体。
けっして持ち歩くのに苦労する重量はない。
そのはずなのに、タイヨウにはそれが酷く重く感じた。
「分かりました。行ってきますね」
過去まで聞かされ、懇願するような眼で見られたタイヨウは、反射的に頷いていた。
瓶を受け取り腰のホルダーに入れる。
後ろに倒れないよう、ズボンに付いた砂を振り払い立ち上がった。




