下町
これこれすべきと言う人が嫌いだ。なぜならすべてのことが等しく無価値だからだ。すべきことなどないし、どうだっていい。どうでもいいと言っても良いかもしれない。
ここまで記して、私は今回の大学講義のレポートを締め、提出することにした。そこでペンを片付け、教室を出る準備を始めた。
「あー。それ深いね」
その声は、横から覗き込んできた彼のものだ。心底感嘆したのだろう、吐息交じりの低い声だったので、その言葉に裏がないことが分かる。深いと言う人が嫌いだ。浅い深いというのは結局のところ、それを言う本人が重要視している要素に触れたかどうかだからだ。あたかも自分に絶対的評価ができる才能があるような物言いであるし、浅いとか深いとかいうこと自体が主観的・相対的である。
「ありがとう」
機械的な返事を済ませレポートを持って席を立つ。教卓までぞろぞろと続く生徒たちの列を見ながら、自然な隙間ができたのを見計らって、私たちもなだらかな階段を下りていった。重ねられたレポートの上に、私のものを置く。これが今日の出席点になる。
教室を出ると秩序だった列は崩れ、各々が行きたい方に向かったり、立ち話をしたりする。思案する間もなく友人の声が耳に入る。
「腹減ったな、食堂行くか」
どうやら私は、食事に誘われたらしい。
「大学のラーメン定食は神だな」
食堂で、最初の一口を済ませた彼のセリフがこれだ。私はその言葉を訂正するように言った。
「おいしいな」
彼が神という存在を信仰しているかどうかは、この発言だけでは分からない。しかし、暗にその存在を受け入れていることは確かである。神がいるかどうかは証明のしようがない、だからと言って無神論者というわけではないが、ただ私からすれば分からないことを神という言葉に押し付けているようにしか感じない。現在使われている神という言葉は、それ以上の探求を諦めた逃走者の言葉である。私は使ったことがない。
「思ってる?」
言っている意味が分からず数秒固まってしまったが、ラーメンは本心からおいしいかという問いだということに気付いた。
「思ってるよ」
「なら良いんだけどさ。話変わるけどさ、さっきの講義で俺の斜め前に座ってた子、凄いかわいかったよな?」
「あ、へえ、見てなかったよ」
「本当? 明らかに目立ってただろ。お前の好みじゃなかったってことか」
こういった話題はよく男友達にされるが、どう膨らませて良いのか分からない。人の中身には興味があるが、外見には興味がない。仮にその女子のTシャツに「マルクス主義者募集中」のような文言が書かれていたら、見て覚えていただろう。それは、ファッションに本人の思想が見えるからだ。これはあくまでも一例で、「原発反対」や「授業料減額」などの文言でも、とにかく本人の中身が現れるなら、それには興味を惹かれる。
「好みはあるけど、外見は気にしてないんだ」
「中身が大事ってこと? 聖人?」
「そういうのじゃない。君が外見に興味をもつのと同じくらい、僕は他人の内面に興味があるだけだよ」
「婚活向きってことね」
その言葉にははっきりと答えなかった。婚活の二字はわたしの頭にはなかったが、ある程度の褒め言葉であることは分かった。その日は三限目の授業を終えて、彼とは別れた。
お腹が空いてきた。近所の定食屋に足を運んだ。私がよく使うチェーン店だ。このお店は値段に対するクオリティが高く、ご飯がいくらでもおかわりできるという点も評価している。今日は唐揚げ定食。定食には、豆腐、みそ汁、サラダ、先述の通りおかわり無料のご飯がついてくる。豆腐と味噌汁、唐揚げ二個でご飯一杯目を食し、二杯目は残りのからあげをお供に白米大盛りで食べるのが、私のルーティーンだ。
店に入ると発券機が二つあり、ここで商品を決める。前に並んでいた子連れの女性は発券を済ませたらしく、申し訳なさそうに頭を下げながら私の横を通った。機械的な動作で会釈をして応えた。私は数歩前に進み、一旦季節の定食や限定メニューを見てみるが、二〇秒後には唐揚げ定食の券を握っていた。限定メニューを頼むことも稀にあるが、今回は苦手なきのこが入っていたのが避けた理由だ。発券機の向こうにはまた自動ドアがあり、そこを抜けると店内である。
何名様ですか、お一人様ですねこちらへどうぞ。という比喩抜きに百回はやったやり取りを済ませ、二人掛けの席に案内される。この定食屋はかなり広く、カウンター席が数人程度、二人掛けや四人掛けのテーブル席が一〇席以上ある。壁やテーブルは、自然の木材に近い明るい茶色で統一されているが、実際の材料までは知るところではない。券いただきますね、唐揚げ定食でお間違いないでしょうか、という声とともに食券が点線に沿って千切られる心地よい音がする。半分は女性店員の手の中へ、半分はカウンターの上の円柱型伝票入れに立てられた。
やがて定食が運ばれてきて、割り箸を割って唐揚げを食べ始めた。通う習慣がつくまでは、この唐揚げに舌を焼かれたものだ。今では口の内側と唐揚げの間に空間をつくり、熱気を逃がすことでやけどをせずに済んでいる。おいしい。口に含む。うん、おいしい。
私の後ろから、スーツを着た男性二人が歩いて通り過ぎていった。少し見ただけの印象だが、二人には年の差があり、十中八九、上司と部下に見えた。二つ向こうのテーブル席に二人が腰かけると、店員が二人に話しかけ、食券の確認とそれを千切るという、私に対して行われたものと同じ案内がなされた。
二人の元に注文が届いた。こちら、なんとか定食でございますと、店員が言いながらテーブルに置く。
「すみません、ありがとうございます」
若い方が言った。
意味がない謝罪と感謝だ。私はこの文化には辟易している。いかにも社会人らしい定型句で、謝罪を述べることによって自分を下げ問題が起こる確率を最大限下げたいらしい。私はこういった無意味な謝罪が、積もりに積もって、この若い男性、ひいては日本人の自己肯定感の低下に繋がっていると考えている。
そして感謝については、すみませんに対する下の句のように、なくてはならないものだ。決して受け取られることのない感謝である。通常、謝罪で下げられた社会人の自己肯定感は、同類が発する感謝の言葉によって超過されるべきである。だが、基本的には店員の耳に入ることはない。つまりこの感謝は、この店の出入り口にあるセンサーが客の入店を知らせる音よりも機械的で無意味なものである。情報量もない。にもかかわず、発しなかったときには不快感を与え、非常識人とみなされるのだ。
唐揚げを二つ食べ終わると同時に、白米を食べきった。おかわりに行こう。この店のおかわりはセルフサービスで、店内奥におかわりロボ(公式名称である)が置いてある。具体的な使用方法は以下の通り。まず、くぼみがある部分に茶碗を置き、それから三種のボタンのうち一つを選ぶ。小盛、並盛、大盛の三種類であるから、望みのボタンを押すと、熱い白米が自然落下してくるという流れだ。私は大盛りを押して白米が出てくる様子を見た。どういった仕組みかは分からないが、今しがた炊飯器で炊いたばかりのような白米がいつでも出てくるのだ。その湯気と、白米の香りをかぎながら、指先が白米についてしまわないように茶碗を持ち、席へ戻った。食事再開である。主菜である唐揚げを口へ運んだ。
白く小さなもやが落ちていく様が、視界の左端に見えた。社会人二人組の席で、上司と思われる男のお盆に米が一粒ついている。その落下線上を辿ると空中で箸が止まっている。そこから落ちたのだろう。腹が満たされてきたのだろうか。あるいは、元々標準よりやや食べ進めるのが遅いのかもしれない。まもなくして、そのどちらでもないことが判明した。苦手なものがあったようだ。
止まった箸は動き出し、皿の上に乗った酢の物をすべて掴んだ。膨らませた頬と歯茎との間に作った空間にそれらを入れ、次いで素早く大量の白米を口に含んだ。ややこわばった表情をしたまま咀嚼する様を見て、酢の物が苦手であることを確信した。
彼は、金を出して嫌いなものを買い金を出して嫌いなものを食べるらしい。動機は健康的観点からくるものか、食べ物を残したくないという店への罪悪感からくるものかは当人にしか分からない。しかし、自らの血肉を資本に変えた末に訪れるあの苦い表情、損に損を重ねる行為は到底理解できない。彼の労働時間には、この酢の物を食べるために働いた時間も含まれている。
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梅雨に入り三日間降り続いている雨は、今のところやむ予定はなさそうだ。そのおかげで、定食屋には人が少なく、こうしてゆっくり食事を楽しむことができているわけだ。
チキン南蛮定食はやはり神だ。一口目で毎度そう確信する。私はその辺の大学生よりは料理をする方だからか、チャーハンやハンバーグといった自分でも作ることができるものは、基本的には注文しない。最初にチキン南蛮をこの店で注文したのは、そういった消極的理由からだった。だが、初めて口にして、こんなにおいしい和膳があるのかと感動した。まず歯に当たるのは衣からだ。これが冷凍食品や自作の唐揚げでは到底作ることができない歯ごたえと風味で、中のチキンのおいしさを底上げしている。惣菜とは違い、サクサクしていて不思議なほど湿気がない。それでいて滅茶苦茶に火力任せというわけではないらしく、焦げていないのはもちろん、弱い力でほぐれるそれは、気持ち良い音を立てて崩れ、口の中へ入る。チキンに歯が当たると肉汁が出て、ほとんど同時に肉を噛み切り、舌の上で味わう。チキン系の料理は皮や脂身が多すぎると辛い思いをすることがままあるが、この店でそんなことはあり得ない。どのような選定をしているのか、いつ食べてもおいしいチキン南蛮を提供してくれる。皮が厚すぎるだとか、脂身が多すぎるといったようなことは一度もなく、安定しておいしい。タルタルソースも良い。私は、マヨネーズは苦手でほとんど食べないが、この定食の場合は一緒についてくるタルタルソースを食べきる。それは南蛮と優しい酸味の相性が良いからだ。おそらく、注文があってから料理していることもあり、温かさや鮮度も申し分ない。などと細かい解説をするよりも早く食べたいため、友人と来てもここまで具体的な話をしたことは一度もなく、おいしい、おいしいとひたすら言うのみで、食べる方に集中している。
二つ向こうのテーブル席でスーツの男性二人組が、急いで食べている。まだ、両肩の雨粒が乾ききっていない。夕方のこの時間で大学のすぐ近くでもある定食屋では、スーツを着た二人組はやや珍しい。だからといって大注目するほどの理由にはならないが、食べ方からして、時間に追われているのが明白であるから、気になってしまった。
上司らしい男が、がつがつと白米をかき込んだあと咀嚼したかも分からない間に、お茶を飲んだ。
「本当はさ、ここでゆっくり、時間を気にせず食べていたいよ。会社に戻るのが憂鬱だ。代わりがいないから、そうも言ってられないが」
彼は喋りながら、おかずを口に入れてはお茶で流し込んでいる。
「今の部署の仕事は、はっきり言って嫌いだ。冷静に考えて、起きている時間のほとんどをあそこで過ごすことを考えたら、怒りすら湧いてきたな」
あの男は嫌いな仕事をして、生きたくもない人生を生きているらしい。部下らしい男は聞き飽きたのか、適当な相槌を打っているが、その適当ぶりに気付く様子もない。
「彼女欲しいっす」
「学生時代、この店は俺の行きつけだった。あの頃は時間に縛られず食事を楽しめたんだ。そういえば、昔この席で、無理して酢の物を食べていたスーツのおじさんの姿が、やけに頭から離れないんだよ」
了