はじまりの始まり 6
愁一は自分を己の息子と思って見つめる鈴本笑子の笑顔を思い、称号の変更を出来ず過ちを犯した萬田君子の泣き叫んだ声を思い、手を握りしめた。
「この社会は『何のために存在する』んだ」
人が人らしく生きるためのルールが全て削ぎ落された社会は表面上だけ亀裂なく回っていくかもしれない
「だけどその奥底ではきっと大きな闇と亀裂だらけだ」
人が人らしく生きるための社会に人の世に変えない限り
「もっと恐ろしいことが起きる」
いやもう起きているかもしれない
愁一はそう呟き真っ直ぐ前を見つめ
「変えなければ」
一時とは言え俺の母になってくれた鈴本さんの為にも
「刺されて怪我を負った雀さんの為に」
刺して後悔して泣き叫んだ萬田さんの為にも
と言い足を踏み出した。
雀荘志の怪我は傷口がまだ浅かったので命に関わるほどではなかった。
萬田君子の謝罪を受け入れフォローするので営業の称号の変更を促した。
かなりのペナルティを科せられた萬田君子は雀荘志の言葉を受け入れ、低級事務の称号から再出発することになったのだ。
もちろん、住む場所は強制的に変更されマンションからアパートへ、そして、生活費も以前の5分の1となった。
それでも彼女はまだAIシステムのペナルティを受けた人の中ではマシな方であった。
野垂れ死ぬ人も少なくなかったのだ。
数日後。
愁一は郵便局に働きに行った鈴本笑子を見送り、全国新聞に載っていた東京新宿にあるスカイルーフ株式会社に勤めていた男女が報告不正をしてペナルティを受け生活が立ち行かなくなり多摩川の河川敷で死んでいるのが見つかった記事を見て
「このAIシステムの社会を変えなければ」
と呟いた。
動かなければならない。
誰かが動かなければ……いつか人が人でなくなる。
だが、気がかりがないわけではない。
自分を助けてくれた鈴本笑子のことだ。
恩がある。
あの時に彼女が受け入れてくれなければ自分は雪の中で死んでいた。
愁一は新聞をリビングのテーブルの上に置いて立ち上がると窓辺に立ち外を見つめた。
そこに、出掛けたはずの車が戻ってきたのである。
笑子が車から降り立ち窓辺に立つ愁一を見ると静かな笑みを浮かべて家の中へと足を踏み入れた。
愁一は驚いて玄関口に立った。
「おかあさん」
どうしたの?
笑子は腕を伸ばして愁一を抱き締めると
「ごめんなさいね」
と告げた。
「ずっと気付いていたわ」
貴方がこの先の家の人の為に緊急通報をした日から悩んでいたこと
「見て見ぬふりをしたけど……やっぱりそれは駄目なことね」
愁一は目を見開いた。
笑子は泣きながら両手で愁一の両頬を包み込み
「知っていたの」
貴方が私の愁一じゃないってことを
と告げた。
愁一は視線を伏せると
「すみません」
俺……あの時に放り出されたら
と呟いた。
笑子は首を振り
「ううん」
私の愁一は帰ってこないわ
「きっと私の事を忘れているわ」
だって私も母も父も覚えていないもの
と告げた。
「でも寂しかったの」
一人が寂しくて寂しくて
「だから、ありがとうね」
愁一は目の前が滲んで行くのに目を閉じることはせずただただ零れ落ちていく涙の中で彼女の顔を見つめた。
「俺の母は……もう遠い過去に亡くなってしまいました」
きっと俺はあの人を不幸にしたまま死なせてしまった
「だから」
笑子は微笑んで
「愁一……いいえ、名前教えてくれる?」
と告げた。
愁一は笑むと
「島津……島津春彦……それが俺の本当の名前です」
と告げた。
笑子は優しく抱きしめると
「春彦、旅立つのね」
行ってらっしゃい
「いつか、やることが終わったら顔を見せて頂戴」
私はここで待っているわ
と告げた。