秘妃美と常時と月海《後編》
いくつもの寸胴が運び込まれ、いつの間にか用意されていたコンロの上に次々設置されていく。瞬間、室内に香ばしい豚骨の香りが充満していく。
「あら、凄く良い匂いですわ」
すっかりお腹をへこました月海が寸胴から放たれるスープの香りに思わず反応する。
「待っている間、そろそろルナにも説明をしておこう」
「やっとですの? プンスカしてしまうところでしたわ!」
そんな短い会話かわすと、さも当然のように用意されたパイプ椅子に着席をする二人。
着席すると同時に、全身黒ずくめの人物が用意した机が二人の前に設置されると、同様に黒ずくめの人物が丼が二つ乗ったカートを運んできた。
そんな二人を気にする事も無く、秘妃美だけは、その場で食い入るようにスープが温められる光景を見つめている。
「このラーメンが今、あの寸胴で温められている豚骨ラーメンだ」
「そこの説明ですのぉ!? 私、もっと聞きたいことがありましてよ?」
「そうだな、まずは具材から説明すべきだったな。俺としたことが」
「ちーがーいーまーしーてよぉ!!!」
用意された箸を手に、ラーメンの上に載っている黒い物体を持ち上げる常時。見慣れない具材に、思わず突っ込みを忘れる月海は問いかけてしまう。
「それは何ですの? ぷにぷにぃ、ふわふわぁ、ですわ」
「これは木耳だ。上に乗せる事で、アツアツのスープを保つことが出来る素材だ。そしてこの麺。スープがどっぷりと絡まるちぢれ麺は北翼先生が練り上げた幻の一品だ。豚骨スープを麺に混ぜ込む事で濃厚も濃厚、更に麺がスープを吸収するように設計されているため、少しでも放置すれば五倍に膨れ上がる逸品だ。秘訣は極小の寒天を混ぜ込んでいるところで、これに気づける美食家は居ないとさえ言われている絶技なんだ。そしてスープ! このレンゲでもちあげるとわかる粘着質、ドロッとした濃厚な豚骨は一度口に含むとスープがそのまま鼻をかけるけていく錯覚を覚える程、強烈な濃い味。まさに、恋してしまう程の濃厚な味が特徴だ。このスープは弱点があって、冷えてしまうと一瞬で凝固してしまう。そんな弱点をもってしても、あつあつのこのスープは人類の誰もが啜りたいと切望する至高の一品が、この豚骨ラーメンなんだ。さぁ、私達も試食しよう」
「めちゃくちゃ喋りますわぁ! でも、冷めないうちに、いただきますわぁ!」
月海は目の前の豚骨ラーメンを食べたい欲求に負け、色々と聞きたい事もあったがまずは試食をすることにした。
「はむっ、ぱく、ぱく、ぱく」
もぐもぐもぐ、、、むぐっぅ!?
決して乙女が出してはいけないような咽た鼻声が溢れ出る。
瞬間、口元を中心に豚骨の荒波に溺れてしまう錯覚に陥る。
「むがっ、けほけほ、何ですのこのこゆさはぁ!?」
「最高だろう。冷える前に全部食べなさい」
「ヒッ……あぁ、でも箸が勝手に麺を掴みに行きますわぁ」
もぐもぐもぐ、、、むぐぅ! スゥハァ! ん゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛。
もぐもぐ、ずずぅ、ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴク。
ぷふぅ。
「美味ですわぁ!」
「そういえば、色んな説明をまだしていなかったな。この機会にルナにも説明をしておこう」
「やっとですの?」
「まず最初に、俺がここへ来たのはあの子、秘妃美からのメッセージが発端だ。俺は来るべく時に備え、鋼の胃袋所持者以外のフードファイターを探している。そんな俺の元に、一通のメッセージが流れ着いた」
『ラーメン風呂に入りたい』
「と。そしてラーメン風呂に入るだけでなく、こう続いていたんだ」
『ラーメン風呂で浴槽の中にあるラーメンを全て飲み干したい』
「流石に俺も二度見して、すぐさまレスポンスを返したわけだ。それは本心か、そしてそれを実行できるのか、とな。まぁどんな文面で返したかまではもう覚えていないが、そのメッセージが真実かどうか確認をした訳だ。するとどうだろう、名前と位置情報が送られてきた訳だ。俺はすぐさま旅支度を整えると、ファストトラベルを使って移動をした。だが、予定よりも早く移動が完了したため、俺は噂の副料理長の姿を拝みにあの食堂へと足を運んだんだ」
そこまで言うと、月海の方をジィとみつめながら常時は言う。
「そこで、思わぬ出会いがあった。ルナ、お前との出会いだ。先ほども言った通り俺はフードファイターになりえる人材を探していた。食へのこだわりを持ちつつ、プライドがせめぎ合う大食いの世界に足を踏み入れ、敗北をしても尚立ち上がる精神力。俺は思った、ルナには食神力が備わっているでは無いかと。人間、満腹になったらとにかく食から離れようとする、そして次の食に関しても消極的になるのが普通なのだ。だが、食神力があり、かつ食への歩み寄りがある場合に限り満腹の向こう側、食域へと踏み込める。これは十万人に一人、いや百万人に一人の人材で誇るべきことだ」
「つまり、私はその、ショクイキ、に踏み込んでいるからスカウトされた、と?」
月海は、心が萎えていくのを感じてしまう。
いきなり現れた常時が、恥辱まみれの私に恋して救ってくれたなんて、そんな王子様みたいな事はありえなかったのですわ、と。
一人、淡い恋心を灯していた月海の想いが、全て消えてしまう直前。
「食域に踏み込んでいる事もそうだが、俺はルナ、お前に言っただろう?」
「何ですの、今更」
「俺はお前を貰うと、お前が欲しいと、必ず責任を取ると言ったはずだ。俺はお前に惚れたから、一緒にこの道を歩んで欲しいと考えている」
「それは、フードファイターとしてですの? それとも……」
「この先一緒に生きていくのに、フードファイターの枠組みだけの訳が無いだろう」
「ハッキリ、ハッキリいってくださいまし!」
「年頃の女性は難しいな……今接吻をすると物凄い事になると思うが、構わんか」
「あっ、あう」
想像してしまう。
濃厚な豚骨スープの香りがお互いの鼻孔をグシャグシャに駆け巡る光景を!
いや、そこではない。
接吻、つまり、ラブ!? 私、やっぱり告白されていましたわぁ!
「それは、また今度にしてあそばせ」
「相変わらず変な口調だな。それはさておき、寸胴のスープが煮詰まって来たな」
「忘れてましたわぁ!」
そして、秘妃美さんの事も聞き逃していましたわ!
「それで、秘妃美の話だったな。約束通り、俺は秘妃美の元へとやってきた」
「ちゃんと最後まで説明が聞けますのね! なぁなぁで最後まで放置されて、続く! とかいって途中で説明が終わったりしませんでしたわぁ!」
「秘妃美のあの思想ではないが、風呂でラーメンを食べたいという安直な発想は実は結構聞く話なんだ。しかし、ラーメン風呂に浸かりたいという常識を逸した考え方、そしてそのラーメンを完食したいという発想は狂気の沙汰。食狂いの発想そのものだったんだ。食神力がマイナスに振り切る事で、食域、まぁ略して食域に足を踏み込める人材なわけだが……」
険しい顔で秘妃美を見つめる。
「食狂いは一歩誤れば人類の敵になりかねん。だから見極めに来た、俺の敵なのか、それとも味方になりうる存在なのか」
「人類の敵、ですの?」
「まぁいずれわかる。まずはルナ、お前は胃拡張の修行からだ」
「そこまで教えておいて、秘密事なんてイケズですの」
「考え事が多いと食域にイケないぞ」
「むぅ、ですの」
そんな会話をしている二人を他所に、ついに寸胴で温められたスープが次々にバスタブへと流し込まれていく。
「わぁ……」
思わず秘妃美の口から感嘆の声が漏れ出る。
聞き耳を立て、常時と月海の会話は全て聞こえていた。
私の元へ来たのは、どうやら業者でもなく、助けに来てくれた神様でも無かった。もしかすると、間違った対応をするとあの人たちと敵対しちゃうのかもしれない。でも、そんな不安は些細なものだった。全てを失う前にころがりこんできた、最上級の一食。食狂いと言われようが、何と言われようが目の前のアツアツの濃厚スープを前に、この機会は絶対に逃してはダメ! 己の欲望を満たすべく、全身でこのスープを感じ取るまで、我慢よ、私! と強靭な精神力をもってバスタブの前で立ち尽くしていた。
そしてついに、スープで満たされたバスタブに麺が投下されていく。
ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン、ポチョン。
十玉。
茹でられることで倍化した一玉約二百グラムの麺たちが、次々と投入されていく。更にスープを吸うとここから更に五倍まで膨れ上がるのだ。
つまり、総重量最大拾kgになりえる麺と、ゆうに三百リットルは入るであろうバスタブにスープが注ぎ込まれ、既に7割ほど満たされている。
その上にトッピングとして木耳、チャーシュー、メンマ、ネギが敷き詰められていく。
「さぁ、秘妃美、お前はどうする! 夢を叶えるか、それとも否か!」
「勿論叶えるわ! 私、この出会いを絶対に逃さない」
そう言うと、胸元で結ばれていたリボンを解き、徐に脱ぎだす。
「あ、あらあらあら!? 破廉恥ですわぁ!」
しっかりとガン見しながら月海が突っ込むも、その勢いは留まらず。
次いで、ズボンを脱ぎ、靴下を脱ぎ。
そしてついには。
「みちゃダメですわぁ!」
下着に手をかけたところで、月海が常時の視線を両手で遮る。だがしかし、常時はサングラスに備わった映像から三百六十度、全てから秘妃美を監視している為微動だにしない。勿論、月海はそんな事は知らず、破廉恥から守り切りましたわぁと心の中でガッツポーズをとっていた。
「ラーメン風呂に入るんだな!?」
「ええ、入ります」
「ラーメン風呂で、全部飲み干すまで食べ続けるんだな!」
「勿論、この一食に感謝を込めて、私はスープに包まれ、ラーメンを貪ります」
「その決意、見せて見よ!」
総重量、約三百十キログラム超え。
常人では決して完食出来ない領域へ秘妃美は挑もうとしている。
だが、この場でただ一人だけ違う事を考えている人物が居た。
月海だ。
彼女だけが、正常な思考を保持していたのだ。
故に。
「へ、変態ですわぁ! えっ、ちょっと、まって! いきなり脱いで、そのバスタブに浸かるって、頭がおかしいですわぁ! せめて、シャワーを浴びてから、とか?」
あまりの異常に、月海もそこじゃない、という感想を混ぜ込んでしまう。
「そもそも、あんな中に入ったら火傷しちゃいますわよ! いえ、それ以上に体中お豚骨まみれになって、体に悪いですわぁ! あぁ、もぉ何処から突っ込んで良いかわかりませんわ!」
脱ぎ捨てられた汗を含んだ衣服がぐちゅりと音を立てて地面に脱ぎ捨て終わると、ついにバスタブへ手をつける秘妃美。
「あつっ……」
想像以上の熱さに、指を引っ込めてしまう。だがしかし。
「ペロ……あぁ、あぁぁぁ!」
悲鳴、いや、歓喜の声というべきだろうか。
秘妃美は腰が砕けるように一度しゃがみ込むと、次はバスタブ横に設置されていた空の丼と箸をスープの上に浮かべると、バスタブの四方を掴み飛び乗った。
真正面からみたら、とても放送できないようなその姿に月海は思わず常時の顔を塞いでいた両手を自分の眼もとへやってしまう。すぐに、ダメですわ! と思い至って片手ずつで自身と常時の目元を隠す。
既に、何の意味もなさない目隠しをしつつ、秘妃美の姿をみつめてしまう。
そして遂に、両手の支えのみで体を浮き上がらせると、そのまま足元からゆっくりと、ゆっくりとスープの中へと体を沈めていく。
そして数秒後。
まるでバスタブの積載量をはかっていたかのごとく、スープがバスタブの淵まで盛り上がる。
「イタダキマス」
綺麗だった黒髪が豚骨まみれになり、もぉ体中の穴という穴から豚骨が染み込み、秘妃美は体も嗅覚も全てが豚骨に侵された。
そしてついに、口元まで浸かった秘妃美はスープを呑み始める。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
んむぅ、ぷはぁ。
「……」
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
チュルリ、モグモグ、ハムハムハム。
チュルリ、モグモグ、チュルリ、モグモグ、チュルリ、モグモグ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ。
「ぷはぁ!」
「そんな食べ方、ありませんわぁ!」
浮かべた丼も箸も使わず、思うがままにスープに浸かっては飲み、指に絡ませた麺をすくってはチュルリと食べ、その他食材をモグモグと掴み取り。
「食狂い……」
常時の声が重みを増す。
「ふふ、美味しい。ここに天国があったんだ……」
秘妃美は頬を紅潮させながら、悦に浸っていた。
だが、時間経過とともにスープの温度が下がりだす。
「身動きが取りづらく、、、これは」
凝固が始まった。このままでは秘妃美は豚骨という名の牢獄に囚われてしまう。早くバスタブから這い出なければ、ただでさえおかしくなっているだろう体が、本当に体がおかしくなってしまうだろう。
「まだ、まだ諦めれないの。まだ私の一食は終わって無いの!」
瞬間、クワッと常時の視線が見開かれる。
「そこ、までか……とんでもない子を見つけてしまったな」
「何が、どうなったのですわ?」
「秘妃美は今、自身の体温を上げる事でスープを生き返らそうとしている」
「体温を上げる? そんな事、どうやったらできるのです、わ?」
そんな月海の口元に、ふいに唇が寄せられる。
「はうっ!?」
一瞬だった。
初めては濃厚豚骨味でしたわぁ、なんて友人に自慢出来る訳無いのですわー!
「どうだ、体温があがっただろう」
「なっ、あわあわあわ」
「人は感情を高ぶらせることで、体温を一時的に急上昇できるのだ」
「そ、そうなのですわね。オホホ、オホホホ」
「あぁ、あふ、まだ、もっと、体中をスープで満たされて、もっと……」
その数分後、完全に固まったスープの中で身動きが取れなくなった秘妃美の表情は完全に蕩け顔であった。
「もぉ食べれません」
「そうだな」
「でも、またコレ、やりたいです」
「そうか」
物理的に食べれなくなったスープの中から、常時が何かしらの魔法を使って秘妃美を助け出すと、衰弱した彼女の体を服が汚れるのも厭わず抱きかかえていた。
「よく頑張った。合格だ、これからも俺に付いてこい」
「はい、お兄様」
「どうしてそんな綺麗な感じに収まっているんですわー!? そして、お兄様っていきなり過ぎですわぁ!」
「お姉様も、どうかよろしくお願いします」
「……何だか、悪く無いですわぁ!」
こうして、伝説のラーメン風呂の記憶は三人の脳裏にそれぞれ刻み込まれたのだった。
続く!
絶対に、良い子は(人間は)真似しちゃダメだからね!