秘妃美《後編》
丼を洗い、湯沸かし器に水を入れる。涙の後を消すためについでにバシャバシャと顔を洗う。
ふぅ、と深いため息。
退居するにあたって、必要な手続きは全て完了済。
最後の食料も尽き、私物もほとんどない部屋を見つめる。
こんな何も無い部屋でも弐年も住めば愛着が湧くもので、明日はこの場所に居られないんだと思うだけで悲しい気持ちになった。
「新規メッセージ」
音声で新着メールを確認するも、何も無い。
そんな時だった、カツン、カツン、カツンと誰かが階段を登ってくる音が聞こえてくる。
壁が薄いため、人の気配はスグにわかってしまう。
私はこの世界に一人じゃないんだって思う事が出来たため、足音が聞こえる事は案外嫌いじゃなかった。
「こんな時間に……誰だろう」
壱五時頃はお隣さんも、正面さんもお仕事で基本的に不在だ。
宅配系も、基本的にエレベーター無しのこの物件に届けてくれる業者も少なく、きっとその線も無いだろう。
そしたら、一体誰?
「まさか……」
秘妃美は一つの可能性を思い浮かべる。
位置情報を送った名も知らない業者さんが迎えに来てくれた、そんな可能性。
コンコンコン。
「……はい」
ガチャリ、と扉を開ける。
そこには。
「やぁ、秘妃美ちゃん。どう? 働く気にはなったかな?」
「……おじさん」
扉の前に居たのは、おじさん。
弐年前、親の葬式の時に初めて会ったおじさん。
お金の管理や、引っ越しのアドバイスをくれた優しいおじさん。
そして、いつも……。
「おっ、良い表情だね。壱枚、もらうよ」
パシャリ。
パシャリ。
パシャリ。
いつも、私の写真を撮るおじさん。
「それで、お仕事どうする? あれ以上良いお仕事、おじさんは見つけてあげれなくて」
「……(フルフル)」
「そっか……住む場所はどうするの? もし、だけど秘妃美ちゃんさえよければ、うちに来るかい? 服だって新しいの買ってあげるよ?」
「……(フルフル)」
この人、やっぱり苦手だ。
「そっか……お腹空いてない? 何か食べに行く?」
「……(フルフル)」
食事は大好き。だけど、おじさんとは嫌だ。
くちゃくちゃ音を出して食べるし、注文するだけして食べ物を残すおじさん。
私の尊い時間を汚すおじさん。
だから苦手だ。
「そっか……おじさんも手を差し伸べれるのはこれが最後になるんだよ?」
「感謝してます」
「それなら、なぜ?」
食を大切にしない人が嫌だ、なんてとても言えない。
今まで、何とか生きてこれたのもおじさんのおかげ。
今着ている服だって、おじさんがプレゼントでくれた服だ。涼しくて、正直助かっている。
古い冬服はおじさんが引き取ってくれて無駄な荷物が無くて助かっている。
私の年齢でもお金がもらえるお仕事を探してきてくれて、助かっている。
それでも!
「ごめんなさい、やっぱり私はおじさんとはこれ以上無理」
「……そうか……」
短い沈黙。
そして、写真を撮っていたスマートデバイスがピコン、と音を鳴らす。
「おじ、さん?」
「最後なんだし、記念に動画、撮らせてよ」
目つきが怖い。
思わず、後ずさる。
「おじさんは秘妃美ちゃんのお母さんと仲良しでね、秘妃美ちゃんの事、何かあった時はお願いされてたんだよね」
「何、ですかいきなり」
「だから、秘妃美ちゃんの成長を見守る義務があったんだ。でも、君は明日から自分の力で生きていかなきゃいけない」
「……」
「おじさん、最後まで面倒をみれなかったけど、秘妃美ちゃんが自分で選んだ道だもんね、おじさん、応援するよ」
動画を取りながら、靴を脱ぎ捨てると部屋の中へと入ってくるおじさん。
「秘妃美ちゃんは身長いくつになったんだっけ?」
「百五十……」
「体重はいくつかな?」
「五十八……」
「よく食べるし、栄養は身長より全部そっちにいっちゃったんだね」
「むぅ」
体中を舐めまわすように動画を取り終えると、おじさんは言う。
「秘妃美ちゃん、最後に一言どうぞ」
「今まで、ありがとう」
ピコン。
動画の撮影が終了する音。
「良かったよ秘妃美ちゃん。もしも、もしも明日以降困ったらいつでもおじさんのうちにおいで」
「……」
おじさんはそう伝え終えると、あっけなく帰っていった。
これで、本当に独りだ。
夕暮れ時。
陰る日の光。
静寂だった世界に再び音が舞い降りる。
カツン、カツン、カツン。
カツン、カツン、カツン。
コンコン。
『その人は一体何者ですの?』
外からは女性の声。
近隣は若い男の人しか住んでいない。
つまり、住民ではない。
でも、もぉ誰でも良いや……。
「あいてます」
少しの間をあけて、ガチャリと扉が開かれる。
「失礼、ここに秘妃美という人が居ると連絡を貰ったんだが、心当たりは無いか?」
「……私、です」
小さく手を上げる私。
扉の向こうには、ウェスタンハットを被ったサングラスの男と、お姫様みたいに綺麗な女性のシルエットが視界に入った。
続く!