3 危機をはね返すルピナス
侯爵子息アドニス・バーゼットは浮かれていた。
(いよいよ? いよいよなのか!? まさか、あのルピナス殿が!)
今宵も紺碧の空と月の出を合図に、素顔を隠した紳士淑女が群れていた。
装いには多少の奇抜さを盛るのが粋とされる。鳥の女王よろしく背中に羽を付けたり、瞳の部分に凝った色硝子を嵌めたり。慎重な客は口元だけが露出するぴったりとした白面を着けていた。さながら動くビスクドールだ。
いっぽうアドニスは、ほぼ隠さない。
目の周りと眉のみを覆うシンプルな仮面は銀のビーズを縫い合わせたもの。いわばレンズのない眼鏡のようなものであり、今も熱っぽい視線をくれる妙齢のご婦人からは完全にバレていた。――名を呼ばれないだけで。
鬘も被っていないため、当然と言えば当然だろう。この辺りで肩までの茶髪と菫色の瞳を持つ貴族男性はそう居ない。
ど
むしろ、わかった上で素性を探らないのが唯一のルール。
だからこそ訪れる人びとは何のしがらみもなく自由な夢を満喫できる。
――――たった一夜限りの。
「宴はまだ始まったばかりですよ。また逢いましょうね、美しい人」
「あっ……ちょっと!」
ご婦人は憤慨していたが、アドニスはいちいち構わなかった。急がなければ、せっかく見つけた特徴ある髪の人物を見失ってしまう。
背格好といい間違いない。彼こそが今をときめく王太子妃の双子の弟にして、東公息女ミュゼルの婚約者。北公子息ルピナス・ジェイドだ。
あまりがっついては逃げられるかもしれない。胸の高鳴りが相手に伝わらないことを祈りつつ、アドニスは目当ての青年に近付き、そっと肩に手をかけた。
「やあ、こんばんは」
「……」
振り向いた顔が近い。背は自分のほうがやや上。
スタンダードな黒い仮面に、長い睫毛に縁どられた黒曜石のような瞳がうっとりするほど綺麗だ。
紺色の長い髪はほとんど帽子に隠れており、こめかみから一筋こぼれるだけ。我ながらよく見逃さなかったと感心する。神秘的な色彩と美貌に反し、むっと口の端を下げるのがなんとも可愛らしかった。
(姉君とは違う、不機嫌な猫っぽい様子もいいなぁ)
が、夜会のルールを主催者みずから破るわけにいかない。
アドニスは、急く心を懸命に宥めてにっこりと笑った。
「初めてかな? ここでは素敵な女性との語らいやダンスもいいけど、紳士専用の気取らないカードルームもある。よかったら案内しよう」
* * *
ダンスのためのボールルーム、隣接するサロン。いくつかの休憩用個室。それらはすべて来客者に開放されており、大抵のことには目を瞑る仕様になっている。
とはいえ、目当ては艶事だけではない。一般的な愉しみも抜かりなく提供していた。
サロンでは女性が好みそうな占い師や歌手、画家を集めているし、彼らとパトロンを繋ぐホスト役も果たしている。
対して、ひとつ扉を抜けた先は紫煙がくゆる、怪しくもゆったりとした大広間。ここではあらゆるカードやボードゲームとその達人を配し、紳士らは思い思いの金額を賭け、遊興に耽りつつ談笑していた。(※たまに借金まみれになる輩もいるが)
――まあ、彼らの大半は階級だの家だのを忘れて息抜きがしたいだけ。女性向けサロンで大盛り上がりな妻たちを待つ、健気な夫たちの部屋でもある。
アドニスは給仕から盆上にひとつしかない花模様のワイングラスを受け取り、藍髪の青年に渡した。
「まだ飲んでないね。どう?」
「どうも」
「カードでもしようか。あっちが空いてる」
部屋は広いが、適度に間仕切りを立てて半個室をいくつも作ってある。
アドニスはその一つを選んだ。丸テーブルを挟んで一人掛けのソファが二脚置いてある。ルピナスと思わしき青年は促されるままに座った。自身も手にした蒸留酒を口にし、ルピナスが(なぜか)溜め息をついてからグラスを傾けるのを確認する。
アドニスは、喜々と語りながらカードを取り、手札を配った。
「パートナーは? 今日はいないの?」
「……」
「だんまりか。別にいいけど。ポーカーでいい?」
「好きにどうぞ」
――ずいぶんと投げやりなので、これは、ひょっとしたらミュゼル嬢と派手に喧嘩でもしたのかもしれない。
アドニスは、綻びそうになる口もとを必死に抑えた。
そこから賭け金なしで二回。どちらもアドニスが勝つ。
頃合いかなと視線を上げると、ちょうど額を押さえ、テーブルに突っ伏しそうな黒仮面の青年が見えた。
(よし!)
心で快哉を叫びつつ、表面上は心配そうに立ち上がり、徐々に傾くルピナスの上体を支えに回った。「つらそうだね、失礼」
断りなく帽子をとると、滝のようにこぼれ流れる藍色の髪に目を奪われる。よろめくルピナスに肩を貸し、主催者しか知らない、柱にしか見えない扉を押して隠し小部屋へとまんまと連れ込んだ。
「なんの、つもりだ」
「ん? まだ喋れる? 流石は北公令息どの。うるわしいのに気丈なんだね」
「っ、触るな! 答えろ。今までも、こんなふうに客人を酔わせたのか?」
「酔わせるのはこれからなんだけど。そうだなあ、ちょっと仕込みはしたよ。飲み物にね」
「ド変態。卑怯者……!!」
「どうとでも」
力が入らないらしい両腕を拘束し、長椅子に押し倒す。怒りに燃える夜色の双眸にぞくぞくした。
が、とたんにスッとまなざしから熱が消え失せる。
ルピナスは気怠げに口をひらいた。
「ところで」
「ん?」
「なぜ、俺なのか。理由を訊いても?」
「ああ、そのこと。そっか、騎士団のほうで一緒になったときから好意は隠してなかったつもりだけど。もとはと言えば、きみの姉君に一目惚れしたんだ、王都で」
「…………ッ、痴れ者が!」
「え!!?!? ごふっ!!」
反転。
いや、まずはあり得ない衝撃が腹部に叩き込まれた。床に仰向けに倒されてから、髪をかき上げながら半身を起こすルピナスの姿勢に、勢いよく蹴られたのだと知る。
どうやらそれでも怒りを抑えているらしい貴公子は、乱暴に仮面をむしり取り、みずからの美貌を露わにした。
つめたさの極致のような凍れる視線に、ゼローナ北部に君臨するという冬将軍の猛吹雪を見た気がした。痛みで呻きつつ血の気が下がる。
「ま、待て。僕にこんなことをして、ただで済むと……」
すると。
「――――そこまでよ!!!!!」
バァン! と、扉がひらかれた。
驚いて固まるアドニスと、今まさに片脚をあげて追撃を食らそうとしていたルピナスは同時に侵入者を見つめた。小柄な占い師だ。
「な!?」
「来るのが早い、ミュゼル。まだ踏んでないのに」
「踏ませる前に来たのよ、ルピナス。だめでしょう? アドニス殿がお婿に行けなくなっちゃうわ」
「貰い手があるのか?」
「あるのよ、それが」
辛辣な一言に、暗い色の布を被り、髪を見えないようにぴっちりと髪を隠したミュゼルは、ふふん、と胸を張った。
隣室のサロンで、辻占いに扮していたのだ。
事前に放蕩息子の行いを嘆くバーゼット侯爵夫人から許諾は得ていた。あとは、カードルームで働く給仕に奥方から特別給金を弾んでもらえばいい。
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こうして、不敬罪もろもろ他の言質を得た上で、現場の取り押さえはつつがなく完了した。




